続・ニュータイプ論考 因果のメビウス編

 

 前回『ファースト・ガンダム』におけるニュータイプ観をまとめてみました。

私説 ニュータイプ論考 -前編- - boss01074’s blog
私説 ニュータイプ論考 -中編- - boss01074’s blog
私説 ニュータイプ論考 -後編- - boss01074’s blog
 

 今回はその続編として、逆襲のシャアにおけるニュータイプ論を考えたいと思います。

 『逆襲のシャア』を取り上げる意味と、『逆襲のシャア』のあらすじに関しては

続・ニュータイプ論考 -アクシズ・ショック編- - boss01074’s blogで扱いました。

 今回はその補足として、アムロ、シャア、クェスという3人のニュータイプとされる主人公達を掘り下げることで、ニュータイプ達のどのような挫折の中からアクシズの落下が始まり、そこから生じた「アクシズ・ショック」という奇跡の価値をもう一度見つめ直したいと思います。

 

 

 クェス

 クェスの出自

 アムロとシャアの戦いに決着をつける物語さである『逆シャア』において、クェスは本作品からの登場人物です。繰り広げられるアムロとシャアの戦いの中心にいるという意味では、クェスこそ本作の主人公と言ってもいいかもしれません。

 クェスは、アデナウアーという地球連邦軍参謀次官の娘です。特権階級である政府高官の娘ということで、宇宙移民開始以降ステータスとなった地球住まいを許されていますが、地球にいる間、彼女は家を出て、インドでニュータイプの修行をしていたそうです。

 クェスがそんなことをしていた理由は、彼女の家庭にあるのかもしれません。彼女の母親は家を出ており、父のアデナウアーは愛人と暮らしています。母の存在をなかったものとして暮らす父を見て、クェスはそんな両親の間から生まれた自分の存在を肯定できなくなったのかもしれません。

 家庭の中に居場所を見出だせなかった彼女は、人類がみなわかり合えるようになって繋がれるというニュータイプ思想に興味を抱いたようです。

 

 宇宙に上がる

 宇宙に上がったクェスは、様々な出会いを経験します。

 地球連邦軍参謀次官のアデナウアーは体裁を保って偉ぶることしかできない男で、その地位にあるだけの責務を果たすことができるような人間ではありませんでした。彼は、この時期の政府高官の象徴であるようです。クェスは、そんな父親を軽蔑していました。

 宇宙へ上がるシャトルで、クェスはブライトの息子ハサウェイと知り合い、親睦を深めます。

 そのシャトルが難破し、ラー・カイラムに保護されることになると、おそらくニュータイプとして最も有名な存在であるアムロと出会います。

 しかし、アムロの横にいるチェーンを見たクェスは、アムロが自分の求めている居場所を与えてくれる存在ではないと直観し、チェーンの存在を激しく憎みます。

 アムロと一緒に白鳥を見たクェスはシャアと出会い、彼と一緒に行くことを決めました。彼に出会う前から、世界を変えようと動くシャアにクェスは惹かれていたようです。

 傍にいることを許してくれたシャアのために、ニュータイプ能力を見出だされたクェスはネオ・ジオン軍に入ります。軍で出会ったのが、強化人間のギュネイです。

 しかし、自分を見てくれると思ったシャアの隣には、ナナイがいました。クェスの嫉妬心が、今度はナナイに向かうことになります。

 これらの人物達との出会いによって、クェスの運命は非業とも言うべき結末を辿ることとなります。

 

 若者達

 シャトルの席で隣り合わせた縁から、クェスとハサウェイは意気投合して親交を結びます。

 素直なハサウェイは、クェスの奔放な中にある純粋さを感じ取り、惹かれたようです。自分を慕うハサウェイをクェスも憎からず思っていたようですが、シャアに附いて行き、ハサウェイの元を去りました。

 ハサウェイ自身とはわかり合うこともできたのかもしれませんが、クェスと彼には決定的な違いがありました。家庭に居場所を与えられ、家族の繋がりを、自分を生んでくれた地球に住まう人々を信じていられるハサウェイの純朴さは、居場所を渇望するクェスには認められないものでした。

