AE86はRX-78だ‼️ 『頭文字D』感想記事〜秋名ダウンヒル伝説誕生編〜

 

 去年のジークアクス祭り最大の功績は、令和のこの時代にファーストガンダムへの巨大な導線を引いたことだと思う。

 あれから1年が経ち、ジークアクスきっかけでファーストガンダムを見始めた層も、そろそろガンダムロスが起きて新しい作品を求めている頃じゃないだろうか。

 そんな人々にオススメしたい作品、それがしげの秀一原作、アニメ化もされた大ヒット漫画『頭文字D』だ。

 

 

 片やロボットアニメ、片や走り屋漫画ということで一見接点は無さそうだが、知ってる人にはお馴染み『頭文字D』には、親父のマシンで戦いに挑む主人公、“赤城の白い彗星”の異名を取るライバル、そのライバルが乗るRX-7はガンダムの型番RX-78の元ネタと、『ガンダム』に繋がる設定や描写が幾つもある。

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 何より、私が「秋名ダウンヒル伝説誕生編」と題した序盤の読み味は、ファーストガンダムの前半戦と非常によく似通っている。なので、『機動戦士ガンダム』を楽しめた人間なら、『頭文字D』もきっと楽しめるはず。

 まあそれでなくても、一度は聴いたことのある有名タイトルで、続編『MFゴースト』のヒットを見るに『昴と彗星』のアニメ化も控えていそうなこの時世、それらの源流である『頭文字D』についてもこの際抑えておいて損はないと思う。

 ということで以下、『頭文字D』序盤“秋名ダウンヒル伝説誕生編”をおさらいしながら、そのファーストガンダムにも通ずる面白みを紹介していきたい。尚、原作とアニメでは構成が異なるが、原作1巻vol.1〜5巻vol.50、アニメ1期最終回の涼介戦までを範囲とし、両者を併記する形で参照したい。個人的には、どちらから入ってもその面白さは伝わると思う。

 

OPENING: 車に無関心な主人公

 『頭文字D』を手に取ろうとする人にとって最大のネックは、「俺…車の運転は出来ないし、興味もないんだよな〜」ではないだろうか。安心して欲しい。かく言う私も運転は出来ない。

 確かに専門用語は出てくるし、運転の上手い奴がカッコイイという価値観の世界だ。だが主人公の拓海自身、運転技術こそ卓越しているものの、車に関して当初は素人同然の状態から始まる。

 それでも楽しめるのは、この作品の、特に第一部は主人公、拓海の成長譚としての軸がはっきり通っていて、キャラクターの劇で読ませる漫画としての面白さで勝負している作品だからだ。

 ガンダム、ガンダムと喧しく言う理由はそれで、ガンダムファンの中に、宇宙世紀の物理学に長じ、巨大ロボの操縦経験がある人は誰一人いない。それでもこれだけ多くの人に受容されている理由は、その世界観で描かれる少年少女達の人間ドラマが十分見応えあるものだからだ。

 もちろん、本作のメインターゲットはスポーツカーを走らせるドライバーであろうし、しげの先生はこの作品を機に車の運転に興味を持つ若者が増えて欲しいと思って描いているとは思う。

 だがまずは、ライバル達との出逢いを経て主人公が成長していく、少年漫画的な王道の物語だと思って、知らない世界に気後れしていた人も、この名作に触れてみてもらいたい。

 

BATTLE1: vs高橋啓介 FD-3S

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 物語は、仲良く車を転がしてたスピードスターズのホーム秋名へ、群馬制覇を目論む赤城レッドサンズが乗り込んでくることで始まる。率いるのは峠のカリスマ高橋兄弟。ガンダムで言えば、サイド7へ威力偵察を敢行するシャアの部隊。

 レッドサンズの圧倒的な実力を前に、手も足も出ない秋名スピードスターズ。さながらザクに蹂躙される連邦軍。一矢報いたい池谷先輩の奔走により、高橋啓介との決着の場へ主人公、藤原拓海が担ぎ出されることとなる。

 この時の拓海は、父親の英才教育により驚異的な技術を持ちながらも、運転自体への関心は全くと言っていい程持たず、走れば勝てるとは思いながら走りたいという気は一切なかった。いやいや乗りながら圧勝する所も、アムロ譲り。

 直接の言及はないが、後の走り屋達の言動から類推するに、おそらく拓海はこれまで本気で走り合いをしたことがなかったのだ。自分より下手な相手に勝つのは当然。わかりきった結果を前に、全力を出してぶつかる、自分の実力を試す勝負のその意味がわからなかった。

 そんな拓海が走る気になったのが、ヒロインなつきとのデートという餌(笑)。だがこのなつきの存在は大事で、拓海が今何を思っているかという心情の吐露は、作劇上、主にバトルの合間に挟まるなつきとのデートを通じて行われる。

 啓介とのバトル。アニメだとわかりにくいが、この時から拓海は既に走りを少し楽しんでいる。それは、結果は完勝でも、必殺技(笑)“溝落とし”を使う程、啓介とFDの戦闘力が拓海のハチロクに迫ったから。

 その後の「恐怖のダウンヒル 池谷コーナー3コで失神事件」でも、池谷先輩をからかうためわざと接触させてみたりと、持ち前の運転技術に周囲がリアクションしてくれるのを、徐々に誇らしく思えるようになってくる。

 ハチロクが見せてくれた自分の可能性を、拓海は戸惑いつつも受け入れ始めていく。これ以降、拓海の中に、ハチロクで走ることと自分自身の同一化、そして一廉の男としてのプライド、走り屋としての自我が芽生えていくこととなる。

 

BATTLE2: vs中里毅 R32GT-R

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 とは言え5年もの間、家業の手伝いで運転を続けてきた拓海が、一息にそれをアイデンティティとして受け入れられるわけもなく、車を走らせて粋がる“走り屋のノリ”への反発心から中里の挑戦を拒み、それが親友イツキの窮地を招く。(笑)

 思うに、この時期の拓海は、運転技術を身に付ける文太のスパルタ特訓を貧乏故の労苦であり、忌避してはならないと半ば強迫的に受け入れていた。“逃げちゃダメだ”だ。それが一種のコンプレクスとなり、運転が好きな自分にも蓋をしていたのだろう。

 その本心を見透かす啓介から、拓海は既に走り屋であり、その矜持を持てと発破。最終的には祐一の策略に乗せられるわけだが、“自分のやったことに自惚れられない人なんて嫌いよ”“悔しいけど僕は男なんだな”。こういう流れで、拓海は走り屋としての自分と向き合っていく。

 対する中里の車は劇中最高クラスのパワーマシン、380馬力のGT-R。特にアニメ版は制作陣がお気に入りなのか、バッハのトッカータとフーガで始まる専用テーマ付き。ACT.5で涼介のFCを追いかけてエントリーする所は鬼カッコよく、正直CGが初代PSレベルの残念な描画だが、Final Stageまで含めてマシンの迫力を最も感じるシーンはここだと思う。

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 勝敗の決め手はブレーキング。ハイパワーをABSで強引に止めグリップで回る中里に対し、限界挙動を自在にコントロールする拓海は、機械制御じゃ真似出来ない瞬間的な横スライドでラインを捩じ込み、タイヤのタレた相手の焦りを誘った。性能差をドラテクで凌駕してみせたのだ。

