ここからは、ニュータイプを描いたこの物語の、描写そのものの意味を読み解いていきたいと思います。
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ニュータイプの能力
劇中のニュータイプ描写は、主に能力の発露という形で描かれます。
まずは、ニュータイプ達が発揮した能力の描写から、その能力がどういったものなのかを掴みたいと思います。
閃光
この光は、敵の攻撃、見知った相手の存在、相手の意図などを察知した瞬間に発せられるものです。
アムロ、ララァ、シャア、セイラ、ミライとほとんどのニュータイプがこの能力を発現しています。
レビルの見解によると、ニュータイプは認識力が拡大して並外れた直観力と洞察力を有しているため、我々には感知し得ない事象を察知することができても不思議ではありません。
具体的な例として、ララァやミライはしばしば予知のような直感を見せています。
そういった能力とこの閃光の違いを考えてみます。
敵の攻撃を感知したパイロットは、回避運動に入ります。ハモンやララァを感知したアムロは、彼女達に向かって行きました。戦意を喪失するアムロに気付いたミライは、敵との交流を止めるよう呼び掛け、セイラが戦いを止めさせようとしているのがわかったララァは、シャアを制止しました。
閃光が走った直後には、ニュータイプ達が何かの行動に急き立てられています。
我々の認識し得ない現象を感知し洞察する、あるいは直観によって把握するニュータイプの能力において、それが性急さの中で直感として発揮される場合に、閃光が走る描写が採用されているのだと思われます。
脳波干渉
そうなると、その我々が認識し得ない現象とは何なのかという問いが生まれます。
認識し得ないことが前提であるため、これを完全に把握することは原理的に不可能ですが、1つヒントになるものがあります。
それがララァの攻撃です。ララァは脳波によってビーム兵器をコントロールしており、そのため疲弊すると頭痛を起こしています。
そのララァの攻撃を受けた際、レビルは頭痛を覚え、ミライは違和感を訴えており、セイラは呼ばれたように感じ、アムロに至ってはララァのイメージが想起されています。
ニュータイプには、この脳波を認識する能力があるのだと思います。そして、感知する度合いが低ければ単に異物として認識され、度合いが高くなると声などの具象性を帯びてくるのではないでしょうか。
そうであるならば、この感知される脳波を元にした直観によって、先に見た敵の攻撃や相手の存在、その意図に対する直感が生じていると見ることもできるのではないかと思われます。
ニュータイプの直感には、マチルダが死んだ時のアムロや、リュウが死んだ時のミライ、セイラのように、身近な人間の死を感じ取るというものもあります。これらも脳波から断末魔のようなものが聞こえたと解釈すれば、納得がいきます。
精神の交感
先程、脳波干渉の項で、感知する度合いが高ければ脳波の認識が具象性を増すのではないかと言いました。
もしその脳波が既に見知った相手のものだった場合、洞察力と直観力に優れたニュータイプなら、相手の精神体とでも言うべきものをより明確に認識できるのではないでしょうか。
例えば、怒っている時に瞬きの回数が増える人がいるとします。その人に初めて会った人は、普段より瞬きが多いことにも気付きません。知り合い程度の人は、なにかしらの違和感には気付くかもしれませんが、その人が怒っているかどうかはわかりません。その人と長年付き合ってきた人ならば、瞬きの多さからその人が怒っていることを察するでしょう。
このようなことが起こり、見知ったニュータイプ同士なら、相手の脳波の機微から思っていることを感じ取ることができるのではないでしょうか。
また、同じことは発信する側にも言えるかもしれません。アムロは、シャアやホワイトベースのクルーに、具体的な意思を伝えることに成功しています。見知った相手の認識に対しては、脳波をコントロールすることで最適化したコミュニケーションを行うことも可能なのではないかと思われます。
わかりやすく言えば、よく知る相手に対して、ニュータイプはテレパシーが使えるということです。
ニュータイプとエスパー
テレパシーまで使えるとすると、ニュータイプとはつまりエスパーなのでしょうか。
マチルダは、ニュータイプのことをカンのいいエスパーのようなものと言いました。