 ネオ・ジオンに入ったクェスの面倒を見てくれたのは、ギュネイでした。

 ニュータイプ研究所出身のギュネイはやっかみの対象で、軍で孤立していました。クェスはおそらくその時の本心から、自分がいるから孤独を感じる必要はないと声を掛け、その言葉はギュネイを安心させたと思います。

 クェスがニュータイプ能力を発揮してみせると、ギュネイはクェスを傍に置こうとします。シャアの気を引こうとするクェスを見て、シャアに嫉妬するほどにはクェスを大切に思いつつも、ギュネイ自身としてはクェスを野心のために利用するという意識です。

 クェスの方では、シャアを忘れるように言うギュネイをかなり鬱陶しがっていましたが、自分を守ってくれるギュネイを心の底では頼りにしていたようです。

 一方でハサウェイは、シャアの道具となったクェスを取り戻すことを諦めておらず、一人ラー・カイラムに忍び込み、誰にも助けを乞えない宇宙を経験します。

 戦場でクェスを感知したハサウェイは、自分もMSに乗り込み、クェスと接触します。シャアのためということしか頭にないクェスは、1度はハサウェイを拒絶しますが、そこにチェーンが介入し、サイコフレームに媒介された死者の念を感じ取って自身の死を予感すると、最後にはハサウェイを守るという選択を取ります。

 

 嫉妬に駆られ

 彼女の不幸は、周りに彼女を導ける大人がいなかったことでしょう。

 アムロに居場所を与えてもらおうとしたクェスは、アムロの隣にいたチェーンに嫉妬しまふす。またシャアの元へ行っても、彼の側に控えるナナイを憎みます。

 アデナウアーは建前として父親面でいましたが、クェスを愛人同様、女としてちやほやすることしかできず、彼女は真に絆を感じることができませんでした。

 愛されるために女として媚びを売ることしか知らなかったクェスは、アムロの女として振る舞うチェーンがいる限り、自分の存在が認められないと感じていたようです。シャアに認められたいと思ってからは彼の役に立とうとして、有能なナナイに対抗心を剥き出しにします。

 居場所を求めて宇宙に上がったクェスは、自分の欲していた愛情を得ている存在に嫉妬しましたが、彼女の場合それは強迫観念じみたものだったようです。常に愛情を注がれていないと捨てられるという不安感が彼女にはあり、それが彼女の独占欲の強さになっていたのだと思います。自分に居場所を与えてくれる存在を渇望し、自分の求めていた場所に居座る相手は彼女にとって全て敵でした。

 クェスは愛情に飢えていながら、自分が愛されるための手段として、自分が敵視していた愛人を真似ることしかできませんでした。本当は娘として愛されることを欲していたにもかかわらず、女として媚びを売ることしか知らなかったという矛盾が、彼女に不幸な選択をさせ続けたのでしょう。

 

 ニュータイプとして

 クェスは、ニュータイプ研究所所長のナナイから、“サイコフレームなしでファンネルを扱える本物のニュータイプ”だと評されています。

 ニュータイプには世代論的な見方があり、その観点に沿えば『逆シャア』において若い世代として描かれるクェス、ギュネイ、ハサウェイらは『逆シャア』におけるニュータイプとみてもいいかもしれません。

 劇中におけるニュータイプ観として、「ものとか人の存在を正確に理解できる」人というものが言われています。これは、『ファースト』で言われた「認識力が拡大し、直観力と洞察力に優れた人々」というものと、同義だと捉えてよいでしょう。

 クェスとハサウェイの会話の中で、ハサウェイはガンダムを操縦したアムロニュータイプなのだと言い、ニュータイプになるとわかりあうためのテレパシーや予知能力が高くなるそうです。

 クェスはチェーンに、人類みんなが共感しあえるニュータイプになれるように修行したと言い、ニュータイプでなくともアムロとわかりあえているかに見えるチェーンを自分の邪魔をしているとして罵ります。

