『ルックバック』の修正に対する一読者の所見

 

 7月19日に発表された、藤本タツキ先生の書き下ろし作品『ルックバック』に対し、先日編集部名義で修正が入ったことについて、僕も思うところをここに書いておこうかと思います。

 

 

ジャンプ+の対応について

 編集部の意向としては、作中登場する殺人鬼の精神疾患描写を差し替えたということであり、実際の修正もそうなってる。

 まずは、この編集部の対応の何如について。

 我々人類社会は、精神疾患者に対して非常に凄惨な扱いをしてきたという歴史的な事実があり、現在はそれが可視化されたため、そうした偏見を強化しうる言説は是正されるべきというのが現代社会の“モード”である。

 こうした倫理規定がフィクションにも適用されるべきかについては一考の余地があるが、価値観の転換を図るため、ある種反動的に取り締まる必要性は、まあわからなくはない。“マス”メディアで扱う場合には社会的影響力があるということらしく、その要請の結果が「作品内には不適切な表現もありますが、制作時の意図を尊重し、そのまま放送致します」というアレ。

 ジャンプ+がマスメディアなのかは微妙というか正直疑問だけど、こういう声を上げる人達は売れないコンテンツには見向きもしないので、『ルックバック』の話題性が大作映画並みだったってことなんでしょう。編集部は、それに見合った責任の取り方、あるいは逃れ方をしなきゃいけなくなった。

 

 私としては、現代社会でビジネスとしてコンテンツ作りを運営していく上では、仕方ない処置かなと思う。

 現代社会というのは、ネット社会。ネット社会は、良くも悪くもスピードと数に支配されてる。情報の発信、更新が容易であり、それに対して即座なレスポンス、リアクションが返ってくる。しかもそのアクターがネットに繋がる全ての人間であり、目に見える形で“民意”というマジョリティが形成される。ジャンプ+も、そのネットのスピードと数を味方につける、紙ではできない商売の仕方。

 ただし、そのスピードと数の結果生まれたのが、感情で繋がった人々が数の暴力で相手を袋叩きにする“炎上”という現象。ジャンプ+みたいにまともにネットの商売をしたいなら、炎上は避けたい。炎上への対処で1番効果的なのが、火元を速やかに消去し、他に火種となるような発言を残さないこと。一時の感情で集まった野次馬は、火の消えた場所にいつまでも粘着したりしない。

 ジャンプ+は、この問題を“炎上”として処理した。コンテンツを発信する出版社ならば、作家の表現したかったものをこそ守るべきで、外野の声に屈して作品を変えさせるなどあってはならないという意見も、理念としては正しい。もしジャンプ+の対応が、作家を犠牲にして会社を守るものであれば、漫画ファンとしては許せない。

 ただ、ジャンプ+の今回の対応は、紙での出版を見据えての対処であると思われ、作品を残すことを第一とした判断と言えるんじゃないかな。仮にここで“正しい”意見と下手に戦って不買運動なんか起こされたりすれば、最悪タツキ先生自身にも火の粉が降りかからないとも限らないわけだし。

 一読者としてはタツキ先生が食えることが1番なので、ジャンプ+のビジネス的な今回の落とし所も已む無しじゃないかとも思えるし、先生の名前を出さずに編集部名義の声明を出したのも、作家を守らずに編集側が独断専行したとは必ずしも言えないんじゃないかと思う。

 

 私見だけど、今後こういうパターンは増えてくる気がする。

 差別的言説の是正は国際的なモードではあるけど、Twitterなんかの印象でも“正しさ”を求める声は年々強まってるし、誰でも意見を表明できるネット社会では、こうしたわかりやすい“正しさ”はすぐにマジョリティ化する。炎上を回避したければ、“正しい”批判と真っ向から対立するわけにはいかない。

 また、紙の媒体は、表現が不適切と認定されて紙面を変えるならば結構なコストがかかるし、回収ともなれば更に大きな損失が出る。が、今回のように発表の場がweb媒体なら、元データを消去して新規データをアップするだけであり、比較的低コストで行える“現実的な解決策”である。