 ただし拓海一人の力で勝ったわけではなく、GT-Rとの対戦を見越した文太が、立ち上がりでアクセルを開けられるバトル仕様にセッティングし直していたのだった。勝ちたいという自分の思いに応え、強敵から勝利をもたらしてくれたハチロクという相棒に、拓海の中で今までにない愛着が生まれてきた瞬間だった。

 

BATTLE3: vs庄司慎吾 EG6

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 走り屋の自覚と同時に、ハチロクが親父の車という気後れも感じ始める拓海。軽より遅いハチゴーを買ったイツキにも素直に尊敬を抱き、バカにされた時はあれ程バトルを嫌がってた拓海自らハンドルを握って、その連中を抜き去った。

 彼らは、中里がリーダーを張る妙義ナイトキッズ。群馬が舞台の第一部において、走り屋のガラの悪さを担うのがナイトキッズ。ナイトキッズNo.2の慎吾が、拓海の次の相手。そのバトルに至る経緯だが、原作とアニメでは異なっている。

 拓海を引き摺り出すため、スピードスターズの池谷先輩を標的にする煽り運転のプロ(笑)デンジャラス慎吾。コケにされる池谷先輩に、原作は拓海がキレてバトルに突入するが、アニメではハチロクに乗ってなかったので知らんぷりを決め込む。

 1番大きな改変は、アニオリキャラ沙織ちゃん。『ドラゴンボールZ』のマロンちゃんと同じ、イツキの幻の彼女。デート中、またしても慎吾の煽り運転でハチゴーはクラッシュ。イツキを病院送りにされ、今度はアニメ版拓海もキレる。女の子に一生モノのトラウマ植え付ける慎吾のヒールぶり。よくここから主人公陣営入れたな。(笑)

 池谷組の他、慎吾の取り巻きしかいなかった原作と違い、アニメでは高橋兄弟も中里もいる大勢のギャラリーの前でのガムテープデスマッチ。誰か止めろよ(笑)。この衆人環視で相手のクラッシュ誘う煽り運転は、流石デンジャラス慎吾。啓介も中里もスルーした“藤原とうふ店”に初めてツッコミを入れた男、伊達じゃねえ。(笑)

 バトル経過は原作通りだが、ここでEDが変わるため、慎吾の自滅に合わせ前期ED「Rage your dream」が劇中歌で流れエモい感じに。過失運転致死上等のカスのくせに扱い良い(笑)。原作はイツキも池谷の車に同乗し事故った慎吾を助けるが、アニメは入院中なので不在。流石に病院送りにされた相手じゃ手を差し伸べる気にはなれないよな。

 慎吾の汚いやり口で怒り心頭に発し、自分の分身に思い始めていたハチロクをズタズタに傷付けてしまった拓海。フェンダー諸共に凹んだ胸中、車は替えの利く道具ではなく、アイデンティティの一部なのだと痛感した拓海は、また一つ走り屋らしくなっていく。f:id:boss01074:20260727104033j:image

 

BATTLE4: vs高橋涼介 FC-3S

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 啓介が負けて以来リベンジの機会を虎視眈々と狙っていた涼介から、満を持して拓海に挑戦状。涼介戦、アニメでは拓海自身の、母なる秋名の外へ出ていく決心にフォーカスされていて、バトル後の涼介とのやり取りや、アニメ1期の最終回であることも踏まえて、一人前の走り屋となった拓海がまだ見ぬストリートの世界へ走り出すというフェードアウトまでが、綺麗に繋がる構成。

 土屋圭市も(笑)注目する大一番、アニメオリジナルの描写として、なつきが拓海のバトルを観戦しに来る。拓海とは住む世界が違ったというのがなつきの位置付けなので、ママチャリ必死に漕いで秋名山登ってきたら話変わってくるんだが、失恋を描かない最終回演出としてはこれもアリか。おまけに池谷先輩と真子まで復縁匂わせ。怒りの2回転半は何やったんや。(笑)

 レースの迫力も、アニメの見せ方が上手い。2期以降はCGの車をよく見せたいのか、個人的には1期のカメラワークの方がバトルの見応えを感じる。抜かれる5連ヘアピンまで、キンコンをバックに拓海の感じるプレッシャーを原作以上に強調し、追い込みに入ったら、清次戦で使う“溝走り”パート2を先出しして逆転のきっかけとする。涼介の今までにない強敵感が存分に演出されてる。

 文太の技を使ったのが、勝因にも繋がってくる。相手の土俵ドリフトで勝つことに拘った涼介のFCは、終盤タイヤが熱ダレを起こし失速する。いかに天才涼介と言えど、急造のセッティングでは拓海の限界ドリフト走行に付き合いきれず、秋名峠を攻める用に文太が長年熟成させてきたハチロクの足には及ばなかった。言い訳しない涼介、ランバ・ラルより大人。(笑)

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 キングの敗北に静まり返る原作とは対照的、拓海の大金星に秋名勢含めたギャラリーが大沸きに沸くハッピーエンディング。このバトル、拓海自身の未熟さも露呈したが、それ以上に成長を遂げた面もあって、たとえ相手が自分より格上であろうと、闘争心全開に、己を証明するため立ち向かっていく。気持ちの面で、ようやく拓海は一人前の走り屋になったのだ。

 どこにでもいる平凡な高校生に過ぎなかった拓海が、ハチロクという相棒を駆って、大人の世界に自分の価値を示していく。これはまさにアムロとガンダムの関係で、降したライバル達の走り屋の矜持を認め始めた拓海は、秋名のハチロクとして彼らに恥じない走り屋になるため、今度は誰の助けも借りない秋名の外、本物のストリートの戦いへとその身を投じていくのだった。

 

1st LAP: 新たなる伝説

 原作では挑戦を受ける前、拓海の方から対戦相手である涼介のことを意識していて、“僕は、あの人に勝ちたい”ということだろう。それ程の男、高橋涼介の描写から、原作はバトルに入っていく。原作の涼介戦は、拓海よりむしろ白い彗星、高橋涼介のカリスマ性に重きが置かれ、アニメ版とは若干ニュアンスが異なるので、その違いについても触れておきたい。

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 原作のみに登場するのが、涼介の従妹、緒美。この後もう1回くらいしか出番はなく、いなくても成立するキャラだが、昼間の涼介を映す緒美はシャアに兄の顔をさせるセイラ同様、涼介というキャラクターをただの対戦相手から一段高い位置へと据える。“パイロットだけをやっているわけにはいかん”涼介とのバトルは、まだ走り屋の自覚がない拓海にとって、大きな意味合いを持ってくる。

 その意図を探るに、少しシーンを遡る。再調整したハチロクの試運転。秋名の夜景を眼下に、文太の真意を問う祐一。その答え、現役時と同じ、峠の向こうにある景色をただ純粋に追い求める一人の走り屋の文太に祐一は安心するのだが、おそらく涼介の答えも同じ。すなわち、他人の人生を背負い、結果が至上命題のプロとは違う、夜の峠だけが見せる世界に惹かれているのだ。

 何があるでもない、己の意地とプライドのみを賭けた、それ故、時に命懸けにも等しい純度となる、男としての存在証明。であればこそ、その場で価値を示す男達の走りは、何者でもない多くの人々を魅了する。公道キングと称され、プロも一目置く涼介は、ただ速いだけではない、走り屋の憧れそのもの。時代の主役として唯一無二の輝きを放つ特別な存在、それが赤城の白い彗星だ。

