公開劇場も減ってきたところで、内容に踏み込んだ感想記事を上げたいと思います。タイトルが煽りっぽくなってますが、僕が同じ映画を何度も見に行く人間じゃないってだけです。ネタバレを回避したい方はブラウザバックを推奨します。
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僕が『ドラゴンボール超 ブロリー』を見て思ったことは、作り手による圧倒的なドラゴンボール作品への愛であり、ドラゴンボールファンの期待を大きく上回ってくれたことへの感謝でした。
以下、この作品のどの辺に愛を感じるのかを述べていきたいと思います。
- 『ドラゴンボール超』の世界観
- 世界観を補強する画面構成
- 音楽が示す『ドラゴンボール』の進化
- 『ドラゴンボール超 ブロリー』という物語
- 闘いで描かれる物語
- 『ドラゴンボール超 ブロリー』が見れて本当に良かった
『ドラゴンボール超』の世界観
まず言いたいのは、『ブロリー』が完全に『超』の世界観で作られているってこと。
『超』の世界観って何かっていうと、世界には色んな奴等がいて、そいつらがそれぞれの強さを持っている。そんな強え奴等に対して、神の領域に踏み込みつつある悟空が、その存在を肯定しながらも相手より強い自分を求めて、高みを目指して闘い続ける。簡単に言うと、『超』はこういうことをやる話。
悟空の強さ
そうした目線で本作を見てみると、悟空はまず、ウイスの問いに対して、破壊神になるため、何かを為すための手段として強さを求めるのではなく、強くなることそれ自体が目的なんだと答える。また、フリーザに対して、悪い奴だと知りながら、その存在を否定することはしない。
ベジータの強さ
それに比べるとベジータは、もっと現実を見ているというか、守るべきもの、守りたいものっていうのを強く意識していて、ある意味1番人間ぽい。ベジータの強さは、そうした責任感みたいな思いに根差した強さ。
フリーザの強さ
悪役のフリーザさえ、『超』ではすごく可愛げがある。天国が地獄になってる時点でもう可愛い。ベリブルさんの存在も、フリーザ様の可愛さを引き立ててる。それでも、他者を利用する帝王たる自分で居続けるっていうのは、フリーザ様の強さでもある。
ブロリーの強さ
そして今作の主役ブロリー。サイヤ人でありながら、本当は戦いを好まない優しい奴っていうのが『超』が提示したブロリー像。ブロリーの強さは、制御不可能っていう野性の強さ。おそろしく強いけど、十分共存の可能性が開かれてる。
本作のメインキャラ達はみんな、見る側が受け入れられるようなキャラクター像であり、悟空は彼等をみな許容している。悟空にとって、戦う相手というのは自分を高めてくれる存在であるため、相手が強ければ強いほど、悟空にとってはかけがえのない相手。だから、自分とは異質な強さを持った敵に対しても、闘いという対話を決して手離さない。『ブロリー』も、『超』の悟空のそうした価値観によって物語が象られている。
世界観を補強する画面構成
この世界観を、演出とストーリーによって補強している。
キメのカッコよさ
演出の方から見ていくと、一つには手描きとCGの融合っていうのが挙げられると思う。『ブロリー』は、手描きアニメの決めのカッコよさとCGを使った迫力ある映像の両方を見せてくれる。パンフによると、戦いの中で全身からエネルギーが溢れ出す悟空達に、線画処理をかけることで力強さを醸してるそう。
ド迫力のアクション
CGを使うと、単純な速度や光量なんかの情報量を過去にはない形で増やすことができるけど、その分止め絵で見せる過去アニメの重量感やメリハリを付け辛くなってしまう。『ブロリー』ではその辺が本当に上手くできてて、悟空達の戦闘が激化していく中で、それらの表現を融合させながら、どんどん見たことない表現に進化していく。スクリーンから伝わるのは、今までに見たことない、かつ今までで1番強い悟空達だった。
崩落していく背景
その強さを演出するために、長峯監督のカメラワークっていうのもすごい効いていて、これが『ブロリー』における戦闘の迫力に最大の機能をしてたと思う。それを支えてたのが背景美術で、超スピードで動き回る悟空達の後ろを飛び去っていくだけに止まらず、『ブロリー』においては崩落する氷塊や噴き上がるマグマ、さらには空間そのものが決壊するという荒業で、悟空達の強さの表現としてはむしろこっちが主役。
