『HUGっと!プリキュア』がそれでも最高のエンディングを迎えたと言いたい理由

 

 先日、ある方のブログを拝見しました。賛否両論巻き起こった『HUGっと!プリキュア』の最終話に関して、ファンとして“賛”の態度を取るべきことはわかっているものの、自分の中にある“否”の感情を否定し得なかった。大まかに言うと、そういった内容のものでした。

 その方のブログには作品に対する切実な思いが溢れており、また文章も非常に説得力があるもので、今まで“否”側の意見を耳に入れることに抵抗を覚えていた私としても、その主張は理解できるものでありました。

 ただ、それでも、私は『はぐプリ』ふの最終話に対し“賛”の姿勢を取りたい、完璧なエンディングだったと言いきりたいんです。

 それは、ファンとしてそうあるべきとか、そういう理由ではなく、私個人の動機から『はぐプリ』最高だったと言いたいということです。

 以下、新シリーズが好調のスタートを切り、私自身落ち着いて作品と向き合えるようになった今、その理由を書いていきたいと思います。

 

ハッピーエンドへの希求

 まず、私の物語に対するスタンスについてです。

 その方のブログで、「ハッピーエンドへの信頼」という表現がありました。物語のエンディングでは、主人公達がみんな笑顔で大団円を迎えられるという期待、作品内世界の秩序が最善なる結末を求めるであろうという物語に対する信頼ということだと思います。

 この「ハッピーエンドへの信頼」がある人とない人がおり、その方は前者だったということでした。こと、子供向けアニメにおいては。

 「ハッピーエンドへの信頼」に関して言えば、私もこれを持ち合わせる人間の一人です。

 私の友人が好きな『悪の法則』という作品があるのですが、私がその作品を楽しめなかった理由の1つもこれにあると思います。世の中はこんなに醜く歪んでいる、お前らがすまして生きてるこの世界は地獄そのものだ、ドヤァ、みたいな印象を受けると作品に対する熱は冷めます。もちろん、暗部にもそれなりの料理の仕方があるだろうし、おそらく『悪の法則』はそれに成功している作品です。

 ただ、私が基本的に「ハッピーエンドへの信頼」を抱いている人間であり、露悪趣味的な物語にはノレないことが多いということです。とりわけ、子供向けアニメでそちらに走るような作品はクソだと思います。

 そういう私なので、好きになった物語が、意図的なアンハッピーエンドではないハッピーエンドを目指す物語だったならば、それはもう全力でハッピーエンドだと言いきります。全力でハッピーエンドだと言いきるというのはつまり、その物語の結末がなぜこうなるのか、なぜこの結末がこの作品内世界における最善たり得るのか、という理屈を練り上げることに全力を尽くすという意味です。

 逆に言えば、そこで私自身が認めるこのハッピーエンドが最善たる理屈を構築できなければ、それは私の好きが敗北したことに他なりません。好きなものという私にとっての神の座から、一つの出会いが引きずり下ろされ、このクソみたいな現実の一部に同化させられることを認めることになります。

 TwitterやLINEでいきなり意味不明の長文投稿をするので、周囲からは鬱陶しがられていますが、私にとってそれは物語を好きになった時間を意味あるものにするため、私が出会った私個人の神を守るために必要不可欠な行程なのです。

 

HUGっと!プリキュア』のハッピーエンド

 翻って、『はぐプリ』最終話の話です。

 私は、この1年を通して『はぐプリ』が本当に好きになりました。しかも、『はぐプリ』は「ハッピーエンドへの信頼」の高い子供向けアニメです。

 『HUGっと!プリキュア』49話、私の意見としては、賛否の“賛”でした。と来ればそれはもう、最上級の“賛”、完璧なエンディングなんです。なぜ最高だったのかを、これからとくと自分自身に語って聞かせます。

 ポイントとしては、3点。

  1. えみるはなぜ新ルールーと出会うのか
  2. はぐみはなぜはぐたんではないのか
  3. なぜ『魔法つかい』の49話じゃダメなのか

の順で見ていきたいと思います。

 

