アニメ『バビロン』のラストに思ったこと

 

 野崎まど原作のアニメ『バビロン』が最終回を迎えましたが、そのラストに対して思ったことを、というかどう思ったのか僕自身が整理するためにここに書いていきたいと思います。

 

ラストシーンの流れ

 ラストシーンの流れはざっくり言うと、

正崎が大統領を殺害曲世と対峙する正崎響く銃声エンドロール生きていた曲世

という感じ。

 個人的には、エンドロールまでは十分に納得できるものであり、なるほどそういう話かと思ってたものが最後の最後にひっくり返され混乱した、という具合です。

 この最後のシーン、無理に原作と繋げようとしたのでなければ、おそらく制作側が何らかの意図をもって付け加えたシーンのはずなので、その意図を僕なりに解釈してみたいと思います。

 

大統領を殺す意味

 なぜ混乱したかと言えば、曲世が生きているとエンドロールまでの流れが否定されるから。

 劇中の描写によれば大統領は、正崎と思想を共有し、最も正しい判断を下せると民意によって選出された、世界最大の権限を有する為政者。その大統領を殺した正崎というのは、世界最大の悪行を為した人物。

 正しさを為すために、善を行うために行動してきた主人公正崎が、最大の悪に身を堕とす構成はなかなか良かった。

 

エンドロールを見た時の解釈

 その正崎が、悪の象徴曲世と対峙。善人の時は手も足も出なかった曲世に、悪人となった正崎は銃を向ける。

 同じく指鉄砲を作り正崎に向ける曲世。悪と悪が同じ姿勢で向かい合う構図も、上手い対位法。

 そこで問答があり、正崎の口から大統領が辿り着いた、善とは続くことであり、終わらせることが悪という結論が語られる。

 そして銃声。素直に考えれば、正崎が曲世を撃ったと予測される。

 善人の軛から離れた正崎が、諸悪の根源である曲世を殺し、メタ的にこの『バビロン』という物語をも終わらせた。

 少しアクロバティックだけど、物語の締めとしては悪くない。

 

エンドロール後の混乱

 しかし、余韻に浸っていたのも束の間、エンドロール後に現れた曲世によって、浅薄な解釈は瓦解。

 このシーンが示唆する可能性をいくつか考えてみる。

 

最後の女性が曲世愛ではない可能性

 劇中の描写として、曲世には顔がない。逆に言えば、曲世の顔をしてるからといって、必ずしもそれが曲世とは限らない。

 つまり、曲世当人は殺したものの、曲世に類する存在が新たに出現し、世界の脅威は去っていなかったとするオチ。

 無くはなさそうな気はするが、問題は曲世が脅威としてデカすぎること。

 劇中やってみせたように、曲世は世界の最高指導者をいとも容易く殺せる存在である。そんな脅威がポンポン出現するなら、世界はもうとっくに滅んでる。

 世界の崩壊まで描かれていれば納得したかもしれないが、あそこで放り出されても曲世が何人もいるというオチには納得できない。

 

銃声が正崎のものではない可能性

 劇中、銃口を向けるシーンまではあるが、実際に正崎が引き金を引くシーンは描かれていない。

 あの場に居合わせていた第三者が正崎を射殺し、曲世が生き延びたというオチ。

 大統領殺しをしでかした大悪人正崎を世界の善意が殺し、結果として真の悪である曲世を世に解き放つという解釈は、善悪を問うてきた本作のラストに相応しい気もする。

 だが、そこまでメッセージ性の強いラストにしたいのなら、なおさらなぜ正崎の死を描写する必要があるだろう。何が起こったかわからないままでは、議論のしようがない。

 

 従って、飛躍がありすぎる上記二つの仮定は不採用とし、あの場には銃を持った人間が正崎しかおらず、銃弾が放たれたものの曲世が死ぬことはなかった、という前提の下、以降議論を進めていく。 

 