 その涼介から指名されたのが拓海。対戦相手すら虜にする技量で強敵を降す走りは、持たざる者達、わかりやすくは親友イツキにとっての希望となる。発揮され始めた拓海のカリスマ性。そして涼介と対等に渡り合うということは、彼と同じ次元へ引き上げられていくということだ。以降、秋名のハチロクは、赤城の白い彗星に代わり新たな伝説の立役者となっていく。

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 所詮これは、名もなきストリートの片隅、表舞台から隠れた、数寄者達のごく限られた世界の話でしかない。それでもここには、夜を駆ける者達を魅了するだけの昂奮があり、新しい時代の到来を予感させる確かな熱気を孕んでいる。その発生源たる特別な存在感を持った一握り、彼らの競演により、一夜が伝説となる瞬間の熱狂を記した作品、それが『頭文字D』なのだ。

 

 

『シラート』感想 砂漠に垂れる蜘蛛の糸

 

 若きスペイン人監督の手掛けた小規模映画ながら、カンヌ4冠の鳴り物入りでシネコンにもかかってた『シラート』見に行ってきた。

 極限まで装飾を剥ぎ取った素朴な映像表現、タイトルに示される宗教性、日本人には馴染みの薄いレイヴカルチャーと敷居の高さを思わせる作りなので構えて見たが、むしろシンプルでわかりやすい、コンセプチュアルな映画だった。『ノマドランド』とか、こういう映画は好み。

 前提知識なんかほとんど必要ない。扱われてるのは生と死、自己の喪失、世界の広大さと現前性という、大体の人が若い頃に一度は考えたことある普遍的なテーマで、俺的には『イージー・ライダー』もこんな感じで見たな。

 この映画が難解、よくわからないという評価を受けるのはもったいないので、監督が明確にメッセージを発してる部分を拾い上げてみたい。

 一応ネタバレ厳禁ということなので、ここから先は映画を見ている前提で。

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岩壁のシラート

 出だしから、冒頭エピグラフでタイトルの意味を説明してくれる。イスラムの蜘蛛の糸は、剣で舗装されているのか。どうやら過酷な試練が待ち受けてるようだなと、こちらを準備させておいて映画の始まり。

 荒野に積まれた音響機材から響き出すビート。その鼓動を打ち返すような存在感で、長々映し出される岩壁。人の群れが思い思いに身をくねらせるレイヴの幕開け。

 誰でもない人々の中から、クレジットと共に浮かび上がる主要人物達。その最後で、明らかにこの場から浮いている父子。彼らは、レイヴに参加するためこの場に来たのではないらしい。

 父子の目的は、失踪した娘の捜索。周縁を探っていた父子だが、夜になって父親は息子を残し、レイヴの中に分け入っていく。同時に、プロジェクションによって岩壁に映し出される階梯。異質な文化への混入。これが物語を駆動する。

 この映画は、こうした端的な画作りで全編構成されているので、本当にわかりやすい。冒頭部で作品の主要なテーマは既に説明されきってる。

 

混沌と秩序

 翌日、今度は親子共々レイヴを見て回る。ところで人混みにはぐれかける息子と、慌てて呼び寄せる父親。失いかける家族の絆と、それを必死に繋ぎ止めようとすることによって、父親であろうとする。それがこの男のキャラクター性。

 異国の地、右も左もわからない全く異文化の心細さの中、母国語のわかるヨーロッパ人との出逢い。共に犬を連れていて、それが安心感の象徴。父子にとって彼らだけが、この荒野で唯一の拠り所となる。

 会場に軍隊が到着し、レイヴは強制終了。

 ここでわかるのが、混沌の極みのように見えたレイヴは、みなが同じビートに乗っているという点で実は全くの無秩序ではなく、むしろ一つの調和を保っていた。ビートが支配する空間だから、安心して身を委ねていられたのだ。

 軍隊という圧倒的現実が現れ、音を止めてしまえば、そこは本物のカオスになる。

 混沌に見えた調和。そこに厳然たる秩序をぶつけられて、嵐に晒される寄る辺なき人々。これは本作の中で繰り返し用いられる構造で、まだ旅が始まる前からデモンストレーションが始まっているのだ。

 

異なる価値観

 解散したレイヴの退去を迫られる参加者の列から、脱走を図る一部の人々。あのヨーロッパ人達がその先頭を走るのを認めた父子は、彼らについていこうと決心する。

 彼らの改造車と違い、父子が乗るのは一般家庭向けのワゴン車。この車じゃ砂漠を渡れないと諭されても、父子は返す「でも行かなきゃ」と。

 直前、レイヴの場面では、十字架を思わせる柵に向かって身を捩らせる人々が映されていた。それはまるで磔られているようで、娘がいるかもしれない砂漠に執着してしまって、自分の意思ではそこからもう逃れられない、父子が陥っている状況の暗示だった。

 宗教的モチーフはもう1つあって、立ち寄った小屋でメッカの礼拝の映像が流れている。意味深なシーンだが、それを見る彼女の気まずそうな表情は、おそらく元ムスリム。元いたコミュニティの規範や関係性が息苦しくなり、逃げ出してきた、そんな所。囚われの父子とは逆に、自由を求めた逃走の先に砂漠へ辿り着いたのが、このレイヴァーの一団。

 こうした表象を扱っているからと言って、本作がカトリック、あるいはイスラームの教義を説教する映画と見るのは勘違いもいい所。その証拠が、大きな試練を課される登場人物達、彼らの誰も、神の名を呼んで縋ったりしない。おそらく意図的に、拠り所を持たない俗人を描いている。

 重要なのは、父子とレイヴァー、異なる秩序を生きてきた価値観が、境界を越え混じり合うということ。十字架とメッカは、その2つの秩序の象徴。

 

荒野の巡礼車

 軍隊に警護される避難列を抜け出したら、車を走らせる燃料すら調達が困難になる。燃料の買付で父子に借りを作った一団は、この場違いな父子の同行を許可せざるを得ない。

 再び鳴り出したビートをバックに、舗装道路を離れ、荒野に進入していく改造車とワゴンの不釣り合いな隊列。ちぐはぐな車両が1列になって疾駆する様は、同じ鼓動に身を委ねて踊り狂うレイヴァーにも似る。

 先行きの見えない混沌の中、この先に自らの求めるものがあるという、信仰だけを旗印に砂漠を突き進む3台の車。このロードムービーが描く旅そのものなロングショットの情景と共に、満を持したここでタイトルクレジット。

 父子と共にレイヴァーの彼らも混沌へ投げ出された、この瞬間こそが本当の映画の始まりであり、逆にこのアバンタイトルまでで、これから起こることは全て描かれている。こんな親切な映画はない。

 大事なのは、混沌と秩序。その融和により生まれる調和。かつての自分を構成するものが全て破壊され、この世界に投げ出された1個の現象としての自分を見出す時、初めて彼は砂漠に生きる者になる。

 茫漠たる世界の、荒涼たる現実に向き合った時、己が生を祝福に至る旅路として、非業な運命を甘受する境地。それこそが、この映画のテーマなんじゃないだろうか。

 