このエスパーのようなものが、エスパーの内包、または外延にあたるものなのか、あるいは全く異なる概念なのか、特別編の中では説明されません。
仮に、ニュータイプをエスパーの範疇とした場合、その能力は説明不可能なもので、因果律を超えたものと言ってよいでしょう。閃光が走る直感能力の拡大版として、未来を読み取ることも可能かもしれません。
しかし、アムロが言うには、ニュータイプは未来のことがわかるわけではないそうです。ここでは、ニュータイプの能力をあくまで因果に縛られたものとして理解したいと思います。
予知
それでも、劇中ニュータイプ達は未来予知めいた能力を発揮しています。ニュータイプになっても因果から解放されるものではないとした場合、彼等の言動はどのように解釈できるでしょうか。
ララァの予知描写
劇中でも明らかに独特な雰囲気を纏った少女であるララァは、予言めいた描写が2度あります。1つは白鳥の死を予知した「かわいそうに」であり、もう1つはホワイトベース隊とコンスコン隊の戦闘中継映像を見た時の「白いモビルスーツが勝つわ」です。
ララァは、白鳥の寿命が尽きかけていることを察知しました。彼女は、活きの良い魚や調子のいい馬を見分けるように、生物の動きから生命力の強さのようなものが読み取れるのではないでしょうか。美しいものを愛するララァには、白鳥の生命力の衰えを直観したのだと思います。
ガンダムの勝利を予見したのも、それと似たことではないでしょうか。シャアの言葉を信じると、ララァは見たこともないガンダムが勝つとわかったようですが、映像にはガンダムの姿が映っています。ララァと一緒にいる時のシャアはどうも注意散漫な様子があり、見逃していたものと思われます。テレビに一瞬映ったガンダムが他のモビルスーツより活き活きとした動きを見せることから、ガンダムが勝つことを感じ取ったのではないでしょうか。
ミライの予知描写
ミライは、黒い三連星と呼ばれる敵の襲撃を受けた際、「少し間に合わないかもしれない」という発言を見せました。事実、この後マチルダが戦死するほどの苦戦を強いられます。
しかし、彼女の口調にはそれほどの緊迫感は感じられず、直面する危機がはっきり認識されていたわけではないようです。
彼女が直観したのは危機そのものではなく、連戦で被った損害を回復できない上に、慣れない新編成を組むホワイトベースのことではないでしょうか。状況への対応が遅れていることを、ミライは「間に合わない」と表現したのだと思います。
アムロの予知描写
ソーラ・レイの発射を予知したアムロは、それを「憎しみの光」と表しています。
アムロは、戦闘時にたびたび敵の攻撃を回避しているので、ソーラ・レイもビーム兵器の巨大なものとして察知できても不思議ではありません。
ただ、この時のアムロは確かにただ事ではない様子を見せています。ソーラ・レイが普通のビーム兵器と異なるのは、戦略兵器、ないしは大量破壊兵器である点です。
一つの号令で無数の命が無意味化していく様を「光と人の渦が溶けていく」と表し、戦争終結を望む人々を屠った攻撃を「憎しみの光」と呼んだのでしょう。
アムロの様子から、あまりの凄惨さにそう口走ったと思われます。タイミング的には発射された瞬間のようなので、ビーム攻撃の発射と同時に、攻撃がもたらす惨禍が予測できたのだと思います。
以上のことから、未来予知に見えるいくつかの描写は、彼らなりの直観によるものだと結論したいと思います。
寿命の予知は、生命力に対する洞察。危機的状況の予感は、自軍の機能不全に対する直観。そして、大量破壊兵器の使用がもたらす被害予測。
いずれも、情報の処理の仕方は直観的ではあるものの、それらは全て現在時点での観察の結果得られたものであり、未来そのものを予知しているわけではないようです。ソーラ・レイも目視不可能な位置からではあるものの、発射された時点での確定した被害に対する予測です。
直観力と洞察力に優れたニュータイプには、おそらく一個の有機的な連関に収まる範囲の単純な予測なら可能なのだと思います。しかし、数時間後の戦況など、いくつもの要因を複雑に考慮する必要がある事象に対して、情景が浮かぶような未来予知や、結果のみを予言するといったことはできないということでしょう。
敵を見るニュータイプ
今まで見てきたように、ニュータイプはパイロットとして非常に優れた能力を有しています。覚醒したニュータイプ達は、その優れた力で何と戦おうとしたのでしょうか。
アムロの敵