えみるはなぜ新ルールーと出会うのか

 10年後の未来、えみるは本編で親友となったルールーとは別個体のルールーと出会うことになります。便宜上、前者を旧ルールー、後者を新ルールーと呼びます。

 元の未来では、愛崎えみると旧ルールーの間に接点はありませんでした。

 愛崎えみるはいわゆるお嬢様で、社会的に求められる役割と自己の間の葛藤に悩んでおり、自分の意思を押し込める傾向にありました。

 旧ルールーはドクタートラウムに生み出されるも失敗作とみなされ、自分の役割を探し求めていました。

 憶測も入りますが、そのような2人が自分達の社会の外側にいる相手と心を通わすようになる機会はなかったでしょう。

 それが、本編のストーリー上で偶然によって引き合わされ、えみるはルールーに、ルールーはえみるにそれぞれ社会的役割から離れたところで存在意義を与え合い、互いをかけがえのない存在だと認め合うようになります。

 えみるは旧ルールーの存在によって、自分を解放することを信じられるようになります。そのえみるが、10年後ドクタートラウムと協力して新ルールーを生み出します。この時点でドクタートラウムにどうしてもルールーを生み出す理由はおそらくないため、主体的になったえみる側からの働きかけがあったものと思われます。

 ここで、えみるが本当に会いたかったのは新ルールーではなく、旧ルールーの方ではないのかという声がネットでは多く上がっていました。たしかに旧ルールーと別れるえみるは本当に辛そうでしたが、私はそうは思いません。

 アンドロイドである自己のアイデンティティに悩むルールーに、えみるは機械の体だろうが心がある以上人間の私達と一緒だと言ってのけます。そしてルールーの心を象徴するモチーフが、音楽を解する感性です。

 新ルールーには、本編でえみると過ごした旧ルールーの記憶はありません。ですが、記憶というのは、脳に蓄積されたデータ、つまり機械の体と同じものではないでしょうか。新ルールーを見て、えみるが旧ルールーと一緒に作った歌を唄うと、新ルールーは知らないはずのその歌に合わせて自分も唄い出しました。旧ルールーと新ルールーで出生や外見、生い立ちが違っても、旧ルールーも新ルールーも音楽を解するルールーとしての心は同じものを持っているのです。人間で言えば、生まれ変わりと同じわけですから、これは奇跡の再会以外のなにものでもないと思います。

 

はぐみはなぜはぐたんではないのか

 これは多分、ストーリーの問題だと思うのですが、私の解釈だと、はぐたんっていう奇跡の子を産むための犠牲として、はなは命を落とすんじゃないかと思うんですよね。未来が救われた10年後、奇跡の子はぐたんを産む必要はなくなったわけで、だからこそのはぐみなんじゃないかと。

 はぐたんとの別れで、はなは絶叫します。これは確かに辛い展開です。なぜこれが必要かと言うと、この時点でのはぐたん達っていうのは未来存在、言わば形を持った可能性なんですよね。可能性存在のはぐたんやルールーが現代に留まり続けたら、可能性は可能性であることから脱却して確定した未来になってしまう。そうなると今まで戦ってきた意味がなくなってしまうので、元々の未来の可能性の位置に送り返さなきゃという。

 そうした理屈を子供が見て理解できるのかって言われると、正直自信はなくて私のエゴだと言われても仕方ない気はします。

 でも、大人の都合ですが、尺があればこの辺もわかるように描写してくれたと思うんですよね。尺さえあれば、可能性世界に帰った旧ルールーが次元の壁ぶち抜いて実存在として10年後のえみると新ルールーとみんなで仲良くご飯食べるみたいな話も作れたと思うんですけど、いかんせん時間が足りなかった。