車…自己の拡張

 ネタバレ厳禁らしいので、タイトルクレジット以降は簡単に済ますけど、まず、宗教的世界観を持たない彼らにとって、自分達の根底を支える秩序の象徴、それが車。

 自前のワゴンじゃ走行不能な川を、彼らの車との紐帯で渡れたのを機に、ルイスの中で一団への信頼感が生まれ始める。

 その晩には彼らの車を訪れ、エステバンに至っては入り浸るようになり、互いの距離は縮まっていく。

 飲食物の分配にも応じ、運命共同体意識が高まってきたタイミングで起きるのが、ワゴン及びエステバンの喪失。

 ルイスはエステバンを車に乗せた。息子を守ってやれると思ったからだ。だが実際は、エステバンごと車はオシャカ。

 彼はここで、子を守る父親としてのアイデンティティ、砂漠にやって来てまで取り戻そうとした自己の根底を失ったのだ。

 茫然自失の彼は、キャンピングカーの方へ移る。ルイスという異物を抱え込んだことで、レイヴァーグループの方も変容を迫られる。

 目の前で起きた悲劇に、沈んだ車内を彼らなりのやり方で取り戻そうと、計画にはなかった寄り道。それが彼ら自身にも死の影を呼び込むこととなり、やがて彼らも車を喪う。

 砂漠だって渡れる彼らの家を失い、覚束ない足許で、想像を絶する苦痛と恐怖に我が身を投げ出した先、辿り着く場所は宿命的に1つとなる。

 同じように何もかもを失った人々と同乗し、先にどんな過酷な運命が待ち構えていようと、そこへ送られていく我が身をどうすることも出来ない、自由とは正反対の決められた道。

 ただそこは、世界の広大さの前ではあまりに矮小な自分と向き合い、それでも歩を進めることを選んだ結果であることには違いない。辿り着いたという事実は、逃れようもなく確かに存在する。

 

死…酩酊を絶つ現実

 この映画における「死」は、無粋な程のジャンプスケアで演出される。好き嫌い分かれる演出で、私自身も得意な方ではないが、本作のジャンプスケアにはきちんと意味があるので、それは説明しておきたい。

 仮初めの調和を破壊する秩序が、この作品のモチーフであることは前述した。ここで言う調和は一体感、秩序は現実のこと。本作の死のシーンは全て、一体感を否定する強烈な“現実感”として現れる。

 エステバンの死は、砂漠の素人であるルイスが、レイヴァー達の助けとなり脱輪を脱した瞬間。それまで距離を置いていた彼らとの一体感の中で起こった。

 ジェイドの死は、ルイスの心の傷を癒そうと彼女が企画した即席レイヴ。音楽との一体感の中。ジェイドの後を追ったトナンは、彼女との繋がりを失わまいと。

 ビギは、試練を乗り越えたルイスと同じになれるという希望に縋り付いて、彼自身の希望を賭けていたキャンピングカーと同じ末路を辿った。

 仮初めの調和とは、彼らが抱えていた緊張感、不安感、悲壮感、それらから気を紛らわせてくれた一種の酩酊で、死という情け容赦ない現実によって、彼らはそこから引き戻される。

 そしてこれは、映画を見ている我々にも同様。生理的な反応によって否応にも現実を意識させる、物語に没入する快楽から強制的に我々を引き剥がすもの、それがジャンプスケアだ。

 つまり、今感じる心地良さが生きてる限りいずれ失われるという、絶対的な真理を突きつけるものがこの映画における死であり、本作のジャンプスケアは、映画を見る我々にも同じショックを味わわせる効果がある。

 

眠り…疑似的な死と新生

 この映画に否定的な印象を抱く人々には、劇中における死の扱い、なかんずく、罪を犯した者への罰のような考え方をするなら、本作の悪趣味さを耐え難いと感じるかもしれない。

 だが、それは誤りだ。なんとなれば、劇中で最初に死を迎えるエステバン。彼は最も無垢に近い存在であって、そんな彼が罪深き身の故に死を賜ったとは、到底思えない。

 エステバンの死のシーンをよく見てみると、その直前、眠りからの覚醒で始まっているのがわかる。この眠りというのが重要で、現実から遊離し、いかなる拠り所もない、無秩序な夢の世界へ身を投げ出した状態。死の疑似体験とも呼べるものではないだろうか。少なくともこの映画では、そういう意図で置かれてるように思う。

 死≒眠りと見た時に、眠りからの覚醒は、自己を構成する全てを失って、ただあるがままに現前の世界へと向き合う、新たな自己への生まれ直しを意味する。

 新たな自己の前に、そこに至らなかった死をもう1度見てみたい。トナンは、ジェイドの死を抱えることに拒み、自ら死を選んだ。ビギは死を怖れるあまり、逆に不安に押し潰されてしまった。彼らの死は、生きることの重みに耐えられなかった結果であり、ある意味では死によって解放されたとも言える。

 そこでこの物語の中心人物、ルイスの場合はどうか。エステバンを喪った彼は悲しみに暮れ、茫然自失となり砂漠へ彷徨い出る。この時彼は、死んでも構わない、むしろ息子の元へ連れて行ってくれと思っていたはずだ。やがて彼は砂嵐の中で力尽きる。が、ジェイド達に助けられ、差し出された水を一口、もう一口と飲む。息子を喪った世界で、彼は生きることを選んだ。

 次の覚醒は、キャンピングカーの中。この後、問題の追悼レイヴになるが、これ以降ルイスは明らかに雰囲気が変わる。レイヴァー達の流儀を受け容れたように、絶望的な状況を虚心坦懐に受け止め、ただ淡々と前に進み続ける。

 この砂漠での放浪が、ルイスにとって疑似的な死の体験になったのではないだろうか。そこで新生を遂げた彼は、もはや逃げることも抗うこともせず、目の前の運命をただ甘受する。

 その象徴が、ルイスが見た夢と思しきインサートで、この謎の映像は映画のラストシーンに繋がる。いかに過酷な試練でも、目の前にある以上いつかは越えねばならないし、それが既に終わったことであればどうすることも出来ない。この予知夢のシーンは、そんな諦観にも似た境地に至ったルイスを表すのではないだろうか。

 

運命との融和

 覚醒したルイスは地雷原を平然と歩いていき、あたかも預言者のように迷える子羊2人を導いていく。しかし、これは何か、彼が神に選ばれた特別な存在になったとか、地雷を回避する奇跡的な力を手にしたとか、そういうことではない。

 ルイスは、決して地雷を踏まない確信があって進んだわけではないのだ。その証拠に、轍がある時は彼はその上を進んでいる。信仰に溺れることなく、目に見える道理には素直に従っている。

 その上で、生死を分かつ決断に迫られた時、地雷を踏んで死ぬ、踏まずに生き延びる、そのいずれも彼にとってはただの結果でしかないのだ。死を望んでいるわけでもない、かと言って死に臆して足を止めることもない。己の小ささを知り、降りかかる運命をただ粛々と受け入れる。それこそが、真に荒野を生きる者の心構えであり、彼がこの映画で至った境地だろう。

 無秩序な世界と完全に調和した存在者となったルイスがいる一方で、本論の前半で調和に関し、異なる秩序間の混交と融和であると述べたことを思い出して欲しい。すなわち、これから言おうとしているのは、ルイスに導かれて地雷原を渡った、ステフとジョシュ、彼らの体現する調和だ。

 この映画が真に描こうとしているのは、こちらではないかと思われる。というのは本作のクライマックスであるこのシーン、それまでのビートの効いたダンスミュージックではなく、アンビエントな劇伴が使われている。これは覚醒したルイスを表しているとも取れるが、どちらかと言えば理外の彼を目撃した2人の呆気を表してるように思う。

 抑圧的な社会から逃げてきた彼らは、死地に踏み込んで生を掴み取ったルイスを理解することが出来ない。それでもいつまで砂漠に立ち竦んではいられず、恐る恐る、ルイスがいる方へ足を伸ばす他ない。