音楽が示す『ドラゴンボール』の進化
闘いの中のコール
そして『ブロリー』を見て1番ビビる瞬間。「カカロット‼」「ブロリー‼」。あれが聞こえてくるのが、本当にたまらん。演出としても、既に理性を失いつつあるブロリーながら、あれがあることで、殺さなきゃいけない化け物じゃなくて、我らが悟空の好敵手ってことを感じ取れるようになってるんよね。映画の中に挟まれるあの歌のパワーはもの凄い。「オラ、ワクワクすっぞ」って気持ちを、こういう形で表現できるんだっていう感動。
壁を打破していく『ドラゴンボール超』
音楽で言うと、主題歌の「blizzard」もさすが。旧作のドラゴンボールのイメージとはやっぱ違うものになってるんだけど、軽やかにウォームアップする悟空、何度も何度も限界を越えていくブロリー、そしてノリだけじゃなく強さの次元までハッチャけてるゴジータ。彼等の出てくる映画のエンディングに流れる曲として、これ以上にハマるものないよなっていう。最後「物語は続いていく」…って感じで終わるのも、『超』はまだまだ始まったばかりなんだぜっていうところに繋がって、最高の『超』の主題歌になってたと思う。
『ドラゴンボール超 ブロリー』という物語
惑星ベジータにおけるドラマパート
ストーリーの方でも『超』らしさっていうのはあって、わかりやすいのは序盤、惑星ベジータ。『Z』の頃と比べると、サイヤ人が大きな集団として描かれてることもあって、ベジータ王城なんか、文明を持った民族だってことが一瞬でわかる。戦士達が構成する社会を描こうとしてる。
ブロリー追放シークエンスは、SFドラマとして見れるものになってるし。戦闘一辺倒の描き方から脱却しようっていうのも、『超』らしさに思える。
バーダックとギネのカカロットに向ける愛情なんかも、旧作のサイヤ人では描かれることはなかったもの。特にギネの存在は、『超』になってからのサイヤ人の価値観を表してる。
総じて、リアリティを上げながら、それぞれのキャラクターが戦闘マシーンじゃなくて、いかにも人間臭い動機で行動で動くようになってるのが『超』らしい。
ゲストキャラクターの役割
サブキャラクターのチライとレモに関してもそう。彼等は最終的にブロリーを救うという大役を任されるキャラクター達なわけだけど、長峯監督のインタビューで、チライのキャラクター像をチープにしたかったという記事が出ていた。英雄や聖人ではなく、極めて人間臭いキャラクターが見せた勇気が命運を分けるところはすごくドラゴンボールっぽいところで、それが悟空の周りにいる人間じゃないところは『超』だなって思う。
『Z』と『超』におけるブロリーの違い
そもそも、なんで今作のブロリーは救われたのか。
旧作のブロリーも、初めはベジータへの復讐のために戦わされたが、実はカカロットへの執着によって暴走が始まる。いわば、カカロット絶対殺すマンが旧作のブロリー。
今作ではカカロットへの執着の部分は取り除かれ、父親パラガスに植え付けられた復讐心と闘争本能の暴走がブロリーを戦闘に駆り立てている。その原因は、コミュニケーションを取れる相手が父親しかいない環境で育ち、その父親に猛獣を躾るようにして調教されたという歪な親子関係にあった。
ここから、なんでわざわざ冒頭に惑星ベジータの話を展開する必要があったのかが見えてくる。
帝王の一族として生まれたフリーザは、他者に対して自分の道具という観念しかない。道具として長期保証のないサイヤ人を滅ぼしたが、ブロリーが使えると知ってまたサイヤ人を利用しようとし、その結果半殺しにされて痛い目を見たのに、まだ利用しようと考えている。
ベジータ王と直接絡んだシーンはないベジータだが、保育カプセルにいる時の溺愛ぶりや、惑星ベジータ消滅の報を受けての「ベジータ王になり損ねた」発言を鑑みるに、幼少児にサイヤ人の王子として強烈な自尊心を育まれた可能性が高い。
それが今では、己一個に向かっていた尊厳が家族を守る責任感となり、戦うべき理由を誰よりも強く感じている。そのベジータからすれば、己の闘争本能すらコントロールできず暴走し始めたブロリーは、超サイヤ人神状態で吐き捨てたように「くだらん」相手に映ったのだと思う。