ソロモン攻略の際、アムロはドズルの背後に、邪悪な影を幻視しました。ジオンの栄光という妄執が、幻影として直観されたのだと思います。今まで目の前の敵と夢中で戦ってきたアムロは、おそらくあの瞬間に初めて、倒さねばならないもの、戦う目的を認識したのではないでしょうか。
シャアの敵
では、ライバルのシャアはどうでしょうか。
ザビ家打倒を誓いながらザビ家を討つことができなくなったシャアは、ニュータイプのララァを世の中に開放することを自らの正義としました。ただし、この時は新たな大義に少々浮き足立っていたようで、ニュータイプの時代に何か具体的なビジョンがあるわけでもなく、その手段というのもララァを戦場に立たせることだけでした。
この時シャアが敵視していたのは、オールドタイプです。このオールドタイプという言葉が登場するシャアとセイラのやり取りは、以下のような内容になります。
セイラ:父の仇であるザビ家を討つと言ったシャアが、なぜジオン軍にいるのか
シャア:父の革命を否定しようとしたもの(オールドタイプ)全てを討ち滅ぼすためだ
セイラ:(オールドタイプに)倒すべき悪を見出さずとも、ニュータイプによる革命は実現できる
シャア:旧体制がニュータイプを利用すれば、革命はイデオロギーを失う
セイラ:ニュータイプはイデオロギーではなく、意思を持った人である
シャア:個人にできることは限られている
セイラ:兄さん一人で世界を作ろうとするのは間違っている
シャア:革命の実現に、必要なことをやるだけだ
ここからオールドタイプという語の意味を読み解いてみます。
まず、父ジオンの革命を否定したものとは、ザビ家です。ですが、敵をザビ家ではなくオールドタイプとした理由は、ザビ家だけを倒しても革命は達成されないからです。ジオン軍にいて打ち倒せるのは地球連邦なので、地球連邦という体制そのものをオールドタイプと称しているのでしょう。
ララァの敵
ララァの場合は単純でした。彼女は自分を救ってくれたシャアとジオン軍を守るために戦うのであって、シャアの命を脅かすものが敵です。
彼らはそれぞれ、地球連邦軍とジオン軍に属している関係上、戦場で敵対します。
めぐりあい
ニュータイプとして力を示すアムロとララァは、戦場で相対しました。
ガンダムのパイロットがアムロだと気付いたララァは、シャアを守るためにアムロを倒すという意思と、アムロとはわかり合えるのにという情意の間で葛藤を見せます。
ララァ:恩に報いるために命を捧げることは人の世の真理だ
アムロ:人を守るために戦うのなら、今この出逢いも人の繋がりだ
ここから、アムロを責める言葉だった「なぜなの」が、自らの運命に対する問いに変わります。
アムロ:敵として出逢うのが運命というなら残酷なものだ
ララァ:出逢いを経ても、今までの立場を変えることはできない
アムロ:出逢いそのものは認めねばならない事実だ
ララァ:何も生まない出逢いに、何の意味があるのか
自らの心根に正直すぎたララァは、わかり合えたアムロを敵と見なせなくなり、戦意を喪失してしまいました。
ニュータイプ同士のめぐりあいは、シャアを撃とうとしたアムロによって、シャアを庇ったララァが撃たれるという悲劇を迎えました。
因果に翻弄され、人間の革新であるニュータイプが、戦いを止めてわかり合えることができた相手を殺してしまうのです。
ララァとの出逢いを通じてアムロは、戦う人ではなかったララァのような人を利用して戦争をする存在を許してはならないと感じたはずです。
そして、ソーラ・レイのような人の命の価値を無に還す兵器を使うザビ家を倒すという意思を固めたのだと思います。
ニュータイプのアムロが乗るガンダムに、他でもないララァが撃たれる瞬間を目の当たりにしたシャアは、ニュータイプの時代を築く自分の前に立ちはだかったガンダムを敵として認識します。
ここに至って、オールドタイプという漠然とした対象に向けられていたシャアの敵意は、ガンダムという具体的な事物へ収束します。
対峙するニュータイプ
アムロは、ララァを利用した存在の大元であるザビ家を倒そうとしました。シャアは、オールドタイプを倒すと言って、結果自分と直面したガンダムを敵とします。
シャアへの個人的な憎悪と戦う目的を切り離すアムロに対し、大義を成そうとするシャアがガンダム一個の打倒に拘ります。
ア・バオア・クーでの最終決戦、ニュータイプ専用機のジオングで出撃したシャアは、アムロからシャア以上のニュータイプのようだと誤解されています。