 ただ、尺があってもハリハリ地区が掘り下げられたかどうかは微妙だと思います。『はぐプリ』のハリーは歴代の妖精と比べると異常にバックグラウンドの掘り下げが深いんで、今の時点で正直やり過ぎなくらいやってるんですよ。作り込んでるのは伝わってくるんですが、1年じゃあれ全部やるのは今のプリキュアのやり方じゃどうやったって無理だと思います。

 限られた時間の中で『はぐプリ』は、はぐたんとの別離に際したAパートの絶叫と、はぐみの出生に際したBパートの絶叫っていう野乃はな、引坂理絵さんの声を中心にした演出を採り、それは間違いなく成功したと思います。だから最高なんです。

 尺が足りないことを作り手側も理解していた節のある箇所があって、それが問題の最終話Bパート、10年後超テンション社長Yes!になったはなのシーンです。やりたいことは色々あるけれど、欲張り過ぎだと笑われるのではないかとこぼす部下に対し、めっちゃイケてる美人社長のはなは、「笑われたっていいじゃない‼」と笑顔で励まします。

 自分が信じた道なら、たとえ不恰好で綺麗じゃなくても、全力でやりきるべきなんだと。それを見せてくれたのが『HUGっと!プリキュア』の主人公、野乃はなでした。笑われたって、したいことは欲張っちゃえばいいっていう生き方でめっちゃイケてる大人の女性になったはなの姿によって、HUGっと!プリキュア』という作品そのものまでも肯定されているのが、『はぐプリ』の選択が間違いじゃなかったと信じられる所以です。

 

なぜ『魔法つかい』の49話じゃダメなのか

 『まほプリ』49話っていうのは、私がプリキュアにハマったきっかけの回でもあるので、絶対正義であることは間違いないんです。

 『まほプリ』49話は、朝日奈みらいの世界と十六夜リコの世界があり、2つの世界が一つに融け合った世界を作るか、二度と交わらないで存在し続けるかの二者択一を迫られた主人公達が、お互いの世界が存在する選択肢を取るという話です。みらいとリコは離ればなれになり、一見悲しい選択に見えますが、大人になったみらいがそれでも信じ続けて使えなくなった魔法の呪文を唱え続けると、二度と会えないとされていたリコとまた巡り会って、2人が出会った奇跡の象徴モフルンが再び喋り出して、2人がともに過ごした時間を体現し精霊となったはーちゃんがまた人格として現れるという最高ハッピーエンドの回です。

 なぜ『はぐプリ』でこれができないのか。『まほプリ』との違いを考えると、『まほプリ』は見えないけれどあるはずの世界なんですよね。自分自身でさえ存在を疑いそうになってはいるけど、どこかにあるはずの世界と再び巡り会うのが『まほプリ』49話なんです。

 一方『はぐプリ』のはぐたんやルールー、ハリーっていうのが何を表してるのかなんですけど、それを考える前に私が『はぐプリ』で最も重要な回だと思う31話の話をしたいと思います。

ぼっさん on Twitter: "ハグプリ31話 正直初見では伝えたいことがちゃんと掴めなくて見応えがそこまでだったんだけど 自分史上では初3回見直してみて震えた 決まり文句を自分達の言葉として言い切るだけの背景や葛藤や達成がきっちり織り込まれたハグプリの根本スタンスを示す坪文先生回に相応しい仕上がり #precure"

 『HUGっと!プリキュア』の主人公野乃はなは、前の学校でいじめ問題が拗れて不登校になり、転校するという歴代でもおそらく最も辛い境遇から物語がスタートします。

 転校初日、言わば転校デビューとでも言ったような気持ちで切ろうとした前髪を思いっきり切りすぎて、理想を踏み外したことにしょんぼりもしました。

 31話というのは、その前の学校の友達エリちゃんが会いに来る話です。当時、いじめに対してお互い上手く対処できず、そのことがお互い心の傷となって残り続けていました。はなとエリちゃんの友達関係は、お互い逃げ出したい過去、失敗した友達になってしまっていたのです。