 信じられない世界、いつ牙を剥くか知れない現実、それでもその混沌へとじわりじわり身を浸していく姿。ここで彼らは、不確かな己の全存在と無秩序な世界との調和を見せたと言えないだろうか。

 映画のラスト。何も説明はないが、おそらくルイスはもう一度砂漠へ帰ってくる。エステバンを埋葬するため。劇中でも口にするように、今の彼の最大の生きる目的は息子の埋葬だ。それが終われば、また娘の捜索を、彼女の生死に拘らず再開するだろうと、私は思う。

 一方、ステフとジョシュの2人。砂漠で全てを喪い、レイヴに深いトラウマを刻んだ彼らは、二度と砂漠へ来ることはないかもしれない。だが彼らは、快い混沌から目覚め、無秩序な世界の中で生きることを受け入れた。これから元いた社会秩序に戻ったとしても、それは決して砂漠から逃げ出したということではないはずだ。

 荒野を自らの居場所と定めた者と、目的のために荒野を渡る者。映画の冒頭とは立場が逆になった両者。互いの価値観が、この旅を経て統合されることはなかった。だが砂漠を抜けるため、この何処へ行くと知れぬ輸送列車に乗り合わせている間は、他の避難民達と同様、無秩序で無慈悲な娑婆の世界を生きる道連れなのだ。決して希望に満ちているわけでも、経験した艱難辛苦が報われるわけでもないこの映画のラストシーン。しかしそれは、現実の荒涼さと待ち受ける非業な運命に曝されながらも進み続ける人間の姿であり、茫漠たる世界の中の不確かな我が絶望しないで生きる術である。

 

 

俺の編成したウイイレ2008のG8を紹介するぜ!

 

 前回の記事(https://boss01074.hatenablog.com/entry/2026/03/25/213257)で、俺がウイイレ2008をプレイし続けてることを書いたけど、それは試合じゃなくエディットをやり続けてるって話で、本当は編成画面を見て欲しかった。

 ということで、今回は俺が極めた最高のチーム達を紹介したい。

 顔触れは、日本、ポルトガル、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、フランス、イングランド、スペインの8ヶ国。

 クラブチームじゃなくナショナルチームなのは、その方がメンバー選出の自由度が高いから。招集する23人も含めて俺が厳選してる。

 ただデフォルトの設定だと、大抵が4-4-2からのサイド突破でクロス放り込む。俺がやる試合時間5分、難易度スーパースターの場合、強さだけで言ったら2008最強の国はナイジェリア。ナショナルチーム全制覇した俺が保証する。

 でもそれじゃ面白くない。

 各国の個性が発揮されるようなシステムを考え、それが試合で実現出来た時の、えも言われぬ興奮。それがあるから、20年も飽きずにやり続けられてる。

 そのために俺が手を加えたのが、メンバー選出、フォーメーション、チーム戦術、選手のポジション適性。ステータスは流石に弄ってないので、代表でのコンバートは許容範囲にしてもらいたい。

 それじゃあ早速、俺がどういう風にこれらのチームをエディットしたか紹介していきたい。まずは、日本代表から。

 

日本f:id:boss01074:20260428024115j:image

 日本代表と言えば4-2-3-1だけど、2008るあるで4バックだと真ん中を抜かれる。よって、守備を重視したいチームならリベロの位置にDFを置く必要があり、CBの1枚はボランチの間でボールを回収するフォアリベロ。

 問題は攻撃。ナイジェリア最強の時点で分かる通り、2008はフィジカルゲーで、ことボックス内はボディバランスが低いと話にならないんだが、日本代表のFW陣は残念ながらワールドクラスのDFと競り合ってまともにプレー出来るフィジカルを持ってない。

 なので思い切ってボックス内のポジションは捨て、FWはサイドに開かせ幅を取る。奪ったボールをスペースのある位置で収めさせ、SHとの連携で敵陣に侵入。イメージとしては、2010W杯の岡田JAPANで本田圭佑を中盤まで降りて来させた感じ。

 SH、CHで中盤のスペースが潰せるので、SBは裏抜けへの対応が楽になり、カウンター時に無理して上がる必要もない。

 連携で攻める意図なので、2トップはWGではなくシャドー。その方が陣形もコンパクトになる。FWの適性もCF→シャドーにしたが、みなパワーより素早さで勝負するタイプなので、そこまで無茶なコンバートではなかったと思う。

 メンバーも多少変えたが、日本はそもそも選手の収録人数が少ないので、あまりデフォルトと変わってないはず。試合時間が短いと個の能力差がそこまで出ないらしくて、世界の強豪達に勝つこともしばしばある自慢の日本代表。

 

ポルトガル

 前回の記事で軽く触れたが、WGに強みを持つポルトガルは現代型4-3-3のイメージ。CHのクオリティも高いので、速攻、遅行どちらでも行ける。

 最終ラインは日本の形と近いが、自陣のスペースを埋め密集地に誘い込む日本の守備と違い、WGを採用する都合上、陣形が間延びするのを防ぐハイラインで、中盤を一気に囲い込むゲーゲンプレス。これも現代的なスタイルを指向。

 まあ見ようによっちゃ、4-1-4-1のポルトガルらしいスタイルの発展形と言えなくもない。伝統と革新の融合。

 それを表すのがこの代表メンバー。ルイ・コスタ、フィーゴという往年のレジェンド10番に、クリスティアーノ・ロナウド、リカルド・クアレスマという新世代の7番。その間を繋ぐデコ、リカルド・カルバーリョ。2008だから実現可能な組み合わせ。

 フィーゴはWG登録なんだが、足の遅いWGに存在価値はないので中のハーフポジションへコンバート。ロナウドは未来を先取りしてCF適性もありに。デコはユーティリティプレイヤーにしてレジェンドを支えるアンカーをしてもらった。

 収録人数自体は日本より多いが、選手のユーティリティが低いので、選考は難航(逆に言うと日本はポリバレントな選手が多い)。それでも適性変更を駆使して、なんとか理想のチームを組み上げることが出来た。

 

ブラジルf:id:boss01074:20260719005115j:image

 こちらも前回触れたブラジル。ペレ時代の黄金期4-2-4のイメージで、個人技に長け、スピードも兼ね備えるサイドアタッカーからドリブルを仕掛けていくのが、ブラジルの攻め。

 そのサイドだけど、2008にはウイングストライカーという概念がなく、ロナウジーニョやアドリアーノなんかに中に入っていくプレーを期待したいなら、ここはWGではなくシャドー。

 4トップのポイントは、幅と深さをシャドーに取らせ、CFをその中で浮かせる構成。中盤が薄く、陣形が間延びしやすい4-2-4の弱点をケアするにも、WGよりシャドーの方が都合がいい。

 DFラインがRWBで疑似4バックになってる。4バック全盛の2008ではSBの選手にWB適性がないことが多いんだけど、そのくせタイプ的には攻撃的SBで守備苦手なのよ。だったらWBやろがい。

 守備苦手な選手のSB適性を外していったら、カフーやダニエウ・アウベスがWBになって、RSB出来る選手がいなくなってしまった。まあこのアシンメトリーな形は南米式らしいので、良しとする。

 元祖ロナウドも控える豪華なFW陣に目が行くけど、本当にエグいのは前線にパスを供給するジュニーニョ。後衛をサポートする連携の高さ、それ以上に最高値99を誇るFK精度でパスもシュートも狙える万能キッカー。ジュニーニョがいるといないとじゃ、セットプレーの得点率が全然違う。