 ギュネイはおそらく劇中で最もニュータイプであることにこだわっていたキャラクターでしたが、彼はニュータイプを戦争を止める力だと認識していたようです。

 ギュネイは核弾頭を沈めることに成功しましたが、ニュータイプになることにガンダムを手に入れることと同種の力を求めていたため、彼の力はケーラを手にかけ、戦いの中で命を落としました。

 ハサウェイは当初ニュータイプ能力を発揮するシーンはありませんでしたが、クェスと出会い、去って行ったクェスを繋ぎ止めようとする意思によってニュータイプとして覚醒を遂げたようです。ただ、ハサウェイにはニュータイプが正しいことをする力だという認識があったのかもしれません。目の前でクェスを失ったハサウェイは逆上し、やっちゃいけないことをやったと責めながらチェーンを殺してしまいました。

 クェスはニュータイプの修行をしたというだけあって、強い能力を示していました。彼女はその能力で、自分の居場所を求めようとしました。しかし彼女の脅迫的な嫉妬感情は、居場所を求めるに止まらず、既に居場所を占めている人間への排斥心となって表れています。この強烈な嫉妬心に駆られた時、クェスは無重力の感覚を掴めなくなっています。感情が昂ると自分を御しきれなくなる部分が彼女にはあり、戦場の、コックピットの緊張感の中でそれは加速されます。そして彼女は、自分に居場所を与えてくれる唯一の人物であるはずだった父のアデナウアーを殺し、自分が殺してきた人間達の念に襲われて命を散らしました。

 ギュネイは力に、ハサウェイは正しさに、クェスは愛されることに囚われて、悲劇に飲み込まれてしまいました。彼らは未だ、「戦争をしないで済む」ニュータイプとはなりきれなかったようです。

 

 アムロとシャア

 『逆襲のシャア』の物語は、シャアが仕掛けた地球連邦への反乱です。そのために地球を人の住めない惑星にする作戦を実行します。

 シャアによれば、彼の目的はネオ・ジオン再建と打倒アムロだそうです。再び地球連邦による宇宙支配が確立した後でネオ・ジオン再建を果たすには、彼等の特権基盤である地球そのものに、寄り掛かれないほどの打撃を与えるのが1番というのは真実かもしれません。

 シャアにとって、それほどの大事業と打倒アムロが同じレベルの目的だそうです。つまり、『逆シャア』は地球の命運を賭けたアムロとシャアのケンカです。

 

 戦いの経過

 戦いは、終始シャアの優勢で進みます。地球寒冷化作戦は、5thルナとアクシズという2つの隕石落としによって行われますが、5thルナの地球落下は阻止できませんでした。シャアが周到に用意した作戦は、8割方成功を収めます。

 アムロ達が出遅れた原因は、スペースノイド達の敵意です。宇宙にいる人々は、地球に住まう人に鉄槌を下すというシャアの行為に賛同しています。戦端が開かれてから行動するしかない連邦軍人のアムロと違い、総帥としてのシャアは戦局を用意するということを着々と行ってきました。

 5thルナの戦いとアクシズの戦いの間で、アムロνガンダムを調達し、シャアに対抗する力を得ます。なお、不意打ちで遭遇した際、生身での殴り合いではアムロが優位に立ちますが、クェスがシャアを守り、結果彼女はシャアの側に立つことになりました。

 アクシズでの攻防戦においても、第1段階はシャアが勝利し、アクシズは地球の重力圏に入ります。双方の勢力ともに被害を受け、繰り返される悲劇の中で、ケーラを目の前で失ったアムロは、より強固にシャアを討つ決意を固めます。

 いよいよアクシズを落下させる第2段階の攻防において、遂にアムロとシャアの直接対決が始まります。アムロ含むロンド・ベル隊の決死の勢いに押され、一時ネオ・ジオン軍は劣勢に立たされますが、それを見たシャアは発奮し、盛り返そうとします。

 さながらア・バオア・クーの時のように、アクシズ内部でMSを降りた生身の戦いに入ると、ここから常に先手を取ってきたシャアが、アムロの正論の前にリアクションの側に回ります。