撃たれたのが曲世ではない可能性

 さて、一発の弾丸が撃たれ、二人の内一人が無事だったとすれば、残る可能性はもう一人を撃った、つまり正崎が自分自身を撃ったということになる。

 少なくとも劇中、曲世は任意の相手を何度となく拳銃自殺させているので、この世界ではそれも可能である。

 ではなぜ、曲世は正崎を殺したのだろうか。

 正当防衛という見方も成り立つが、曲世は自分から正崎の前に姿を表しており、端的に言えば殺されに行っている。

 その理由は、直前の会話から推察するしかない。

 

正崎の答えは正しかったのか

 ちなみに、正崎の返答が間違っており、期待に沿えなかった出来の悪い生徒へのペナルティとして殺したという推測も成り立つが、それでは大統領を副主人公にした意味がなくなってしまう。

 正崎の出した答えは彼一人の言葉ではなく、世界の最高指導者が人類を代表して下した結論として描かれている。

 人類全体を巻き込んでおいて、全部間違ってました、ではさすがに締まらない。

 なので、正崎の答えは曲世の期待に沿えていたものとする。

 

善悪を考えること

 曲世は正崎に善悪の定義について尋ね、その答えを得ると彼を殺した。

 この『バビロン』という物語の特異性であり、物語を成立せしめているのは、その気になれば容易く世界を掌握できる女が、たった一人の男の気を引くためだけに大量殺戮を繰り返している点だ。

 そして曲世は、陽麻を殺す自分を悪と断じながら、善悪について考えるよう正崎に宿題を出す。

 陽麻の死亡後、残念ながら善悪を考える役割は大統領に引き継がれるが、大統領が辿り着いた同じ境地に自分も立っていたとして、正崎は曲世に返答する。

 その観点に照らせば、先刻正崎が為した大統領殺害は、正しかったかもしれないが間違いなく悪である。

 つまり、正崎はものの善悪を理解しながら、強靭な意志をもって悪を遂行する悪人として曲世に向き合っており、それこそ曲世が正崎に宿題を課した理由だと思われる。

 

「悪いんですけど」

 終わることが悪だという正崎の主張に、曲世が頷いて「悪いんですけど」と言うと、銃声が響く。

 曲世が何かを終わらせたのは間違いない。それは何か。もし正崎を殺したのだとすれば、終わらせたのは正崎との関係だ。

 惨劇を終わらせるという正崎の悪は為し得なかったが、これまで正崎と続けてきた善悪って何ですかゲームは、正崎の死によって終わる

 所詮正しい悪にすぎない正崎が、悪の権化である曲世に呑み込まれて終わるなら、後味は悪いが物語のラストとしては納得できる。

 ところが、曲世はその後で正崎の息子に接触する。正崎との関係を終わらせていないのだ。

 これでは正崎を殺す意味がわからないし、何より作品が提示した善悪の定義からすれば曲世が悪ですらなくなってしまう。

 

バビロンの大淫婦

 曲世は悪ではなかったのだろうか。

 劇中、曲世とタイトルである大淫婦バビロンを重ねるように描写される場面がある。

 個人的にこういう日本名のくせにキリスト教の宗教観に由来してるタイプのキャラクターは引っ掛かるのだが今は置いておくとして、バビロンとは人類を堕落させる悪徳の化身であり、女の姿をしているとされる。

 曲世がしてきたのは、人々を自殺させることだった。

 死は忌避されるものだが、自殺そのものは悪ではない。

 だが、この物語では自死が性交に喩えられる。曲世に誘惑された者は、姦淫に耽るように自死の快楽に溺れ落ちてしまうのだ。

 その様は、悪徳のアレゴリーとされるバビロンさながらだろう。

 また大統領は曲世にサタンを見ている。

 やはり、曲世は悪と見て間違いないだろう。ただし、それは単なる悪人ではなく、バビロンやサタンといった観念的な悪に近い存在である。実際、曲世は超常的な能力でもって人々に暗示をかけている。出自の不明瞭さも、曲世の存在の不気味さを表すのに一役買っている。

 