 

アルゼンチンf:id:boss01074:20260502055205j:image

 アルゼンチンは、クレスポ、ベロン、サネッティらの生き残りがいるので、ビエルサ式の3-3-3-1を採用。ただここも、サイドをアシンメトリーにして、個の活きやすい形に変化を加えてある。

 ブラジルとの対比で守備重視。陣形もだけど、アジャラ、サムエル、ガブリエル・ミリートという、対人守備に絶対の自信があるDFを活かさない手はなく、最終ラインは彼らを3枚を揃えた3バック。

 パワーのベロン、運動量のサネッティ、カンビアッソのカバーリングという中盤の構成。特に、中央で絶大な安定感を発揮する、トップ下ベロンの守備能力が圧巻で、ビエルサが彼を重宝した理由がわかる。

 とは言え、ビエルサ体制では招集外だったリケルメもメンバー入りしてるのは、FK精度の高さゆえ。ジュニーニョ同様、やっぱキッカーいるなしは勝敗に大きく関わってくる。

 クレスポ、クルスのCFがポストプレイヤータイプな分、攻撃を牽引するのはメッシー、サビオラのドリブル突破力。低身長で体格も似たアジリティ99、97コンビがすっかりアルゼンチンのカラーを形作ってる。

 でも、得点に絡むシーンが1番多いのはアイマールなんよね。ストライカーでもないアイマールが、来たチャンスを確実に決める要注意選手。逆にディエゴ・ミリートは、難しいシュートを決めるスペック持ってるくせに、簡単なシュートに限って外しがち。こればっかりは謎。

 

イタリアf:id:boss01074:20260502055242j:image

 8ヶ国中、攻守のタレントを最も多く揃えているのがイタリア代表。チーム戦力のレーダーがエグいことなってる。世界最高峰のリーグがセリエAだった時代、最後の輝き。

 守備は3バックにアンカーを加えた4人で中央をガッチリ守り、LSHとRWGで左右のスペースを埋める。3列目の司令塔に、前線を構成するトップ下、シャドー、CFの組み合わせは、グランデ・インテルを前掛かりにしたイメージ。

 まあ実際は“トップ下”を“低いトップ”にしているため、似た形のアルゼンチンより陣形は縦に伸びるが、堅守速攻のフィロソフィーを突き詰めた、よりイタリアらしいスタイルと言えよう。

 そしてそれは、1対1の強さを存分に活かす形。COM操作じゃマンマークにはなんないけど、マルディーニ、ネスタ、カンナバーロ、ガットゥーゾが構えるゴール前は、実質的なカテナチオ。

 司令塔のピルロ、トップ下のトッティ、ターゲットのトーニ、いずれのポジションも世界一のタレント。そこに加わるのが左シャドーのデル・ピエーロ。左右非対称なのはこのためで、2006W杯制したメンバーより攻撃力は上。

 でも実際やってみると、いつも点決めるのはジラルディーノなのよね。ジラルディーノが出てる時は勝率跳ね上がる。アイマールと同じで謎なんだけど、こういうスペックだけではわからない結果が見れるのは、これはこれで面白い。

 

フランスf:id:boss01074:20260502055317j:image

 特にこれと言ったイメージのないフランス代表。だが調べてみると、アンリ、ピレス、ヴィエラとインヴィンシブル・アーセナルの主力が揃ってる。なので、そのままシステムを採用した左サイドアタック。

 疑似4バックにし、マケレレ、ヴィエラ、ドラソーの中盤構成。個人的に、当たり負けしない選手じゃないとDHと認めたくない。なので、スピードタイプのマケレレはWB登録にし、サイドを守らせてある。

 その分、中盤の要となるのがヴィエラ。ボディバランスを活かして攻守両面に存在感を発揮するヴィエラが中盤を制しているおかげで、特にDFで、テュラムのボール回収が随分楽になる。

 2008のフランスともなれば、スプリント力で勝負するアフリカ系の選手がだいぶ揃っていて、その筆頭がアンリ。中央よりWGで出たがるアンリを活かすため、左サイドアタックでラインブレイクをする陣形。

 とは言え、シャンパンサッカーへの憧れも捨て難く、ピレス、ジュリー、マルブランクらがFWで入れば、パス交換の形も見せられる。シャンパンサッカーならCFは不要だが、中央で圧倒的な存在感を放つトレゼゲのポジションは残した。

 一方、スペック的には得点を量産してなきゃいけないアンリは、ラストパスの精度やシュートの決定力がなんか異常に低いんよな。これバグだろ絶対。ただキッカーが少ないフランスなので、貴重な戦力であることには変わりない。

 

イングランド

 イングランドと言えば、伝統の4-4-2。ルーニー、スコールズ、ファーディナンドというマンチェスターユナイテッド黄金期を築いた3人の他、全ポジションスター選手揃いの夢とロマンの詰まったイングランド。しかし、実績からもわかる通り、ウイイレでも勝てないのよね。なので、だいぶ前掛かり。どのポジションも個のクオリティは抜群だし。

 まずはDFライン。ファーディナンド、テリーと、キャンベルを控えに回せるCBコンビの質はイタリアにも負けてない。その両脇だが、運動量の多いこのポジションをCHにした。イングランドはタフなCHが揃っていて選手層が厚い上、SBやWBでは上がり過ぎてしまうのだ。

 サイド後方をCHにしたことで、ここでベッカムを起用出来る。CPUにはアーリークロスの概念がないので、このポジションで使うのが1番ベッカムっぽい。レアルのクロースのイメージ。イングランドはキッカーの層の厚さも世界一だけど、1番のキッカーはやっぱベッカム。

 後ろとの兼ね合いで、両サイドはWG。左利きのアタッカーがいないので、左サイドはアジリティの高いジョー・コール。スペック的にC.ロナウドと同等以上のJ.コールを使わない手はない。右はクロスが上げられ、比較的スピードもあるスコールズ。

 守備能力が低くDHが出来ないランパードは、OFセンスが高いのでFW適性を付けた。ランパードとルーニーでDFに当たり負けしないボールを収められる2トップ。俺はこの形が理想なんだけど、COM決定のスタメンだとアンディ・コールとオーウェンなのよね。まあ普通はそうか。

 ランパードにFW適性与えたのは、実はアジリティ無さ過ぎでボールロストめちゃめちゃ多いから、リスク管理もあるのよね。幅も深さも取る積極的な陣形で、中央に厚い後方は全員ミドルも打てる、イングランド本来の圧倒的なポテンシャルが発揮出来たと思う。

 

スペインf:id:boss01074:20260719005304j:image

 ポゼッションサッカーでEUROを席巻した、無敵艦隊こと2008スペイン代表。デフォルトメンバーでもポテンシャルは十分なんだけど、そこはウイイレなので共存し得ない選手達を組み込んでドリームチームを結成。3大リーグの一角に相応しく、イングランド、イタリアとタメを張れるタレント軍団を揃えた。

 システムは4-3-3と見せかけて、現代のポジショナルプレーを再現する2-3-5のゼロトップでプレセットし、よりスペインらしさを強調した。実際ボックス内で勝負出来るストライカーはフェルナンド・トーレスくらいなので、F.トーレスが先発出来ない時も考えたら、シャドーとWGで幅と深さを取った方が、ポゼッション的にも安定する。