 再びMSに乗り込んだその後の戦闘では、アムロの気迫が遂にシャアの執念を上回り、シャアは乗機を破壊されます。

 MSの戦いが終わった後も2人は口喧嘩を続けたまま、最後はアクシズとともに地球圏の外へ飛び去っていきました。

 

 戦いの前段階

 ア・バオア・クーの戦いは引き分けに終わりますが、一年戦争の功労者として1度は同じ地点に立った2人が、本作開始時点では大きく水を開けられています。

 ティターンズハマーンの動乱期、シャアはまたも名前を捨て、一パイロットとして行動していました。ア・バオア・クーアムロに言ったように流れに乗るべきという言葉を実践に移したということでしょうか。しかし時代がそれを許さず、終盤では自身がシャアであると表明しました。その後MIAとなって、この作戦を準備したようです。

 一方アムロは、一年戦争後地球連邦に軟禁されたことで人間を信じることを諦め、地球に引き籠る生活をします。『ファースト』ではなかった言葉として、「魂を重力に引かれる」という表現が出てきます。この時期のアムロは、まさに魂を重力に引かれている状態だったのだと思います。

 名前を捨てることで宇宙に身を置き続けたシャアと違い、重力に魂を縛られたアムロは一時宇宙に出ることができなくなります。本編開始時にはそこから復帰していますが、そのブランク期間がシャアとの間に差を作ったと言えるかもしれません。タイトルクレジットと同時に現れる目を覆われたνガンダムは、地球で眠っていたアムロを表しているのかもしれません。

 

 女達

 『ファースト』時と違う点として、2人の傍らにはそれぞれ愛する女性がいます。

 アムロの横には、彼を慕うチェーンがいます。チェーンの描写として幼さが目立ち、おそらくアムロよりかなり若いと思われる彼女は、アムロの言葉を自分の意思のように話します。以前の孤独なアムロはこのような女性を持てあましていたでしょうが、再び宇宙へ上がる決意をしたアムロはチェーンを愛せるようになっています。

 名前を捨てて生きることを選んだ時期のシャアは、女性に近付くことを避けている節がありましたが、本編でのシャアはナナイと関係を結んでいます。ナナイはチェーンとは違い、自ら進んでシャアの道具になろうとしている女性です。女性に甘えて見せる姿は、以前のシャアからは想像できない気がします。

 しかし、それだけ心を許している風のナナイにも、シャアは本心を告げることはありませんでした。シャアの言葉を信じようとするナナイの姿を見て「いい子だ」と口にするのは、彼女と運命を共にしようという気がないからに思えます。

 アムロにしても、優しく接する時とは別の、チェーンに見せない面を時折覗かせています。

 アムロもシャアも、女性を傍らに置きながらも、そこに留まることができませんでした。では、彼等が求めていたのは何だったのでしょうか。

 アムロ、シャア共に拘っていたのは、お互いのことです。そしてその間には、ララァの存在がありました。アムロララァの夢にうなされ、シャアもうわ言でララァの名を口にしたことがあったそうです。2人にとって、最も大切な女性はララァだったのだとおもいます。それぞれに愛する女性を得た後でも、ララァのことが彼等の心に深く巣食っていたと考えて良いようです。

 

 若き日の挫折

 2人はそれほどララァを愛していたのでしょうか。

 一年戦争時、確かに両者はともにララァに惹かれていました。しかし、『逆シャア』での描写を見ると、今の彼等がララァに抱くのは単純な恋愛感情ではなさそうです。

 アムロにとって一年戦争で出会ったララァは、人と人とがわかり合える、人間の可能性を信じさせてくれたのがララァです。ですがその理想は、地球連邦政府の頽廃によって打ち砕かれます。

 一度は世界を信じることを止めて引き籠っていたアムロでしたが、世の中を良くしよう動き続ける人々の姿に、再び人間の可能性を信じて宇宙に上がります。この時アムロが信じたのは、ニュータイプでなくとも現状に抗い続ける人々でした。

 シャアがララァに執着したのは、ニュータイプとして自分の進むべき未来を導いてもらうためでした。しかし、そのララァが同じニュータイプアムロに討たれたことで、彼はニュータイプを信じることができなくなります。