 そうなれば、変えられるのに変えないとは何事だという声も出るわけで、表現を“正しさ”の方向に導いていこうというモードはより推し進められることになるだろう。この歴史の流れに、表現の自由1本で逆らうのはおそらく難しい。公共の理念に対し、それを侵してまで主張できる権利はない。

 まあ紙媒体でも、版で表現が差し替わったりすることは多々あって、だから初版にプレミアが付いたりもするんだけど、今回の場合その初版そのものが幻となったということも騒動が大きくなった一因でもある。版を残すということ自体がある種の意思表示となってしまうため、仕方ない措置ではあるが、読者からすれば作品を“なかったこと”にされるというのはなかなか耐え難い。今後作品のオリジナルを担保するためには、“人目につかない”同人誌として出版する他ないのかもしれない。

 公開が比較的容易なことや、話題性の作りやすさの点から見ても、ジャンプ+に限らず、新作漫画発表の場としてのwebは、最早定着しつつある。そのネット社会における“不適切な表現は許さない”というモードや、媒体自体の修正のしやすさから言っても、一度人目に触れた作品が修正を受けるという事象は、今回に限ったことではないだろう。それが歴史の必然なら受け入れる他ないが、この先こうしてなかったことにされる作品が増えていくのだとしたら、残念な気持ちはある。

 

 以上のことをまとめると、ジャンプ+の対応はビジネス的な炎上対策で、作家を世に送り出すことを生業としているにしては、少し場当たり的な印象は受けるが、作家を守る責務を放棄したとは必ずしも言えない。

 こうした“不適切な表現に対する修正”は社会の趨勢であり、おそらくどうしようもないが、一度発表された作品がなかったことにされることに関しては、何かしらの手が打たれて欲しいと思う。というのが、私自身のスタンスです。

 まあもし、「ウチは飛んで来る矢弾も全て受け止めて、作家を守るぞ」という気骨のある出版社があれば、個人的には推したい気持ちはあるけど。

 

 

『ルックバック』の中身について

 さて、前置きが長くなったけど、読者としての1番の関心事は、修正によって『ルックバック』という物語が変質させられてしまったのかということであり、俺も本当に語りたかったのもそっち。

 今回の修正に関しては、一応タツキ先生自身から修正したいと申し出があったという集英社側の発表があり、それがどこまでタツキ先生“自身”の意思だったかが読み取れないので、憶測で波紋を呼んでるわけだけど、俺はこれを100%(何をもって100%とするかは置いといて)タツキ先生の意思で、修正によって作品の本質は変わらず、むしろ作品の強度が増したとさえ思っている。

 以下、俺がなんでそう思うのか説明する。

 

本質的な改変ではない

 修正は精神疾患を思わせる描写を書き換えたものだけど、これによって本作の京アニ放火事件に対する接続という最もキャッチーな部分は失われた。それは認める。2年後の7月19日に発表されたことから考えても、先生がこの作品の中にあの忌まわしい事件を落とし込もうとしたことは事実だろう。だが、あの事件はこの作品を構成する本質的な要素だったんだろうか。

 これは俺の価値観になるけど、制作当時の社会状況や作者の半生といった、作品の外部にある情報を汲まななければ読み込めない物語は、完成度が低いと思っている。修正前の『ルックバック』は、読者の共通記憶である2年前の7月19日を呼び起こさせることによって、読者個々人の悲しみを藤野の補助線として引かせることに成功していて、これ自体は秀逸なギミックだと思うけど、それはあくまで補助線でしかない。

 『ルックバック』公開後のリアクションを見て俺が引っ掛かったのが、この作品を読んで改めて2年前の事件への怒り、犯人を許せないという思いが湧いたってやつ。もちろん、作品を読んだ上で、2年前の事件に思いを馳せ、その上で改めて事件に対する感情が去来することはあるだろうし、タツキ先生にもその意図はあったと思う。

 ただ、これは俺の言語感覚の問題でもあるんだけど、「怒り」とか「許せない」っていうのは義憤から来る断罪意識から発せられる言葉で、そうした社会正義の実現って藤野の再生の物語である『ルックバック』からはかけ離れた感想な気がするんだよな。だって藤野は藤本タツキの主人公だぞ。もし許せないが1番なら、生涯懸けて京本の仇を取るだろ。