 現実でも見る、2CB残しの守備隊形。4バックだと、スタメン自動決定で守備の要プジョルがSBに配されてしまう問題があって、その解決策で2バックが決定した。CHの幅感を調整して、3列目を5枚で守る形が取れたと思う。個人的にプジョルの相棒はカバーリングタイプが良いんだけど、COMスタメンだとDFセンス低くてもセルヒオ・ラモスの起用が多め。やはり時代はモバイルCBか。

 中盤はシャビ、イニエスタのイメージが強かったからアジリティ頼みになるかと思ったら、意外にもシャビ・アロンソ、セルヒオ、ルーベン・バラハとDHタイプが3人も揃ってる。スペインは基本寄せられたら終わるクソ雑魚デュエル。特にシャビ、ラウールのボールロストは見飽きた程だけど、この3人は空中戦も強い上、中央でボールを保持出来るスペインの生命線。

 ポゼッションサッカーに敵陣を押し下げるWGの突破力は必須なわけだが、スペインには世界最高峰の左右WGビセンテ、ホアキンがいるんだから、2人を招集しない選択肢はないやろう。まあ仮スタメンは連係重視にしてあるけど、控えでもこのカードが切れるの強過ぎ。ボディバランスの低いスペインは、いかに大外レーンから攻略していくかが鍵。

 2シャドー、得点力だけで言ったらビジャ、トーレス。でもレアルのレジェンド、グティ、ラウールコンビの方がポジショナルプレーとの相性は抜群で、そこにポリバレントなルイス・ガルシア、ムニティスと、組み合わせ自由自在な層の厚さ。変幻自在な魅せるスタイルと、タレントが躍動する攻撃的なサッカーの両立。これこそ、俺がこのゲームでやりたかったこと。

 

まとめ

 というわけで、俺の編成した最強G8の紹介でした。

 どのチームも愛着があって、彼等が戦い、期待したプレーが見事にハマった時、あるいはこちらの想像を超えるプレーを見せた時はこの上ない興奮で、俺はこれを永遠に見てられる。

 まあゲームの楽しみ方は1つじゃない。色んな楽しみ方があるということで、みなさんも自分なりの楽しみ方を見つけてみてはどうでしょうか。

 

『トライガン』雑感

 『トライガン』『トライガン・マキシマム』読了。

 一言でまとめるなら、90年代SF世界を生きるガンマンの物語。

 令和アニメとの1番の違いは、ヴァッシュが初めからテスラの生体解剖を知ってて、それがキャラクターの核になってる点。

 ヴァッシュ自身には、親愛なる隣人というより審判者の意識があって、読んでて、実は種としての人類を信じてはないんじゃないかとさえ俺には見えた。

 ここが読んでよかった所で、ナイブズを止めたい、人類を守るっていうはっきりした目的があるなら、もっとやりようあるやろっていうのがずっとモヤモヤしてて、本気で勝ちたいと思ってないんじゃないかって見えてた。

 けど、ヴァッシュの戦う理由が、成果じゃなく、内的な部分にあるというので、しっくりきた所がある。

 ヴァッシュにとって、不殺のガンマンを貫くことそれ自体が戦い。

 本音は人類を鏖にしてやりたい。その憎悪に勝ち続けるという誓いの実践。それが彼の人生だった。

 そこに試練として用意されるGUNG-HO-GUNSは、不殺を掲げながら銃を取る代償、あるいはガンマンという生き方でその身に負った罪業。

 ガンマンというのはアウトローで、後ろ暗い過去を背負ってるというのが、特にマカロニ・ウェスタン以降の西部劇の建付け。ヴァッシュにとっては「ロスト・ジュライ」と「フィフス・ムーン」がそれ。

 ヴァッシュの戦いは、ナイブズに向けた銃口の覚悟を問われ続ける戦い。斬り落とされた左腕と、手錠に繋がれた右腕っていう画が象徴的。

 まあでも、『マキシマム』以降のGUNG-HO-GUNSは、どちらかと言うとウルフウッドの試練。

 ウルフウッド、主人公の相棒ポジションでもあるけど、ヴァッシュが人の上位に立つ不変のキャラクターなので、暴力の咎と向き合い、弱さを乗り越え変わっていく人間性の役目を負ったウルフウッドの方が、中盤の物語を引っ張る主人公やってる、実質W主人公。

 だからその死が重要なのは、150年の間にヴァッシュの横を通り抜けて逝った人々、ヴァッシュの150年分の痛みと悼みの象徴を、ウルフウッド1人で表してるってことなのよね。

 人と同じ時を生きられないヴァッシュは、本質的に人と繋がることは出来ない。

 命を繋ぎ止めるのは、寧ろメリルやリヴィオ人間達の役割。

 これが、ヴァッシュが人の中で生きる令和アニメとの決定的な違い。

 原作ヴァッシュには決してウルフウッドを救うことは出来ず、それでもその魂をリヴィオが受け継ぐことに意味がある。レガートを殺して折れたヴァッシュを、メリルが再起させる。

 他方、令和アニメのヴァッシュは純粋に人間が好きで、人として生きられた、本質的な孤独を乗り越えたキャラクター。ラストシーンも対照的で、これはこれで意味のある話。

 かつて人間に抱いた絶望を、否定したくて意地を張り通した先、徒労に終わり続けた150年越しの、憎悪に対する初勝利。それがこの作品のクライマックス。

 まあ正直、漫画が読みづらく、万人にオススメするかって言うと微妙。俺も理解出来てない所あるかもなんだけど、醜い地上に遣わされた歪な天使のキャラクター造形は、俺の神話の1ページになるくらいには印象に残った。

ウイイレで1番楽しいのはエディット

 

 冬季五輪もWBCも終わり、W杯が近づいてくるとサッカーゲームをやりたくなってくる。

 けど、普通にプレイするのは面白くない。だって勝てないから。

 サッカーゲームめちゃくちゃ好きなのに、めちゃくちゃ下手な俺がどうやってゲームを楽しんでるか。

 サッカーゲームにはeFootballとFIFAの2大タイトルがあるわけだが、記事タイトルからわかるように俺がプレイしてるのはウイイレ。eFootballじゃない。

 それもPSPのソフト『ワールドサッカーウイニングイレブン ユビキタスエヴォリューション2008』。

 

ワールドサッカーウイニングイレブン ユビキタスエヴォリューション 2008 - PSP

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 なぜこんな20年近く前のナンバリングをやってるのかと言うと、ちょうど学生時代に出てて友人とやりまくった思い出深いタイトルなのよね。

 しかもその友人が強くて、俺はいつもボコボコにされる。で勝てない俺がどうしたかと言うと、少しても条件を良くしようとチーム編成をひたすら凝った。

 その内に試合をプレイするよりチームをエディットしてる方が楽しくなってきて、俺の編成したチーム同士をCOM操作で戦わせて観戦する。それが俺のウイイレのプレイスタイルになった。

 友人は最新作やれば良いじゃんて言うけど、愛着がないから全然その気になれないんよな。それに最新作が1番面白いとは限らないのもウイイレ。

 旧式AI同士の対戦を見て俺は最高に盛り上がるので、伝わるかはわからないがこれから“ぼくのつくったさいきょうのマッチ”の模様を少しお見せしたい。気が向いたらシリーズ化するかも。

 

 デモンストレーションに選んだのはポルトガルvsブラジル。理由は本作のプレイデモがこの組み合わせだったから。

 スタメンはブラジルが

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 陣形はわかりにくいがブラジル黄金期の4-2-4をイメージ。

