ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞という鳴り物入りで日本に上陸した映画『ジョーカー』。
当然日本でも話題をさらい、SNS上では映画を見た人達によって盛んに感想が述べられています。
しかし、これだけの話題作でありながら好評価一色とはならず、その賛否は割れているのが現状です。それがまた話題性に拍車をかけているとも言えるのですが。
なぜ『ジョーカー』を見た人の評価は割れ、ある人は散々にこの作品を貶し、またある人は手放しと言っていいほど称賛するのか。
僕が思うにそれは、この作品が映画ファン・バットマンファンであるほど叩きたくなる映画からだと思います。
僕自身は、この映画に対してその試みは嫌いになれないものの、映画として成功しているとは言えないというどっち付かずの印象です。以下、そう考える理由を述べていきますので、興味ある方はご覧ください。なお、ネタバレに関しては一切配慮しないので、まだ『ジョーカー』を見てない方はブラウザバックを推奨します。
概要
さて、考察に入る前に、本作の概要を簡単に説明。
『ジョーカー』とは、アメリカンコミックの人気ヒーロー「バットマン」に登場する悪役(ヴィラン)であり、その中でも最もカリスマ的人気を誇る(スーパーヴィラン)“ジョーカー”を主役に据えた作品。本作は、売れない芸人アーサー・フレックが、凶悪犯罪者ジョーカーとして覚醒するまでを描いた物語に一応なっている。なぜ一応なのかは後述。
ちなみに筆者のバットマン(ジョーカー)知識は、『バットマン』(1989)、『ダークナイト』(2008)、『スーサイド・スクワッド』(2016)、『ニンジャバットマン』(2018)に登場するジョーカーを見たくらいで、まあニワカ。
その筆者から見ても、本作のジョーカーは見ていて常に違和感が付きまとう。それは一体何か。
上記の過去作に登場したジョーカーは、端役の『スースク』も含めて漏れなく悪のカリスマとして絶対的な存在感を放っていた。
翻って本作のジョーカーはと言えば、冒頭の売れないコメディアンから悪のシンボルに祭り上げられるクライマックスまで、一貫して冴えない普通以下の男なのだ。
単純にリアル指向にしてキャラクターを平凡化したのかと言うと、そうではないと思う。
その理由が本作のラストシーン。精神科医とのやり取りの中で、ジョーカーはジョークを思い付いたと言う。どんなジョーク?と尋ねる精神科医に、理解できないさとジョーカーは答える。
このジョークが何なのか、劇中では明かされない。僕は、本作そのものがジョーカーの考えたジョークなのではないかと考える。それは、以下の理由からだ。
パロディ
アーサーの小市民性
劇中の言及はないが、本作は『タクシードライバー』(1976)と、『キング・オブ・コメディ』(1982)という映画をモチーフにしている。
一々挙げていけばキリがないが、ポシューと言いながら指鉄砲を撃つ仕草、警備に追われドリフのように逃げ回るラストシーンなど、その引用はあからさますぎるほどだ。
では、こうしたくどすぎるほどのオマージュは何を意味するだろうか。
『タクシードライバー』は、鬱屈した現状に不満を抱えるタクシードライバーのトラヴィスが、暴力に取り憑かれ道を踏み外すも、最終的にはヒーローとして新聞に祭り上げられるという話だ。(より詳しい説明が見たい方は、手前味噌ですがこちら→ヒーローにして社会の負け犬 『タクシードライバー』感想記事 - boss01074’s blog)
一方『キング・オブ・コメディ』は、思い込みが激しくTVスターのフリをして生きる男パプキンが、夢破れた結果強引な手段でTV出演を果たし、本物のTVスターになってしまうという話だ。
両者に共通するのは、現状を受け入れられない小市民の男が、ある日内面に鬱積した不満を爆発させ、それが結果的に本人も予想だにしなかった成功に繋がるというストーリーである。そしてそれは『ジョーカー』の、コメディアンとして周囲の注目を集めたかったアーサーが、怒りと暴力の発露によって、悪のシンボルとして担ぎ上げられるという展開にも共通している。
怒りの凡庸さ
ならば『ジョーカー』は、『タクシードライバー』型ないしは『キング・オブ・コメディ』型の作品だと言えるだろうか。