 修正したいっていうのが100%タツキ先生の意思だとした上で、修正シーンが『ルックバック』の本質を変えないようなものだったとしたら、こうした2年前の事件に引き摺られ過ぎている感想を目にして、敢えてそこと距離を置いたという見方もできるかもしれない。

 

修正の影響

 つっても描写変わってるじゃんっていう人は、もうちょっと作品をよく見て欲しい。今回の修正で見られた感想で、犯人が単なる通り魔になったっての見たけど、そんなわけない。

 テキストで示された「誰でもよかった」って供述を鵜呑みにしてんだろうけど、だったらわざわざ人里離れた美大に乗り込んでいったりはしない。京本を罵倒しながら犯人は、修正前同様、目に涙を浮かべている。台詞を見ても、いわゆる無敵の人なら、美大生が自分を見下してるとは思わない。絵が描けることへの憧れがあるからこそ、絵を描かない人間達の言葉で、絵を描ける人間を否定する必要がある。修正後の犯人も、劣等コンプレックスで自身を押し潰して、絵への愛着が憎悪に変わって美大生に襲い掛かったって部分は何も変わっていない。

 じゃあ何が変わったのか。俺はこの一連のシークエンスを、“「背中を見て」を目にした藤野が瞬間的に創造した、京本が主人公の時空”だと思ってるんだけど、まあわかりにくかったら、藤野キョウが生まれることなく、京本が生きてる世界線だと思ってくれていい。

 絵を描くという行為に救いを見出だした京本に対して、修正前のこの“京本時空”で襲い掛かる犯人は、絵を描く行為が人に与える呪いの面の象徴になっている。救いと思っていた絵が呪いとなって返ってきた絶望を、昔憧れた藤野先生が吹き飛ばしてくれる。その歓びから懐かしくなって描いた「背中を見て」がきっかけで、自分の描いた漫画が京本に対する呪いではなく救いだったことを、こちら側の藤野は知る。

 一方で、修正後の犯人は、より客観的な絵を描く行為に対する抑圧を代弁している。犯人が京本に投げつける”絵なんか描いても役に立たない”とは、京本を喪った藤野が覚えた絶望であり、小学生の藤野が社会から浴びせられた視線。絵を描く行為を否定する社会の抑圧が、絵でしか生きられない京本を圧し潰す刹那、絵を捨てたはずの藤野が昔と同じ京本のヒーローとして登場する。

 修正後では、藤野と京本の最後の台詞がより意味を持つ。小学生の頃ならともかく、大学生の京本は流石に藤野がペンを折った理由、たった今暴漢に投げつけられた罵倒に察しがついている。それでも尚、自分が憧れた藤野先生には聞かずにはいられなかった。そしてその返答は、かつて憧れた藤野先生そのもの。このシーンは、雨の中のスキップの完全に裏返し。たとえ嘘だとわかっていても、その歓びが「背中を見て」を描かせ、同じ絶望にうちひしがれた藤野をもう一度奮い立たせる。

 

 

引きこもり世界大会

 修正前の犯人をあり得たかもしれない藤野って解釈してる人がいて、それはそれで興味深くてなるほどと思ったんだけど、俺の解釈ではむしろ、犯人は京本と対になるように描かれてると思う。

 先も言ったように、藤野は才能の差に対して「やーめた」が出来る人間で、クラスの中心にいる運動神経抜群の空手少女。絵だけに救いを求めて縋り付く京本の方が、絵に囚われた結果凶行に走った犯人に近い。

 「オレのをパクった」って言ってるのも、藤野の作風をパクって「背中を見て」を描いたのは京本だしね。まあこれは関係ないか。何にしろ、犯人と向き合ってる京本の表情から、俺はそう感じた。

 じゃあなんで、犯人を蹴飛ばして怪我をするのか。”京本時空”の導入となる「引きこもり世界大会」。こちら側で京本を部屋から出すことになったこの4コマで、藤野はオチにまだ会ったことのない京本を死体として登場させる。その偶然の一致もあってか、動揺した藤野が4コマの下部をちぎったことで京本時空に切り替わる。