 さらにはニュータイプを受け入れようとしない地球連邦や、人々を率いたニュータイプ達が戦火を引き起こしていく現実に、人類そのもののリセットを決意します。

 アムロにとってもシャアにとっても、ニュータイプの少女ララァは、悲劇に終わった愛の象徴であり、若かりし日の挫折の思い出でもあったのだと思います。

 そしてその苦い記憶に2人は囚われ続け、それゆえに宇宙での戦いに身を投じ、同じ悲劇を経験したからこそ相争わねばならない宿命だったのだと思います。

 

 人間の可能性

 ララァの死という同じ悲劇を経験した2人でしたが、最後までその歩んだ道が重なることはありませんでした。

 アムロは一度変わらない人間に絶望したからこそ、再び人を信じると決めてからは信じることそのものがアムロの信念になり、人間を信じない相手を否定するために戦います。

 一方で同じ絶望からシャアは、それでも人類を変えるために行動することを決めました。一度信じられないと見限った以上、そこに祈りを見出だすことはしませんでした。

 ニュータイプの少女ララァにシャアは人類の未来を見出だし、彼女とわかり合えたアムロは人類に希望を抱きました。しかし悲劇を避けられなかった両者は、ニュータイプという観念を素直に肯定できるようにはならなかったのだと思います。

 アムロニュータイプとして振る舞うことをせず、最後まで仲間とともに行動しました。ニュータイプという革新の形を信じるのではなく、今いる人間の可能性を信じ続けることがアムロの信義であり、周りの人を助けるために力を使いました。

 一年戦争時、最もニュータイプに拘っていたシャアでしたが、本作ではニュータイプという存在に対し、かなり慎重になっています。本物のニュータイプかもしれないというクェスを戦場に投入することにも、少なくとも表面上は躊躇していません。

 かつて人間の未来を信じて戦うも、到来した時代に対して挫折を覚えた2人が、再び戦うことを決めた時に抱いていたのは、おそらく根拠などない己の信念、そして最後には男の意地のようなものだったでしょう。「男同士の間に入るな」、「こんなことに付き合う必要はない」といった言葉は、人類の命運を巻き込んだ戦いをしているという意識からは出て来ない言葉に思います。

 

 本作で描かれるニュータイプ

 『逆シャア』が描き出したニュータイプ像は、『ファースト』の頃からすると大きく変容しています。『ファースト』世代のニュータイプアムロやシャアと、新世代のニュータイプとされるクェスらが同居する『逆シャア』で、ニュータイプはどのような存在とされているでしょうか。

 

 概念的な整理

 『逆シャア』において、ニュータイプとは「ものとか人の存在を正確に理解できる」存在とされます。

 こうした能力の片鱗を見せているキャラクターは何人もいます。アムロ、シャアの他に、クェス、ギュネイ、ハサウェイ、そしてナナイとサイコフレームを所持したチェーンも、存在を直感する能力を見せています。

 しかし、正確に理解というところまでいくと、話は簡単ではありません。ファンネルを放熱板と勘違いしたギュネイや、激昂してチェーンを撃ったハサウェイ、本当は自分が求めていたはずの父親を殺してしまったクェスら若い世代3人は、真のニュータイプとしての覚醒を遂げていないようです。

 そして、ニュータイプになるとテレパシーや予知能力を獲得し、人類みんなと共感し、わかり合えるようになるそうです。

 この点に関して言うなら、劇中を通して戦い続けているアムロやシャアら本作の大人達も、「戦争をしないで済む」ニュータイプとはなりきれていないようです。『逆シャア』の始まりからエンディングを迎えるまで、アムロとシャアは和解することができませんでした。

 

 ニュータイプ達が戦う意味

 シャアが地球連邦に戦争を仕掛けたのが、『逆シャア』のストーリーの始まりです。シャアは、地球という既存の権力基盤にすがり続ける人々を粛清すると言います。宇宙に上がった人々と地球に居残り続ける人々の間の不均衡を是正しようという主張それ自体は正しいように聞こえます。