この時のシャアは、以前よりニュータイプ能力を向上させているようです。どういうタイミングでニュータイプ能力が向上するのかは定かとされていませんが、この前後におけるシャアの最大の変化は、ララァを失ったことです。
ニュータイプの世を築くという理想に対して具体的な方策を持たなかったこれまでよりも、大義は揺らいだものの強敵ガンダムを倒すという明確な目標が出来て、シャアは力を伸長したようです。あるいはニュータイプ専用機の操縦に対応しようとして、力が引き出されたのかもしれません。
いずれにしろ、ララァを失ったことでシャアは、自分の意志で敵に立ち向かう必要に迫られています。能動的な意志が、能力を拡大させたようです。
ニュータイプの覚醒を見せたシャアはガンダムを見つけ迫っていき、遂にアムロもシャアを敵と認識します。
こうして、ザビ家という共通の敵を持つニュータイプ同士の2人が、対決することになります。
シャアも善戦しますが、ララァが死んだのはシャアのせいだと詰められ、モビルスーツ戦ではアムロを討つことができず、戦いは舌戦を交えた白兵戦に流れ込んでいきます。
ザビ家のいる要塞司令部に向かおうとするアムロに、シャアが以下のように絡んでいきます。
シャア:ニュータイプに覚醒したのは、その手で殺したララァのおかげかもしれない
シャア:戦争という大きな時代の流れの必然だ
それに対し「それは理屈だ」とアムロが言うと、シャアは「正しい物の見方だ」と返します。
また、ここから突入するフェンシングにおいても、ニュータイプも体術は普通の人と一緒だと言うシャアに、アムロは「そんな理屈」と言い返し、事実、対抗していきます。
シャアの言葉は常に理屈の上では間違っていませんが、アムロはその理屈の正しさをこそ糾弾しようとしていきます。
そしてついにアムロの剣がシャアのヘルメットを、シャアの剣がアムロの利き腕を貫き、互いのヘルメットがぶつかった瞬間、両雄の意思が疎通します。
アムロ:「今、ララァが言った。ニュータイプは殺し合う道具ではないって」
シャア:「今という時では、人はニュータイプを殺し合いの道具にしか使えん。ララァは死にゆく運命だったのだ」
この後セイラが介入し、アムロに恨みがあるのかとシャアに問うと、死にゆく運命と語ったその口でシャアは「ララァを殺された」と言ってのけます。それじゃ理由にならないとセイラに反論されると、さっきまで殺そうとしていたアムロに「同志になれ」と持ち掛け、アムロに正気を疑われます。
この一連の流れは、アムロの戦士としての成熟を非常によく示しています。
表面上は、感情的なアムロに理性的に返すシャアという構図です。
ララァを巻き込んだ
ララァが戦場に来たのはシャアを守るためであり、実際にシャアの身代わりになって死にます。それに対するシャアの言葉は、戦争でニュータイプに覚醒したララァが戦争で命を落とすのは当然だというもので、事実関係として正しくても責任を回避する言葉にすぎません。
また、戦争という大きな事象でニュータイプ能力が開花するというのは、アムロのニュータイプ能力をララァ個人がもたらしたとする、自分の言葉を否定してしまっています。
そんな理屈
シャアがアムロの利き腕を潰したのは、非常に合理的な判断です。実際、この攻撃によってアムロは戦闘不能になります。対してアムロがヘルメットを狙ったのは、戦闘訓練を受けていなかったからかもしれません。
しかし、そこまでのフェンシングで互角に戦っていたことを見ると、この戦いに訓練は無関係な気もしてきます。もしかするとアムロがシャアのヘルメットを狙ったのは、戦闘力を削ぐよりも優先することがあった、シャアの意思そのものを打ち砕くべきだと思ったからではないでしょうか。
アムロの剣は、仮面で隠し続けてきたシャアの素顔に、一生残る傷を付けました。
貴様だってニュータイプだろうに
ララァの言葉として自分達の争いを否定するアムロに、シャアはまたも現実的な話として、ララァとニュータイプの限界を指摘します。
この言葉は、ニュータイプと己を信じた結果として悲劇を引き起こしてしまったという悔恨から来たのではないでしょうか。自分を信じさせるものに否定的な感情しか抱けないという屈折した自我を、シャアのこの発言からは感じます。
自分の直面する問題にあくまで他人事のような態度を固持し、俯瞰的な立場でいることが正しいのだと主張し続けるシャアに対して、自身の感情に向き合えとアムロは怒りをぶつけます。
刻が見える
劇中でアムロは、死んだマチルダとララァの声を聴いています。マチルダもララァも、ともにアムロが特別な感情を抱いた女性です。