 そうして始まった京本時空で、京本は藤野の介入がないまま美大へ進学し、事件に遭遇する。この世界は、京本の死というオチを藤野がちぎったことで生まれたため、藤野の介入によって京本が死が回避され、代わりに作者である藤野が下半身を怪我する。ということなんじゃないだろうか。

 つまり、京本を救った藤野というのは漫画を否定した藤野であり、足を怪我した藤野というのは無邪気に漫画を描いた藤野。死と怪我が釣り合うのかという問題も、これで説明できるのでは。修正前と後の京本時空の描写をそれぞれ照らしてみる。

 まずは、絵の持つ救いと呪いがテーマだった修正前の京本時空。絵に救われて美大に入った京本は、京本を外の世界へ連れ出した「引きこもり世界大会」の救いの面。絵を呪って美大生を殺した犯人は、京本の死をジョークにした「引きこもり世界大会」の呪いの面。藤野が無邪気に描いた「引きこもり世界大会」には、救いと呪い両方の側面があった。しかし、京本の死に直面し、漫画ごと呪いを否定することで、漫画を捨てた藤野が京本を救う。

 修正後の京本時空では、”社会”を介することによって、それらの表象がより具体的になる。「引きこもり世界大会」が表していたのは、京本(絵)に対する藤野自身の葛藤。社会から引きこもって絵を描いている京本の凄さをわかっている「出てくるな」と、藤野自身が受けた絵を描く行為に対する社会からの抑圧が「出てこい」。そしてそのオチとして、藤野の嫉妬が混じった京本の死。だが、後半がちぎられた京本時空では、漫画を捨てた代わりに抑圧からも嫉妬からも解放された藤野が、絵を肯定するヒーローとして京本を救う。

 

背中を見て

 漫画を捨てたはずの藤野が、なんで絵の表象である京本を救えるのかってなるけど、その答えを示すのが、藤野先生へのアンサーとして京本が描いた「背中を見て」。

 悪漢を蹴飛ばして京本を救った藤野は、あたかも藤野キョウの描くシャーク様さながら。だが、実際の藤野は漫画のヒーローにはなれず、足を折るというダサさを見せる。そのことが、「背中を見て」のオチに直接的な反映として表される。

 だが、京本が描きたかったのは、そんなエッセイ漫画ではなかったと思う。「引きこもり世界大会」に救いと呪いがあったように、この「背中を見て」も両側面なのだ。

 絵の救いの面を表す京本を救ったものの、犯人の持つ呪いの鎌が突き刺さった藤野先生は、漫画を捨ててしまっている。ケガはないかと尋ねておきながら、自分自身重傷を負ってる情けない姿が、京本からははっきりと見えている。「何も役に立たない」という言葉に潰されても、先生としてカッコつけるダサい藤野が、「背中を見て」で京本の描きたかったもの。

 じゃあ藤野を揶揄したくて描いたのか。当然そうじゃない。それが端的にわかるのが、作風。この4コマのスタイルは明らかに藤野先生をトレースしたもの。学級新聞に京本が描いた4コマは全て風景画で、それは行けないけど行きたいと強く望んでいた場所。

 中盤、制作ペースが上がるに従って、2人の描く漫画が京本の画力を活かしたものから藤野のアイデア勝負の作品にシフトしていき、遅筆の京本にそもそもの作業がなくなった結果1人旅を始め、行けない場所が実在する空間から美術の世界へと移り変わっていく。

 その京本が、藤野先生の作風で4コマを描いたのだ。なぜなら、藤野先生の背中こそが、京本を夢へ向かって歩かせてくれたから。たとえハッタリだろうが、私の前では救いを与えてくれた藤野先生のままでいてくれた。自分は抑圧に屈していても、絵に縋って生きる私を肯定してくれた。そのダサい背中こそ、私にとってのヒーローそのもの。

 藤野先生の背中を見て成長した証として、藤野先生の作風をトレースした「背中を見て」を、京本は描いたんじゃないだろうか。

 