確かにアーサーが冷酷な現実に打ちのめされて怒りを暴発させる様は『タクシードライバー』を、TVという虚構装置を媒介にしてスターになった様は『キング・オブ・コメディ』を思わせる。
しかし、その両作品の主人公が有した決定的な異常性というものを、アーサーからは感じないのである。
『タクシードライバー』のトラヴィスは、選挙事務所の女にフラれた腹いせに大統領候補暗殺を思い立ち、偶然出会った娼婦に助けさせろと迫ってギャングを撃ち殺す。行動が飛躍しすぎていて歯止めの効かない暴力を象徴しているが、翻ってアーサーの暴力性を考えてみよう。
アーサーの暴力の発露は、ウェインの社員に暴行された時、母親が自分を虐待していたと知った時、自分を裏切った先輩が性懲りもなく口裏を合わせろと言ってきた時、マレーに面罵された時の4度だが、いずれも怒りが暴発する瞬間としてなんら不思議はない。
『キング・オブ・コメディ』のパプキンは、TVスタージェリーへの強引な売り込みで夢を叶えられると信じ込み、事件を起こし実生活で逮捕されながらもTVの中でスターになれるならなんてことないと考えている。彼にとって現実に問題は存在せず、TVの中でどう見られるかだけが関心事なのだ。
一方アーサーの問題は、常に現実の側に存在している。目の前の人を笑わせることが彼の夢であり、意のままにならない現実に苦しみ、その中でささやかな幸せを見つけるも、その幸福も苦悩も何一つ現実のものがなかったと知って絶望する。裏を返せば、彼の執着は最後まで、社会に不満を訴える他の人々と同じ現実にあるのだ。
パチモンの主人公
ゆえに『ジョーカー』のアーサーは、同じ小市民でありながら、社会に馴染めない異常さが突き抜けた結果として主人公になった『タクシードライバー』のトラヴィス、『キング・オブ・コメディ』のパプキンとは異なる存在だと僕は考える。
それを象徴するのが、本作でマレー・フランクリン役を演じるロバート・デ・ニーロ。このキャスティングは意図的だろう。『タクシードライバー』のトラヴィス、『キング・オブ・コメディ』のパプキンの両方とも、演じた俳優はロバート・デ・ニーロなのだ。
『ジョーカー』の中でアーサーは、TVスターのマレーに憧れ、彼に認められる姿を夢想するが、現実の彼はアーサーを笑い者にし、認められることはなかった。アーサーは、マレーになれなかった男なのだ。
ロバート・デ・ニーロの演じるキャラクターに憧れ、『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』を彷彿とさせるシーンを演じながら、そうした小市民の“主人公”になれなかった男。それが、『ジョーカー』の主人公アーサーの正体だ。
ちなみに、アーサーを演じたホアキン・フェニックスは『容疑者、ホアキン・フェニックス』というモキュメンタリーにも主演しており、『ジョーカー』という虚無の物語へのキャスティングは意図的だと思われる。奇行やヘビースモーカーなど、アーサーとホアキン自身が重なる要素も多い。
ジョーカーの笑い声
失敗し続けるアーサー
では、アーサーのような、小市民の主人公の、さらにパチモンでしかない男をめぐる物語とは、一体どのようなものになるのだろうか。
それは、彼が母親を殺す時の言葉に集約されている。
「僕の人生はずっと悲劇だと思ってた。でも本当は喜劇だったんだ」
街の名士である父親に見捨てられ、病身の母親を介護する中で、自らも病を患いながら夢を抱くも、社会の冷たい仕打ちに涙する。少なくとも物語前半、彼の抱える苦悩は本物だった。
しかし中盤で、それら全てが偽物だったと発覚する。現実の彼はどこの馬の骨とも知れない孤児であり、愛していると思っていた母親は自分を道具としか思っておらず、自分に寄り添ってくれた女性との思い出は全て幻覚だった。
自分の苦悩はありもしない不幸、幸せな時間は自分が都合よく作り出した幻。自分の人生がただの虚無でしかないとわかって絶望したアーサーは、嘘の愛情で結ばれた偽の母親を殺害した。
そこからアーサーはある計画に入る。TV番組マレー・フランクリンショーへの出演が決まっていたアーサーは、自分のことを全く笑えないと言ったマレーの前で自殺して見せるのだ。ギャグセンスの無さを侮辱された彼は、笑えないピエロとして最高のショーを彼に見せつけてやろうとした。