 一方で、地球にいる人々がみな権勢を牛耳る人々ばかりかというとそういうわけでもなく、中間層の減少した地球では旧世紀よりひどい格差が広がっているようです。地球にはそうした無辜の民も多く暮らしており、シャアの隕石落としは彼等の命をも奪い尽くすものです。そのような虐殺を防ぐために、アムロロンド・ベルは戦っています。

 また地球ということに関しては、宇宙に上がったスペースノイド達であっても、そもそもの人類の成育環境を汚染することを正しいとは思っていなかったようです。なんとなれば、地球を潰そうというシャアでさえ、地球を汚染する地球人を死滅させ、地球を保全するのが目的だと言ったりもします。人類が生まれた場所としての地球を守りたいという意思は、もしかしたら共通するものであったかもしれません。

 クェスは居場所を求めて、シャアのために戦いました。他者のために力を使うというのは、ニュータイプらしいあり方と言えなくもありません。ただ、彼女には視野狭窄なところがあり、シャアの言葉以外を受け入れようとしない態度は、共感を重視するニュータイプとは言い切れないものだったと思います。

 

 彼等を取り巻く人々

 居場所を求めてシャアの手に落ちたクェスを追いかけて、ハサウェイも戦地に飛び込んでいき、その過程でニュータイプ能力を発現します。ただ、彼の能力はクェスのためのもので、彼女が引きずり込まれた殺し合いの因果に、すぐに彼自身も呑み込まれます。

 戦争の悲劇を防ぐためにクェスの能力を手に入れようとしていたギュネイは、彼女に自分の拠り所となる可能性を見出だしかけていました。にもかかわらず、敵を倒すことでしか己を表せなかった彼は、戦争で命を落とす運命を乗り越えられませんでした。

 誰よりもシャアを案じていたナナイにとって、シャア以外の人間はニュータイプであっても、なんとなれば自分さえ含めてみな彼の道具だったと思います。しかし、シャアに尽くすことで彼を守ろうとしたナナイは、戦いに向かっていく彼を繋ぎ止めることはできませんでした。

 チェーンは、劇中アムロが守ろうとしたオールドタイプの象徴として描かれました。幼さの残る彼女が後半では銃を手にし、サイコフレームを身に付けてアムロの意思を守るために戦います。彼女は戦いを終わらせることのできない人間の業に焼かれて命を落としますが、彼女が受け取ったアムロの意思は、サイコフレームとともに散った彼女自身を媒介に、すべての人へ届けられることとなります。

 

 ニュータイプ達が守ろうとしたもの

 劇中通してワガママ娘であり続けるクェスですが、他者を直観すること自体には長けていたため、時折覗かせるその純粋さから相手に手を差し伸べることもありました。ハサウェイの優しさには素直に応じましたし、ギュネイには彼の孤独を慰める言葉をかけたりもしました。

 そしてシャアの言葉だけを信じるようになった終盤、拒絶し続けてきたハサウェイを自分の死に巻き込まないように庇う姿を見せます。自身の強迫観念と戦争の狂気の中で暴走したことは確かですが、最後の最後では目の前の人間の手を取る純粋さを何よりも優先しました。

 シャアの引き起こす脅威から地球を守り続けるアムロは、この映画における善の側であるでしょう。けれどもチェーンとのやり取りを見てみるに、アムロは自分が守る人々に対し真に心を開いているわけではないようです。アムロは、人類の未来を一度見限った人間です。人が変われる可能性を純粋に信じて戦っているわけではありません。それでも、誰かを守りたいという意思で戦う周囲の人々を死なせないために、彼自身にできることをやるのです。

 アクシズの落下を防げないと知ったアムロは、隕石との無謀な力比べを挑みます。アムロを動かすのは、負け、絶望を認めないという、もはや愚かしくさえある意地でした。ニュータイプの象徴となったアムロが最後にたどり着いたのは、人を信じると決めた己を信じ抜くという虚仮の一念であり、それは数々の悲劇に見舞われながら、最後に奇跡を導くのです。