これについては描写されているのがアムロしかいないため、2つの可能性が考えられます。
一つは、愛していた人間を失ったアムロが、自分の中にあるその人の思い出から1個の思念体のような人格を作り上げ、無意識にその人が言いそうな言葉を言わせていた場合です。先に見たように、直観力に優れるニュータイプならば、思い出から人格を構築するのも難しくないと思います。この場合気になるのは、アムロに声を掛けた彼女たちは厳密には彼女達自身ではないということですが、いくらか現実的です。
もう一つは、アムロに呼び掛けた声が実際に彼女たちの声である可能性です。この可能性について、もう少し深く見ていきます。
祈りの思念
ララァが死ぬ瞬間、悲鳴を上げた肉体とは別に、彼女の意識を穏やかな海のイメージが満たしていきます。
その後、鳥のように飛翔しながら溶けていくララァがアムロに語りかけるのは、人の未来に対する希望でした。アムロも、ララァと判り合えたのだから人が判り合えることも信じられる。人はいつか、時間さえ支配できると答えました。
最後に「刻が見える」という言葉を残して、ララァの精神は彼方へ飛び去ります。
ララァの戦死は、因果に縛られた人間の悲劇でした。だからこそ、ニュータイプとして敵同士でありながら邂逅を果たした2人は、人類が悲劇の因果を乗り越えられるようにと祈りを込めるのです。
ララァは死にましたが、彼女の精神は消滅したのではなく、思念として刻の、つまりは世界の一部になったのではないでしょうか。そしてララァと精神の交感をしたアムロだけが、彼女の声を聴き分けることができるようになったのだと思われます。
マチルダの祈り
アムロは、マチルダの死をはっきりとイメージで知覚しました。彼女の精神が肉体を離れる瞬間を、捉えていたと思われます。
その後、敵の急襲を受けたアムロは「大丈夫」というマチルダの声を聞きます。
マチルダは、ホワイトベースを守ることに命を懸けました。アムロは生前の彼女から、その意思を直接聞いています。
彼女のその遺志が刻の中で生き続け、ホワイトベースの危機に際し、戦い続けられるようアムロに語りかけたのではないでしょうか。
ララァの祈り
ララァは、「殺し合うのがニュータイプじゃない」ということをアムロに告げました。
1度目はシャアとの対決時、2度目はシャアに敗れた後です。
敵対していてもアムロとわかり合えたララァは、アムロとシャアの戦いも止められるのだと言いに来たのでしょう。
また、戦闘不能になったことで死を受け入れるアムロに、戦いだけがニュータイプの生きる道ではないと告げます。
帰れる場所
手向け
シャアは最後までアムロに抗し続けましたが、アムロやセイラと別れると、一人キシリアを討ちに向かいました。
シャアが殺したガルマは、シャアの友人でもあり、彼はキシリアに認めてもらたいという思いで戦争をしていました。
シャアがキシリアを殺した動機は、正確にはわかりません。ザビ家への復讐という積年の大願を果たしただけかもしれません。ニュータイプの世を作るための一歩として、ニュータイプを道具として戦争に用いたキシリアを討ったのかもしれません。直前に言っているように、チャンスを最大限に生かしただけかもしれません。
ですが、キシリアを討つ瞬間、ガルマのことを思い出していたのは確かです。大義に身を置くことに拘ってきたシャアが、友人への手向けというごく個人的な動機を口にしたことは、仮面と同じ傷を負ったことと何か関係があったのかもしれません。
ララァを利用したシャアが許せないというアムロの怒りが通じたシャアは、愛したララァと友人のガルマを戦争に利用したキシリアを、大義よりも個人的に討とうと思った。そういう風に考えると、アムロとシャアの決闘に意味を見出だせる気がします。
生還
戦うことができなくなったアムロは、一度死を受け入れます。戦いに負け、自らの手の中で最期を遂げたランバ・ラルの姿を思い出していたかもしれません。
ですが、ララァの声を聴き、戦い以外に自分がやれることを見出します。
アムロは、セイラをはじめ今まで戦ってきた仲間達に脱出を呼びかけました。クルー達もみな、アムロの声を信じて脱出を図ります。
再会した兄に失望したセイラは刺し違える覚悟までしましたが、その兄を失ったことで生きる意味をなくします。
それでも、アムロの言葉を聴き、ホワイトベースへ向かう決意をします。最後には胎児のように体を丸めると、兄とは反対の方向へ出て行きます。