だが、そうやって準備してきた彼だったが、番組中にもマレーに煽られ計画変更。怒りに任せて彼を射殺した。こうなってしまってはただの暴発であり、ブラックなショーとしても完成しない。
ピエロだと嘲られ、ピエロでしかなかった人生に絶望し、そうなったからにはとことんピエロとして生き抜くと決めたにも拘わらず、ピエロとして死ぬこともできなかった。虚無を喜劇として終わらせるピエロとしても、彼は失敗したのだ。
虚無の仮面
そんな世間にも、天にも、自分自身にも見放された彼を見つけたのが、警察であり、暴徒であり、悪のシンボルとしての彼だった。
悲劇どころか喜劇すら生きられなかった彼が唯一生きることの出来た、それ自体では何の意味も成さないシンボルとしての道、全てを虚無に送り返す暴発としての悪行の道。
彼の夢は、人々に笑ってもらう、認めてもらうことだった。ここに来てその夢が、最悪の形で成就するのだ。世間に認められたかった彼が、虚無として認められる悪夢で物語は幕を閉じる。
『ジョーカー』とはそんな、何か意味のある結末を迎えることの出来ない、空っぽの人生を描いた物語なのだ。
ナンセンスの暴力
ここまで来れば、この物語を認められない人々が出て来る理由がわかったと思う。
『ジョーカー』は、「バットマン」のスーパーヴィラン、ジョーカーの誕生を描いた物語だ。
また劇中では、『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』といった名作の引用を多数盛り込んでいる。
『ジョーカー』が扱ってる内容は、一部の人にとっては非常に重要な意味を持つものなのだ。
それが、ジョーカー自身が実はカリスマとはかけ離れた凡人オブ凡人でしたという物語を見せられ、名作で演じられたシーンが劇中で無意味なパロディとして再現される様を見せられたならば、大切なものを踏みにじられたような気持ちになるのではないだろうか。
そしてそれこそが、僕はジョーカーという暴力の化身の有り様なのだと思う。人々が大切にしている思いを踏みにじって、一人の男が夢を叶える夢物語に変えてしまう。
ジョーク
ラストでジョーカーが語った“理解できないジョーク”。その直前に挿入されるのは、後のバットマンであるブルース・ウェインが、ビジランテ行為を始めるに至ったトラウマ、両親が殺されるシーンである。つまり、『ジョーカー』というジョーカー誕生の物語は、バットマン誕生の物語にもなっている。
ジョーカーの名を一挙に知らしめた『ダークナイト』。劇中ジョーカーが示すのは、お前も俺も(バットマンもジョーカーも)、このゴッサムという街が生んだ異常者だ、ということだ。
名作と呼ばれる当作と本作ともに、ジョーカーの本質としては同じなのではないか。すなわち、ジョーカー誕生の影にバットマン誕生があり、ゴッサムの異常性の表がバットマン、裏がジョーカー。
であるならば、虚無でしかないジョーカーをぶちのめすのに躍起になってるバットマンとは、存在しない不幸を嘆いていたアーサーと同じピエロにすぎないのではないか。お前らの信奉するヒーローなんて、自分で自分の尻尾追いかけ回す犬コロ同然に空っぽな野郎だ。
虚無の物語を見せつけた上で、本作のジョーカーはそう嘲っているのかもしれない、と僕は思う。
『ジョーカー』に対する評価
アーサーの分裂
以上のように、『ジョーカー』が虚無の物語であることを見てきたが、虚無の物語としても、僕は『ジョーカー』に対して満足し得ない点がある。
アーサーの社会生活を困難にし、夢の実現を妨げているものが、急に笑い出してしまうという奇病だ。この病気だが、描写を見る限り、彼がストレスを感じた時に発症しているように思える。ストレスを感じると笑い出してしまう。つまり、彼の精神の分裂を表しているのだと思われる。
カウンセラーとの面談時、彼はノートを見せず、タバコを吸い続ける。
彼は繋がりを求めている。アーサーの抽象的な話に取り合わないカウンセラーに苛立ちを募らせるのも、彼が本当は繋がりを求めているからだ。
だが、彼が心を開いていないのも明らかだ。市が中止しなくとも、アーサーが変わらない限りこのカウンセリングは成果を挙げることはないだろう。
繋がりを求めつつも、自分を明かすことを拒否するというアーサーの態度は、彼の精神の分裂を表していると思われる。