ホラーオチ

 曲世が悪魔のような観念存在だとすれば、ラストシーンの解釈にもう一つの可能性が生まれる。

 すなわち、正崎は曲世を撃ったが、曲世は死ななかったパターンである。

 ホラー映画などで、死んだと思った怪物がエンドクレジット後実は生きていたというオチはよく見られ、本作の最後はそれによく似ている。

 だがそれで良いのだろうか。

 曲世に対する恐怖が最大限に高まるのが、第2章のラスト陽麻を惨殺したシーンである。そこで曲世から出されたのが善悪って何ですかの問いであり、哲学議論のシークエンスに入った本作は、最終的に善悪の定義を確定させる。

 ホラー作品として終わってしまっては、曲世は何のために善悪について考えろと正崎に言ったのだろう。

 正体を見極められた悪魔は弱体化するパターンがあるが、曲世に至ってはそんなこともなく、物語上の思考実験が単に無意味なものとなってしまった。

 

曲世愛の物語

 ラストで抱えるこのモヤモヤ感。実はこれは、正崎とともに曲世を追ってきた我々が常に抱えてきた感情である。

 初め、野丸に利用される娼婦の一人として正崎と面会した曲世は、新域を掌握した齋の下で人に自殺を促せることを披露する。また正崎のチームを壊滅させる際に、それが一言囁くだけで可能であり、ある程度行動をコントロールできることも示している。

 変装の域を超えた幻術で顔を変えながら、正崎がその身に手を掛けようとする度に、娼婦→凶悪犯→悪魔的存在へとそのスケール感を上昇させていく。正崎と我々は、身柄の確保はもとい、曲世愛という存在の把握にさえ失敗し続けてきたのである。

 その感覚からすれば、見定めたはずの悪の領域からするりと抜け出て、ストーリーの連なりを無に帰するような悪事を引き起こして去っていくというのは、いかにも我々が見てきた曲世らしいと言えなくもない。

 

悪戯っ子バビロン

 曲世をサタンやバビロンに通ずる存在と上述したが、サタンとバビロンではニュアンスに違いがある。

 堕天使ともされ明確に神へ反逆の意思を持つサタンに対し、バビロンは存在の本質が悪徳なのであり、バビロン自身の意思が描かれるということは少ない。

 そこから推察するに、曲世本人には悪を行使するという意志が存在しないのではないだろうか。つまり、曲世は真剣に善悪に関心があったり、行動に何か指針があったりするわけではなく、ちょっとした興味本位で正崎善を悪人にできるか試したかっただけ。悪を為そうとして正崎と出会ったのではなく、正崎と出会ったから悪に興味を持った。

 曲世愛という悪戯っ子に人類全体が振り回される話。『バビロン』はそう捉えることもできるかもしれない。

 

まとめ

 我々は、曲世に目を付けられ、人生を狂わされた正崎の視点から『バビロン』という物語に触れた。

 また、正崎から大統領に視点が移った終盤は、この世界がどういう結末を見るのかということが物語を引っ張る動因になっており、なればこそ正崎も曲世も絡まないストーリーを追ってきたのだ。

 その結果、思考実験にしてはラストをぶん投げすぎであり、ホラーにしては余計な部分に尺を割きすぎという混乱に陥った。とりわけエンドロール後のシーンは、真剣に考えれば考えるほどわけがわからないというシーンになってしまっている。

 『バビロン』は、思考実験としてもホラーとしても、どっちつかずで納得がいかない作品になってしまった。

 だがそれは、見方が間違っていたのである。本当の主人公は、登場シーンは少ないながらタイトルにその名を冠している曲世愛であり、『バビロン』の二面性は曲世愛の有す二面性なのだ。

 人智を超えた悪魔的な能力を有していながら、善って名前で悪人だったら面白いみたいな興味本位で行動している。哲学的問いを吹っ掛けてきたかと思えば、その是非には大して関心がない。

 そんな女性が、ちょっとした退屈しのぎに堅物の男性をからかった時間。『バビロン』は、彼女の人生の一夕の出来事を描いた物語だったのだろう。

 個人的には銃声で終わっていた方が良かったと思います。