なかなか姿を現さないアムロに仲間達が不安を覚え始める中、カツ、レツ、キッカ子供達3人がアムロの脱出を導き、ララァに別れを告げ、ボロボロの機体を乗り捨てたアムロは仲間達の元へ生還しました。ファースト・ガンダムで描かれる、ニュータイプの起こした最大の奇跡で、物語は幕を閉じます。
帰る場所
作品冒頭のナレーションで語られる戦争の経過が、新しい人類を生み出すメタファーになっていることを先に述べました。
では、この物語のラストは何を表しているのでしょうか。
因果にとらわれ、大義を背負うシャアとしての人生を生き続けてきた男は、自分が大義に生きることになった理屈であるところの、ザビ家を討つという目的を成し遂げました。最後に一人の男として、為すべきことを為したのです。
戦争で故郷も家族も失い、人を愛してもおらず守るものもないと言い切られたアムロは、ララァに導かれてホワイトベースのクルーを誘導します。ガンダムという自己表現しか持たず、孤独に生きていた少年兵が、最後は話しかけることで命を救い、ガンダムを喪うのと引き換えに、受け止めてもらえる仲間を得たのです。
このラストシーンで、2人のニュータイプは戦争という巨大な因果に勝利したと言えるのではないでしょうか。
彼らは、戦いに身を投じることになったしがらみから解放されて、戦争後の生を生きることを選択したのです。ア・バオア・クーからの脱出は、彼らにとって業から解放される転生のよつなものだったのではないでしょうか。
『ファースト・ガンダム』におけるニュータイプ
以上のことをまとめると、次のように言えます。
孤独を知り、純粋な目で物事を見つめ、理性で物事を判断する。また、未知のものを受け入れる度量で他者や世界を信じて、現実へ能動的に働きかける意志を持つ人々がニュータイプとして目覚める可能性がある。
ニュータイプとして目覚めた人々は直観力洞察力に優れ、拡大した認識力によって普通の人々が気付かないような物事がわかるようになる。さらに、近しい人々となら、テレパシーによってより深い交感を行うことも可能となる。
ここまでの革新を果たしながら、人は因果が生む悲劇を回避できませんでした。少なくとも過渡期であるこの時代において、ニュータイプは完全ではありませんでした。
革新を果たしながらも完全ではないニュータイプ達は、それでも“戦争という呪縛からは己を解き放つことができた。今を生きる自分達を信じることを選び、人の可能性に祈りを込めた”。それがこの物語の示したニュータイプ像なのではないでしょうか。
そういう風にニュータイプを捉えるなら、先に挙げた9人以外のキャラクターも、やはりニュータイプに変わりゆくのだと思います。
レビルから薫陶を受けていたであろう、何でも知っているようだと言われるマチルダは、上で見たようなニュータイプの特性を有していると言えないでしょうか。もしかするとアムロに呼び掛けることが出来たのは、既にニュータイプへの目覚めを遂げていたからかもしれません。
皮肉屋として描かれ、ニュータイプを茶化すような態度を取るカイも、死んだミハルの声を聴いてジオン軍と戦う決意を固めたりと、強い意志で現実に立ち向かう姿を見せています。
ニュータイプを理想論だと切り捨て、軍隊秩序を重視しようとしたりなど、ニュータイプ的な在り方から比較的遠いとされるブライトですが、ア・バオア・クーの防御力が感覚的に把握できたようです。
彼らのような人間も、ラストシーンでアムロの声を聴くことができたように、ニュータイプへと変わっていく道筋が開かれている。『ファースト・ガンダム』が示したニュータイプの有様には、そうした可能性が含まれていると結論付けたいと思います。
ここまで語ってきましたが、これはあくまでファースト・ガンダム特別編におけるニュータイプの可能性です。
他にもアクシズ・ショックというニュータイプの起こした最大の奇跡を描いた『逆襲のシャア』、主人公カミーユ・ビダンが宇宙世紀ニュータイプの究極系とされる『新訳Z』、そして今回の福井晴敏氏の手掛けるガンダム作品など、ニュータイプ像とされるものはそれぞれの作品で異なります。さらには富野監督の最新作『Gレコ』においても、他に適当な言葉がなかったという消極的な理由だそうですが、主人公はニュータイプとされます。
このようにニュータイプの概念は変わっていくのですが、ファースト・ガンダムにおけるニュータイプはその全ての可能性を孕むものとして提示されているのだと思われます。