カカロットは戦闘能力を重んじるサイヤ人に生まれながら、その父バーダックによって弱くても生き残れる地球へ送られた。カカロットのことを心の底から心配するギネとともに、バーダックもカカロットの無事を祈り、訳もわからず泣き叫んでいたカカロットも、その祈りを受け取ったように見受けられる。
そして地球に落ち延びたカカロットは、孫悟飯に拾われ、悟空という名を与えられる。孫悟飯は、明らかに地球外生命体の悟空を受け入れ、武技を教え込んだ。悟空にとって、闘いがコミュニケーションになる原点はこの辺だと思う。
そんな悟空だからこそ、予想を上回るブロリーの強さに対して、「そろそろオラとやろうぜ」という言葉が出てくるし、超サイヤ人神状態になると、「おめえは悪い奴じゃねえ。オラにはわかるんだ」なんてことも言える。
つまり、本作のテーマは親子であり、それぞれの父子関係から引き継がれた因縁がここでぶつかることになる。
屈折したプライドに支えられたベジータ王はパラガスを復讐者に変え、パラガスは息子ブロリーを自分の復讐の道具として育て、パラガスとの親子関係しか知らなかったブロリーはそれを受け入れた。
母星の消滅で父を失ったベジータは、失われた民族の誇りを自尊心として成長し、今では守るべきものを明確に意識している分、それ以外のものへの関心はあまり向かない。このブロリーとベジータの衝突が、ブロリーの暴走を招く。
生き延びるようにと両親から分かたれたカカロットは、孫悟空としてその存在を肯定された。息子を思う両親によってサイヤ人から1度解放されたのがカカロットであり、異質なまま愛情を注いでくれた育ての親のおかげで孫悟空になれた。ベジータやブロリーを措いて悟空が主人公たりえるのは、孫悟飯のフカフカキンタマクラのおかげと言っても過言ではない。
そして他者を利用することしか知らなかった帝王一族のフリーザは、生まれついての戦士サイヤ人との因縁を作り、フリーザ軍にとっての脅威を成長させ続けることになる。
本作の主役となった3人のサイヤ人の中で、ブロリーが悲劇を背負うこととなったのは、歪んだ父子関係に閉じ込められていたから。精神支配の象徴である首輪も弾け飛び、そのパラガスをフリーザに殺された結果、ブロリーは彼を縛るもの、あるいは繋ぎ止めるものを完全になくした。
そんなブロリーを、チライとレモは故郷の星に戻した。連れて来たのが彼等のため、ある意味責任を取ったという見方もできる。そして彼等は、ブロリーとともに生きる道を選んだ。これからは、悟空が持ってきた家で3人暮らすだろう。間違った親子関係に縛られていたのが原因なればこそ、家族をやり直す機会が与えられたブロリーは、その存在を肯定されることも必然。本作において、ブロリーを否定しなければならない要素はどこにもない。
そうやって見てみると、ラストシーンで悟空に銃を向けようとするチライとレモは、いじめられっ子を守ろうとする両親あるいは兄姉のように見える。チライの緑と紫は、今作のブロリーのイメージカラーとも重なる。レモの方は、肌の色が疑似家族関係の成功例、孫悟空の道着の色に見えなくもない。ちなみに橙色に見えるが、悟空の道着の方は山吹色らしい。
旧作では戦闘力だけが基準だったサイヤ人の親子関係に、バーダックとギネのような子供の無事を祈る描写が追加されたこと。そしてそれがそのままメインテーマとなった作品が作られたこと。それによって、旧作では人間からかけ離れた化け物として討伐されたブロリーを、共生可能なキャラクターとして再構成し、開いたパンドラの箱を閉じて、彼が救われるエンディングを用意してくれたこと。ドラゴンボールがくれたやり直すチャンスと、『超』だからできた全てのことに、感謝で涙が溢れる。ありがとうドラゴンボール。ありがとう鳥山明。本当にありがとう。
闘いで描かれる物語
鳥山明氏が紡いだストーリー自体、文句のつけようがなく素晴らしいのはもちろんなんだけど、それをアニメーションとして完成させた長峯監督の手腕、敏腕にして豪腕なその演出もやっぱり凄い。
強さのインフレ
感激したのが、『ブロリー』は限界を超え続けるサイヤ人同士のバトルを描いたものっていうのもあって、戦闘シーンの過激さが際限なく上がっていくんだけど、そこをきちんと段階的に見せるってことをしてくれてるんよね。