 この31話に対して、『はぐプリ』野乃はなが出した結論が、過去をやり直すでもない、過去を清算するでもない、失敗した過去の上に新しい関係を築くこと。この答えを見せつけられた時に、“子供騙し”アニメをぶっちぎる凄みを感じてシビれました。

 1番簡単なのは、エリちゃんに「あの時はゴメン」て謝らせて、はなに「元の友達に戻ろう」って言わせればいいんですよね。『はぐプリ』はそれをしないで、なかったことにして昔の友達関係に戻るのも、誰かが責任を取って代わりに誰かが救われるのも違う。自分がどうしたいか決めて、それを信じるんだっていう道

 切りすぎた前髪に対し、一度は「めちょっく‼」って落ち込んでも、「めっちゃイケてるでしょ‼」って胸を張れるように。

 それを踏まえて、はぐたん達が何だったのかっていうのを考えてみると、彼女達の存在っていうのは、ハサミを構えた時のめっちゃイケてる前髪なんですよ。ハッピーが保証された可能性っていうのは確定した未来と一緒で、それはジョージ・クライが目指した永遠と同義です。

 はな達が選んだ未来っていうのは、そこで切りすぎたとしても、たとえ理想を踏み外したとしても、「めっちゃイケてるでしょ‼」って笑う未来だから、これまで戦ってきた理由からしてはぐたん達との別離は不可避なんです。

 そこで『まほプリ』の奇跡が起きないのかって話なんですけど、これも独自解釈なんですが、キュアトゥモローは戦う相手がいなくなったのにプリキュア化してるんですよね。これって過去の妖精の例に倣って、精霊化してるんじゃないでしょうか。無時間存在になって世界に遍在してるから、はぐみが産まれたのもわかる。

 その前提でいきますけど、可能性存在として未来からやってきたルールー達っていうのも話の役割としてははぐたんと同じ、精霊的な役割を担っていたのではないでしょうか。

 そうとは知らずとも、はぐみの未来の可能性であるはぐたんを愛する経験をしたはなにとって、はぐみの存在は祝福された存在として映るのではないでしょうか。誰かを守ることに失敗した少女が、赤ちゃんを産み育てることを根本のとこから肯定できた。

 そして、はぐたんがはぐみを愛するはなの中のはぐみの存在を祝福していたように、旧ルールーは新ルールーを愛するえみるの中の新ルールーの存在を祝福していた。なんとなれば、ハリーはほまれの中のまだ見ぬ運命の相手を祝福、とするとさすがにやりすぎな気もしますが。

 ただ、このように考えると、未来世界へ帰って行ったルールー達と出会わなくても不幸や妥協ではないんですよね。祝福する神は、その存在が隠れることによって意味を持つので。実体として存在し続けていたら意味がないんですよ。

 実際には切りすぎた前髪になったとしても、前髪を切ろうと思った意思はたしかにそこにあって、その意思があったからこそ今の前髪に出会えた。

 『まほプリ』49話は、理想通りのめっちゃイケてる前髪にいつかはなれるって話で、それはそれで素敵なんですけど、というか最高なんですけど、私の見てきた、大好きな野々はなは、1年を通して切りすぎた前髪のままで、その前髪をめっちゃイケてると誇れるようになるんですよね。

 もし切りすぎた前髪の横に理想の前髪があったら、切りすぎた前髪のことをめっちゃイケてると思えなくなっちゃうんじゃないですかね。理想になり得なかった現実の横に最高の理想があったとしたら、現実に抱いていた最高の強度が下がってしまう気がするんです。

 めっちゃイケてる理想に向けて踏み出したはずのはなの前髪は、理想を踏み外しためちょっくなものでした。HUGっと!プリキュア』は、理想を踏み外したところから始まった物語です。それでも、その前髪を最高だと言う彼女を、延いては前髪で顔を隠していた彼女のことを、本当の理想になれずスタートで躓いたなんて言いたくないから、ずっと素敵で、めっちゃイケてるよって言いたいから、野乃はなが主人公の『HUGっと!プリキュア』という物語を、最高のエンディングだったと言いたいんです。