新条アカネはなぜツツジ台を創ったのか

 SSSS.GRIDMAN最高でした。あの世界について少し考えてみたので、ここに書いてみたいと思います。それおかしいんじゃねえの?って思う方がいれば意見ください。

 

 なんで新条アカネがあの世界(ツツジ台)を創造したのか。そのヒントはおそらく、ED映像にあると思われます。

 ED映像は、実写に近い背景の中で一緒にいる新条アカネと宝多六花の映像であり、最後に一人佇む六花の姿で締め括られます。

 そして本編ラストシーンは、実写世界で目覚める少女の姿で幕を閉じます。この少女、文脈的に新条アカネと思われるのですが、その姿は宝多六花に似ていました。

 アカネが単に理想的なアバターとして、ツツジ台の新条アカネとして振る舞っていたということも考えられますが、ED映像とラストシーンを踏まえて解釈すると、現実世界のアカネはツツジ台の六花のポジションであり、ツツジ台のアカネのような友達がいたのではないかと思います。これ以降、ラストシーンの少女を「アカネ(現実)」、ツツジ台のアカネのような友達を「友人」と呼称します。

 ではなぜツツジ台では、自分は現実の友達である少女「友人」として振る舞い、現実の自分の姿に似せて自分の友達「宝多六花」を生み出したのでしょうか。

 ED映像を鑑みるに、現実世界ではアカネ(現実)と友人の関係は崩壊してしまったのだと思われます。そして友達の存在がアカネを救済するエンディングから逆算して、アカネ(現実)がツツジ台に引き籠った原因も、その辺にあると考えたいと思います。

 アカネはツツジ台で、単に友人のフリをしたかったのではなく、その友人を神様にしたかったのではないでしょうか。

 アカネは、ツツジ台を神様である自分にとって理想の世界にしようとしました。ツツジ台が現実世界のシミュレートだとすれば、それは「友人」にとって理想の世界です。

 なぜそんなことをしなければならなかったか。それは現実世界が「友人」にとって、苦しい世界だったからではないでしょうか。

 ツツジ台においても、「友人」になりすましたアカネは、アカネの似姿である六花と疎遠になっており、六花になみことはっすを与えています。アカネが考える友人の理想の世界は、アカネと友人が親友である世界ではなかったのです。

 神様であるアカネは、「友人」である自分を苦しめる存在を否定しようとします。そして自分の似姿である六花には、親友としての立場を一度放棄させています。現実の友人は、アカネに自分を助ける親友の役割を求めなかった。

 現実の友人が助けを必要としていれば、アカネにはツツジ台なんかを創造している余裕はないわけです。現実の友人には、もう助けなど必要ない。

 理想の世界でなければ耐えられないのに、助けは必要ない。なぜならもう手遅れだから。「友人」は、アカネ(現実)に助けを求めることなく、消えてしまったのではないでしょうか。

 アカネと友人が共有した時間の中で、友人が消えなくてすむ可能性を模索した世界。それがツツジ台なのではないでしょうか。

 友達だと思っていた「友人」の危機を救えなかったアカネは“友達”に絶望し、神様として友人を救おうとしたのではないでしょうか。

 

 そう考えてみると、いくつか気になる点があります。

 作品の中で、物語の舞台となっている六花の家だけディティールが細かく、アカネの家のリアリティはそれほどではありません。これも、六花がアカネの似姿なら、六花の家こそ神様がよく知っている家であるため当然ですが、それならば六花の家に神様が住めばいいわけです。神様となったアカネは、どうしてもよく知らない「友人」の家に住む必要があったのではないかと考えます。

 作中で、アカネがツツジ台を作っては壊し、また作り直すという行為、そしてそれによって自分自身の心も傷付き、悲鳴を上げ、壊れていく様は、おそらく自傷行為に重ねられているのだと思います。神様の気分とアカネの精神が乖離していく様子が、そのように見えます。そうやってどんどん逃げ場を失っていく様子が、僕らの知らない「友人」の姿に近付いていったのではないでしょうか。友人はアカネ(現実)と友達でなくなった後、少しずつ傷付いていき、自ら命を絶ったのではないでしょうか。そんな友人に何もしてあげることができなかったアカネが、彼女の死後、友人が傷付かない世界を見つけてあげたかった、から作ってあげたいという思いに取り憑かれ、友人の世界を追体験し、同じ闇に呑み込まれていった。そう考えることもできる気がします。

 

 〔そしてもう一つ気になるのが、EDで意味深に出てくる金髪ジャージのいかにもヤンキー風の危険な匂いのする少女です。劇中でも、アカネと親しげな様子を見せていますが、アカネの精神は孤独なので、かなり不自然です。完全に見た目による偏見なのですが、友人が壊れる原因を作ったのが彼女なのではないかという気がしています。〕

 

 

 

 アカネの脅迫的なまでに理想世界を求める執念は、友人を救えなかった罪悪感が彼女を駆り立てるのだと思います。友人との時間に留まり続けたいという甘い願望が、自分が友人をやることになった後にも友人を親友と思う宝多六花という存在を生み、それゆえにアカネは絶望から救われ、またこの楽園を追放されることにもなるのだと思います。神様とアカネが乖離していく象徴となるのがアンチです。神様の作る怪獣にはないはずの、意思がアンチにはありました。

 他にもなみことはっすの友達なら打ち明けて欲しい、友達なら察する云々のやり取りとか重要そうなモチーフはいくつかありますが、とりあえず、友人が神様になれる世界を生み出したかったアカネはツツジ台を作ったものの、その世界で繰り返されるスクラップアンドビルドがアカネには自傷行為に等しかったこと。アカネは友人のSOSに気付けませんでしたが、ツツジ台でアカネが出したSOSがグリッドマンを呼び、自殺した友人に代わって絶望したはずの友達である六花達に助けを求められたこと、自分を傷付けてきた自分に代わって六花達に罪を赦してもらえたこと。これらのことが見えない血を流し続け、聞こえない悲鳴を叫び続けたアカネの物語であり、やはりグリッドマンは、アカネと六花の関係を通して現実のアカネと友人の関係を描いた完全な百合作品と言ってよいという結論に至りました。

 

 〔追記に近い話ですが、グリッドマンが救うべきはツツジ台の神様、新条アカネだと自覚するシーンが、問川家の墓石の前で行われるんですが、問川がそこまで重要だったのかと言われると微妙なんですよね。ここに問川が選ばれる理由を考えてみるに、現実世界でも問川は死んでるんじゃないでしょうか。これとアカネのトラウマと絡めて考えるに、「友人」が追い込まれた原因が問川の死じゃないでしょうか。つまりこうです。「友人」らヤンキーグループによって、問川に対するイジメが行われていた。問川はイジメを苦に自殺した。イジメに実は罪悪感を覚えていた「友人」は、そのことで気を病み自殺した。「友人」が破滅するのを止められなかったアカネは、ツツジ台を生み出した。この解釈なら、問川の死の重要性も、私にはどうすることもできないというアカネの悲鳴も理解できる気がします。トラウマを抱える前のアカネである六花が問川の死を受け入れられなかったことも、友人が傷付かない世界を目指したアカネが結果的に問川の存在を否定することも意味があるのではないでしょうか。〕

 

〔〕の話はインフェルノコップ氏の小説の主人公ってことですね。完全にクグれカス案件でした。