ベジータで言えば、通常時→超サイヤ人→超サイヤ人神。悟空では、通常時→超サイヤ人→超サイヤ人神→超サイヤ人ブルー。ブロリーは、通常時→疑似超サイヤ人→超サイヤ人→超サイヤ人フルパワー。ついでにゴジータで、通常時→超サイヤ人→超サイヤ人ブルー。
これらの段階が上がる毎に、たとえ目が追い付いてなくても俺らはパワーアップしたっていうのがわかるようになってる。
ちなみに今作で多用されてるのが目元や口元のクローズアップ表現なんだけど、戦闘に入る前からちょいちょい使われていて、そこも観客が気持ち良く乗れるように準備立てられてるんよね。演出が意図的なのもわかるし、見せ方が本当に丁寧。
超サイヤ人神
旧作やテレビシリーズなんかだと、その時になれる1番強い形態に早々となりがちで、真剣勝負をやるならそれが当然なんだけど、例えばその前段階になるまでの苦労や変身できるようになった意味合いなんかが薄れてしまうような気持ちは正直拭えんのよね。
『超』になって悟空は超サイヤ人神という領域に足を踏み入れたんだけど、超サイヤ人ブルーになれるようになると、もう超サイヤ人神状態を使うことがほとんどなくなってる。これは個人的な解釈になってくるかもしれんけど、ブルーは超サイヤ人神の力を超サイヤ人化の要領で伸ばした状態なわけで、力の引き出し方としては超サイヤ人に近い。超サイヤ人を進化させていく『Z』方式から脱却しようとしたのが超サイヤ人神なら、『超』を象徴する変身はむしろ超サイヤ人神の方じゃないかみたいなことも思わんでもない。
これに対し長峯監督は、本作で超サイヤ人神と超サイヤ人ブルー両方になって見せた上で、まるっきり違う戦い方を示すことで両者の違いに意味を持たせた。
精神統一で燃えるような赤い気に包まれたベジータの超サイヤ人神は、言うなれば冷徹な神。必要最小限の動きでブロリーの攻撃を全て見切った上で、お父さんの宿願を果たそうというブロリーの意志へし折るかのような拳を叩き込む。
対して、ゆらゆらと脱力して超サイヤ人神になった悟空は、ブロリーの力を利用する合気道のような戦い方をとる。金縛りで動きを封じて、ブロリーと対話しようとする温和な神。気張りを感じさせない技ながら、大地を揺るがすほどの威力が出てる。
だけど、その超サイヤ人神でも止められない力の暴走を前にして遂に、より戦闘に特化した神の姿、怒りの神である超サイヤ人神超サイヤ人、通称超サイヤ人ブルーに変身する。この荒ぶる神が、現時点で悟空がコントロールできる最強の形態。
ブロリーの場合、通常時からパワーもスピードもタフネスも上がり続ける描写になってて、そのまま超サイヤ人になったベジータに食らい付くところでは悟空に驚かせて見せ、宇宙最強クラスのベジータを相手にしてもブロリーのポテンシャルが圧倒的なんだってことを印象付けてる。
単純なサイヤ人としての戦闘力で勝てないことを悟ったベジータが超サイヤ人神に変身して、さすがのブロリーでも対抗できなくなる。そうやって追い込まれたブロリーは、大猿の力を引き出した疑似超サイヤ人らしき状態に。同心円が広がっていくのとか、『Z』の映画で多用されてた演出。ブロリーが理性を手放すと、首輪も弾ける。超サイヤ人ほどの変化はなくとも、全身を緑色のオーラが纏い、瞳が金色になる。
しかも、これぞブロリーらしさってところなんだけど、この疑似超サイヤ人になった時と悟空の説得を振り切った時にサイズがデカくなってくんよね。大猿化のパワーアップを利用したものだから、設定的にも無理がない。理性を失う設定も回収してて、変身直後に口からエネルギー波を放つところからしてそうだけど、こっから動きがだんだんと人間離れして怪獣に近くなってくる。
この状態で、神の領域にある悟空達を圧倒する強さ。ボロボロになった悟空が、遂に怒りの神、超サイヤ人ブルーに変身。戦うための神の姿になった悟空を前に、ブロリーの戦闘力も限界まで引き出されて、エネルギー波の衝撃で周りの景色が塗り替えられるほど。
疑似超サイヤ人で悟空と互角の戦いを繰り広げるブロリーだったけど、パラガスが殺されて本当に意識のたがが外れる。瞳を消失して完全に人間性を喪失した戦士、超サイヤ人ブロリーの誕生。災害のようなエネルギー波を前に立ち向かう悟空の姿からも、ブロリーの戦闘力が圧倒的なのがわかる。超サイヤ人ブルーの悟空とベジータ二人がかりでも抑えきれず、一瞬でボロボロにされてる。