孤独なダンス
もう一つ、この映画において印象的なのが、アーサーが踊るダンスシーンだ。
最初に印象的に使われるのが、ウェインの社員を撃ち殺した後のトイレだ。太極拳のようにゆっくりな動きの彼は統合を果たしたように見え、そのままソフィーと関係を持つ。
しかし、その後も彼の分裂は統合されることはない。やがてソフィーとの関係が幻覚だったと気付いて二度目の殺人を犯し、またダンスを踊る。踊り終わった彼が考えたのが、自分の死をネタにしたジョークだった。
喜劇を生きると決めた彼だったが、またしても殺人を犯しダンスを踊った。今度は笑いもしないピエロになりきれなかった男として、小人症の男を憐れむ側の立場にいる。
ここまでの使われ方として、ダンスは統合が失敗した象徴として踊られているのだ。
ダンスは人に見せるものである。冒頭、仕事中に披露するアーサーのダンスは、誰にも見てもらえない。失敗を誰にも見てもらえない彼は、一人ダンスを踊り続ける。
観客の視点
しかし、最後のシーン。マレーという自分の夢を撃ち殺したアーサーは、暴徒に祭り上げられてダンスを踊る。
これが本作のクライマックスだが、分裂の統合という観点から見た場合、このシーンの意味はどっちつかずであり、おそらく観客に投げられているのだと思う。
今まで通り統合に失敗したとすれば、統合を果たそうとしてきたアーサーの努力は意味を成さなかったことになり、虚無の物語としては完成する。
だが、それは今までも散々繰り返してきたことであり、観客にとっては予定調和である。これまでのダンスシーンで統合に向かう流れができていてこそ、統合の失敗がクライマックスとして活きるのではないだろう。
あるいは、TVスターへの憧れを殺して悪のシンボルの側へと統合を果たした、という見方はどうだろう。凡人アーサーからカリスマジョーカーへの変身である。
それなら、観客はこのクライマックスで高揚感を覚えることができるだろう。ただその場合であっても、劇中アーサーの凡庸さを見せつけられてきたため、カリスマの誕生に説得力を感じられない。アーサーのカリスマ性を描写していけばジョーカーの誕生に説得力は出るが、それは虚無の物語とはならない。
要するに、何事かを成し遂げた物語とするなら、そのための積み重ねが足りておらず、何も成し遂げない物語として見せるにしたって、それがダラダラと続いてしまっては観客の心は離れていき、見なくてもいい物語に堕してしまう。暴徒にダンスを見てもらった代わりに、我々の目はアーサーを離れる。
例えば、似た構造を有した映画として『ファイト・クラブ』(1999)がある。この作品も、分裂した“僕”が統合を目指す物語であり、物語のラストにはこれまでの過程をひっくり返すような仕掛けが施してある。つまり虚無がもたらされるわけだが、『ファイト・クラブ』においては全編サスペンス調、あるいはそれ以上の緊張感が保たれており、名作足らしめている。『ジョーカー』は、『ファイト・クラブ』と比べると、幾段か格が落ちると言わねばならないだろう。
総論
以上まとめると、『ジョーカー』におけるくどすぎるほどの『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』の引用は、監督による意図的(おそらくパロディ的)なものであり、無闇になされているものではない。
それは、バットマンのスーパーヴィラン、ジョーカーを、あらゆる試みに失敗し続けた凡百の男として描くことによって、そこから投射される宿敵バットマンの存在すらも空虚に貶めるという、これまでのジョーカー同様の悪であり、ゆえに一部の人々は本作を認められない。
また本作のジョーカーは、悪のカリスマでありながら名もなき市民にすぎないというある種の分裂を有しており、それが作品自体の分裂にも繋がっている。
本作はその分裂を観客に向かって投げ掛けているのだが、そうした構造をとるために必要な、観客の心を終盤まで惹き付ける緊張感が本作には欠けている。
画面を構成する色彩の美しさは、さすがヴェネツィアで賞を取ったと言うべき見事なものであり、また主演であるホアキン・フェニックスの怪演も文句の付けようはないだろう。だが、上記の理由により、名作というよりは怪作の類いだと言うべき作品である。
これが、『ジョーカー』に対する僕の結論だ。