藤野の再生

  京本を部屋から出した「引きこもり世界大会」とちょうど対に、「背中を見て」は藤野を京本の部屋へ招き入れる。そこで藤野が見るのは、彼女の知らなかった京本の視界。

 「引きこもり世界大会」が部屋の外へ導いたように、「メタルパレード」の賞金が町へと連れ出したように、藤野は漫画を描くことで京本に歓びを与えられると思っていた。遊びきれない程のお金と同等の「描いててよかった」という思いは、初めて会った時に京本が藤野にくれたものだったから。だからこそ、袂を分かった後でも”藤野キョウ”の名義を残し、京本がいつでも帰ってこれるように漫画を描き続けた。

 それが、京本の死によって、全て無駄に終わる。自分の描いた漫画が救いではなく呪いだったのではないかと転化する。自分の背中を見たせいで、京本があれほど恐れていた社会との接点を生み出してしまったのではないかと絶望する。

  そこに、「背中を見て」が挿し込まれる。漫画家として活躍する藤野キョウは、夢への1歩を踏み出したばかりの京本にとって、憧れだった。思えば読切執筆時のスタイルも、ちゃぶ台で描く京本は、常に勉強机で描く藤野の背中を見続けていた。

 部屋に飾られた京本の半纏。その背中には、藤野が生まれて初めて書いたサイン。藤野にとって京本は、自分のファン第1号であり、自分の漫画を肯定し、漫画家にしてくれた存在。

 京本と違い、藤野の描く4コマは全てギャグ漫画だった。それは、読む人が楽しんでくれることが藤野の歓びであり、漫画を描く動機だったから。そしてその歓びをいつも味わわせてくれたのが、自分の1番のファンであり、最初にリアクションをくれた京本。京本に認めて欲しくて漫画を描き、いつしか漫画家になっていた。

 半纏の背中で堂々と存在感を放つそれは、藤野の漫画が京本にとってどれ程支えになっていたかを物語る。藤野の背中を見て前へ歩き出すことができた京本の背中が、今この瞬間の藤野を立ち直らせるのだ。

 

ラストシーンの解釈

 京本との思い出が去来する中、藤野は自分の漫画を読み返して涙を流す。さっきまでの、漫画に絶望して流した涙とは対照的に。

 京本の部屋で見た光景は、漫画に呪いがあることを思い知らされて尚、その救いを信じた京本の遺志に藤野の目を向けさせた。あるいは、結局社会の中で京本を幸せにすることができなかった無力感から漫画を否定した藤野に、漫画を通して得られた京本との楽しかった時間を思い起こさせた。

 そして、今の自分が漫画家であること、京本によって漫画家にしてもらえたことを噛み締める。京本の部屋を出た藤野は、仕事部屋で一人机に向かう。救いも呪いも引き受けて、京本が信じた救いを本当にする。京本が見せてくれた歓びが、嘘じゃなかったと証明する。その決意が宿った背中が、本作のラスト。

 何度も言うけど、これはあくまで俺の解釈であって、これを読んでる人の中には「そうじゃねえだろ」って思ってる人もいると思う。『ルックバック』は、そういう解釈の幅を持たせる作り方をしてるし、俺自身も他の人がどういう解釈をしたのか知りたい。馬鹿なお前に俺が正しい読み解きを教えてやるって人がいたら、匿名コメントでいいから書き込んでみてくれ。

 ただ、どんな解釈だろうと、この物語の根本は、悲劇的な事件に対して己の無力を痛感した漫画家が改めてペンを握るまでの再生だと思うし、それは修正前にしろ後にしろブレないと思っている。

 タツキ先生は、非常にセンセーショナルな事件を題材にしながらも、主人公を一漫画家としてあくまで内省的な物語の形で作品を綴じた。だから、犯人の台詞が変わったとしても、物語の本質は変わらない。これは社会に対するメッセージではなく、悲劇の受容の方を描いたものだから。

 むしろ、絵の持つ救いと呪いという抽象的なテーマの修正前より、修正後の社会の中における漫画家というテーマの方が、京本時空も藤野の物語として芯が通ったと感じるのだ。

 2年前の7月19日との直接的な繋がりが断たれた修正後においても、悲劇を受け止めて前に進む藤野の背中は強烈な印象を残す。それはあたかも、京本時空に切り替わっても京本を救ってくれた藤野先生のようであり、それこそが京本の愛した漫画の力なのではないだろうか。