ゴジータの誕生
ここまで、悟空達が極めてきた強さ、それに食らい付いていくブロリーって構図で戦いが続いてきたけど、ブロリーの注意がフリーザに移った隙を突いて、悟空とベジータは瞬間移動し、フュージョンすることになる。その間の時間稼ぎを担当するフリーザ様。
ここが『ブロリー』におけるフリーザ1番の見せ場なんだけど、ブロリーにひたすら殴られるだけっていう。ゴールデンフリーザにも変身してくれるんだけど、やっぱりボコボコに。
ただこの変身も、ゴールデンフリーザって色違いになっただけに見えるけど、ちゃんと立ち姿のシルエットで変身がわかるようになってるのはさすが。
ゴールデンフリーザでも歯が立たないことを見せつけた上でのゴジータ登場。
どうやってこれ以上の強さを表現するのかと思ったら、ゴジータは動きや気功波の量がひたすら過剰になって溢れ出るエネルギーを表現してた。攻撃時にもぐるんぐるん回る。その表現がまたヤンチャなゴジータにぴったりなんよな。
本当にここからはノンストップで、超サイヤ人化してブロリーとぶつかり合うと、時空超越の戦闘に入っていく。ゴジータの攻撃を受けて、ブロリーも旧作で恐怖の象徴となったフルパワー状態に入ると、ゴジータも超サイヤ人ブルー化して、最凶のブロリーを圧倒する。
『ドラゴンボール超 ブロリー』が見れて本当に良かった
戦闘民族サイヤ人
こうやって、何度も何度も限界突破を繰り返してパワーアップしていく。際限なく強さを求めていく姿っていうのが、まさに戦闘民族サイヤ人の闘いになってる。
しかもその在り様が、過去作のオマージュを踏まえた上での見たことない表現になってる。悟空やベジータは、動き方でわかるように俺等が見てきた二人の個性が出てるし、『超』で獲得した超サイヤ人神形態での戦いも見せてくれる。ブロリーも旧作通り緑色の気を纏ってる。そしてそれぞれに対し説得力が持たされてるわけで。
長峯監督が、悟空とブロリーを表すのに「純粋なサイヤ人」って言葉を使ってて、これがどういう意味かちょっと考えたんだけど。
本作の変身シーン。ブロリーはもちろんなんだけど、ベジータが超サイヤ人化する時、そして悟空が超サイヤ人ブルー化する時にも緑の気が放出されてる。『ブロリー』では多分、元々のサイヤ人の気は緑色って形を取ってるんじゃないかな。それで、より原始的なサイヤ人の資質のままであるブロリーの気はそれが強く出てる。
ブロリーと悟空の共通項は、“戦闘民族”としてのアイデンティティを持たないまま、戦闘の中で生きてきたこと。ブロリーにとって、唯一父親以外との関係性を築きかけたのは、闘う訓練の相手だったバア。実は、ブロリーも悟空と同じく“闘い”というコミュニケーションの取り方を知ってたんだよね。それが示されるのがラストシーン、悟空に噛み付き続けるチライに対し、また闘わせてくれという悟空の言葉で全てを理解したように笑うブロリー。
戦闘でコミュニケーションが取れる存在っていうのが長峯監督の言う「純粋なサイヤ人」で、真の意味での戦闘民族サイヤ人なんじゃないかな。悟空の闘いというコミュニケーションが続く限り、『超』の世界は繋がってくし、進化していく。『ブロリー』は間違いなく『ドラゴンボール』の系譜にあるんだけど、誰も見たことのない『ドラゴンボール』であり、現時点で最強の『ドラゴンボール』。
『ブロリー』が与えてくれた感動の意味
35年前に始まった『ドラゴンボール』が、その歴史の中で様々な可能性を生み出したんだけど、『ブロリー』がやってくれたことって、これまでにあった『ドラゴンボール』を肯定した上で、さらに『ドラゴンボール』を進化させたことだと思う。それが象徴されたのが、旧作で滅ぼされたブロリーが存在を許される世界だってこと。
強さの在り方だって、ただ一つじゃない。悟空、ベジータ、ブロリー、フリーザ。みんな持ってる強さはそれぞれ異なるものだし、なんなら悟空1人にしたって、超サイヤ人や超サイヤ人神なんかの形態で発揮する強さは全然違う。色んな強さがあって、それら全てを認めつつ、それでもまだその先を目指して進化していく『超』の世界。そんな『超』の強さを見せてくれた『ブロリー』に、俺は涙を堪えることができなかったんだなってことがわかった。