 シャアは民衆の期待を受けて反乱を起こし、様々な建前を語ります。既得権益にしがみつく連邦政府の粛清、コロニー居住者のための政府ネオ・ジオンの再建、人類全員のニュータイプ化。しかし、アムロに語った「世直しなど考えていない」が本音でしょう。自分にできるのはせいぜい復讐であり、その最大の方便として可能性のなくはない理想を掲げてはいるものの、彼自身はそのどれも信じてはいないと思います。ニュータイプという人類の未来に拘っていた男は、あらゆる理想から遠ざかりました。

 彼が最も拘っていたのは、打倒アムロです。シャアはそのために完璧な作戦を立案し、半ばまでそれを忠実に実行してみせ、そしてそれゆえに敗北するのです。シャアにとって、自己への絶望は人類への絶望です。自分を裏切った自己への復讐は、自分のような歴史を生んだ人類に対する復讐になります。その彼を敗北に追い込んだ相手が、他ならぬアムロであるわけです。自分にとって敗北の象徴であるアムロに勝たない限り、自分を裏切った自己を塗り潰すシャアの復讐は達成されません。かつての自分の理想を打ち砕き、理想に自分とは異なる可能性を示しながら、理想の実現をなし得ない男を否定するために、シャアは全力を注ぎました。ですが、アムロを倒すことに拘りすぎた結果、彼は自ら勝利を投げ捨て、それが最終的にアムロの発憤を促すことになります。

 

 まとめ

 人類のニュータイプへの可能性が開かれた『ファースト・ガンダム』を回収するものである本作『逆襲のシャア』で描かれたのは、ニュータイプ達が挫折する、あるいは挫折した姿でした。

 『ファースト』で、人と人とがわかり合えると信じたはずのアムロは、チェーンらに完全に心を開くことができなくなっていました。また体制に支配されるニュータイプを否定しようとしていたシャアは、すすんでクェスを自分の道具としました。『ファースト』時に信じていたことを、アムロもシャアももはや信じてはいません。

 『ファースト』時の両者、そしてララァに対応するのが、今作のクェス、ハサウェイ、ギュネイです。彼等の辿った運命というのは、ギュネイは野心の果てに、誰にも顧みられることなくあっけない最期を遂げました。純粋なままだったハサウェイは、戦争の業を背負うことになります。クェスは、差し伸べられた手を振り切り、帰れる場所を自ら消し去って、最後は非業の死を遂げました。

 今作でニュータイプへと目覚めた3人は、それぞれ自分達の最も欲していたものを失い、未来もなくします。特に、本作の主人公クェスの、若さから壁にぶつかり、大人に利用されて使い捨てられるという受難は、ニュータイプが迎える挫折の象徴的な役割として、アムロやシャアの経験と重ねられるものではないかと思います。

 そうした経験をしてなお、再び戦いに身を投じた2人というのは、もはや未来に何かを成し得るために戦っているのではありません。彼等が変えよう、あるいは守ろうとしているのは現状、延いては己自身です。彼等の戦いは、お互いの信念、もっと言えば意地を張り通すための戦いです。

 その個人的な争いが地球そのものを巻き込んだ壮大なものになったのは、それこそが彼等の抱える絶望の深さ、そして力の大きさのためなのかもしれません。ただ、であればこそ、地球圏の人々全てに彼等の戦う意思は届けられ、そこにみなの意思が懸けられたのではないでしょうか。

 そうして敵と味方として相争っていた兵士達がアムロの意思に同調して戦いの手を止め、シャアの目論見は外れることになります。しかし、人々がわかり合えた奇跡があっても、その彼等が無意味に命を落としていく悲劇は止まりませんでした。

 その悲劇を目の当たりにして、意思を実現するニュータイプの力が引き起こしたのが「アクシズ・ショック」です。わかり合えても因果を逃れ得ることのできない人々に、ニュータイプという現象でもって人類の可能性が示された。アムロニュータイプの可能性、地球に住まう人々の可能性、そしてこの現象を目撃した人間の可能性。それらを祝福する祈りが、「アクシズ・ショック」という現象の価値なのだと思います。