 しかし見てよこのFW豪華メンツ。この頃はまだ華のあるタイプの選手が第一線にいるのが俺が2008を愛好する理由でもある。ロナウドやリバウドも俺が呼び戻した。

 対してポルトガルが

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 こちらは現代型4-3-3のつもり。フィーゴ、コスタをこちらも招集。デコがサイドバックやってるけど、スペック的には出来るはず。なので適性を付与してある。偽サイドバック。

 ポルトガルの布陣はポジショナルプレーで相手を押し込んで行く狙い。

 逆にFWにタレントの揃うブラジルはカウンターの破壊力が抜群。

 お互い中盤のチャンスメイカーはワールドクラスのクオリティなので、ここからのキラーパスは要注意。

 守備が薄い気がするのは、そっちの方が面白いので許して欲しい。

 スタメンは自動決定にしてあるので運次第だったが、新旧ロナウド対決実現したぞ。

 

 前半ポルトガルのキックオフでゲーム開始。

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 ボールを受け取ったレジスタ役のルイ・コスタ→フィーゴと右利きの中盤を経由して左サイドのクリスティアーノ・ロナウドへ展開するのがポルトガルの組み立て。

 が、そこをロナウジーニョが強襲。強烈なタックルでボールを奪うと、アウトサイドとは思えない程の鋭いボールで1トップのロナウドへ。ウイイレのロナウジーニョはプレスバックも全力。バロンドールの先輩からのキツい洗礼。

 前線でいち早く反応しボールを拾ったロナウド→カカ→ロナウド→リバウドのパス交換でポルトガルDFは翻弄され、最後はフリーになったカカの前方へスルーパス。

 惜しくもシュートコースは防がれたが、地力に勝るブラジルが早くも決定機を演出。('5)

 再開後のクロスは一旦クリアするも、ボールは収まらず中盤での潰し合い。形が乱れ絞ってきたダニエウ・アウベスがボールを拾うと、マークを引き付けた上でロナウジーニョの前方、広大なスペースへ向けてのロングパス。

 自陣から駆け抜けたロナウジーニョが一気にペナ角まで進入し、そのままシュート。('24)

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 GKが押さえて失点こそなかったものの、立ち上がりからペースを掴めないまま2度もフリーでのシュートを許したポルトガルDFは、軽い恐慌状態で最終ラインがミスを連発。ゴール前で混戦のバタバタした時間帯が続く。

 何本かシュートを打たれながらも、なんとか無失点で切り抜けたポルトガル。ウイングを使った攻めの形がようやく見られ始めたが、決定機を作るには至らず。前半はポルトガルシュート0本で終了。

 

 後半キックオフ。ブラジルは司令塔ジュニーニョからトップ下のカカへ付けるのが基本の組み立て。

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 今度はポルトガルが先にチャンスメイク。中盤まで落ちてきたヌーノ・ゴメスのポストプレーから始まった攻撃。

 サイドでボールを受け取ったリカルド・クアレスマは、縦の突破ではなく中でキープして味方が上がる時間を作り、中央の空いたスペース走り込んだルイ・コスタ。今度は前線で待っていたヌーノ・ゴメス→ルイ・コスタ→ヌーノ・ゴメス。

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 突破したかに見えたのは残念ながらオフサイド。だが、この試合初めてバイタルまで迫ったポルトガル。後半はいい勝負になりそう。

 と思ったらすぐに均衡は破れた。突破を仕掛けるマニシェにマクスウェルがファウル。マニシェがそのまま蹴ったフリーキックはMFとDFの間に落ちる絶妙なボールで、それを横から掻っ攫ったクリスティアーノ・ロナウドがDFの背後へ抜け出しシュート。ジュリオ・セーザルにブロックされるも、溢れ球に反応したヌーノ・ゴメスが押し込みゴール。

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 '60、前半あれだけ苦労したポルトガルまさかの先制。

 

 追いかける展開になったブラジル。だが個々のクオリティは侮れず、ジュニーニョからのロングパスは、1本でDFの背後を衝き、左サイドのリバウドへ。

 '71、今度は下がって受けたカカが、似たような位置から先程のリプレイのようなロングパスで、リバウドがクロスを上げる局面まで持ち込む。

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 '73、スタミナのないロナウド→スピードスターリエジソンに代わり、ここから攻撃のギアを上げたブラジルの猛攻。

 敵陣に押し込む中から、クリアボールをリカルド・クアレスマ、ルイ・コスタと競ったマクスウェルが奪ってそのまま持ち上がり、DFを引き付けた上でスルーパス。完全フリーのリバウドは強烈なシュート。('81)

 GKが弾いて続くコーナーキック。ジウベルト・シウバに向かうボールはコステーニャがカットするも、溢れたのはちょうどリバウドの前。振り抜いたシュートコースにまたしてもコスティーニャで、弾いたボールに超反応リエジソンのダイビングヘッドは角度がなく。

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 コスティーニャの幸運で切り抜けるが、得点の気配は濃厚。ただ残り時間は5分。ブラジルは正念場。ポルトガルは凌ぎ切れるか。

 リカルドのゴールキックは大きく蹴り出したが、この判断が命取りに。

 デコと競り合ったジュニーニョは体勢を崩したが、溢れ球を回収したダニエウ・アウベスからのリターンには即座に反応し、体を翻すと同時に前方フリーのロナウジーニョへ。

 直進のドリブルでポケットへ進入する図は、奇しくもこの試合ファーストシュートの再現。そのままノールックで放ったシュートは、GKとニアポストの僅かな隙間をすり抜け、ゴールネットに吸い込まれる。

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 '89、ホイッスル目前のタイミングでブラジルが同点。W杯最多優勝国の誇りを見せつけた。

 

 その後一応延長戦もやったけど、試合は動かなかったので割愛。

 結果は1-1のドロー。スタッツと採点表。

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 この試合振り返ると、中盤の競り合いにおける勝敗が主導権を左右していた印象で、特にパサーのジュニーニョが体を張った所から生まれたのが同点弾のアシスト。MOMも納得。

 出来ればパッケージ担ってるクリスティアーノ・ロナウドのポルトガルに勝ってもらいたかったけど、互いにゴールを挙げ見せ場を作った上での引き分けなので、良し。

 どっちが勝っても満足出来るのがCOMvsCOMのメリットだから。(笑)

 

 という風に、俺はサッカーゲームを自分なりのやり方で楽しんでる。

 面白いのは、ミスを連発するポルトガルDF動揺してるなとか、猛攻を仕掛け追いついたブラジルに王者の意地を感じたりとか、感情移入して見られることなんだよな。AIなのに。

 知人をボコして喧嘩になる以外の、ウイイレを観戦する楽しみ方を、俺は推奨していきたい。

 

 

薔薇と王子様の物語 『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』感想記事

 

 去年一年ブログの更新がなかったのは、この2025年ネット流行語大賞の感想をまとめようとして躓いたからなわけなんですが、そのまま年を越してしまった。

 色々と語られる問題作ではあるものの、自分がアニメを見るスタンスとしては文芸的にどう評するのかという視点が重要で、その方面からしっくりくる言説にしたかったけど、上手くいかず。

 放送終了以来モヤモヤを抱えながらネットの感想を漁ってる時に目にしたのが、マチュの帽子の象のマークは『星の王子さま』に出てくるウワバミの絵では?という指摘。

 なるほど!脚本榎戸洋司出世作少女革命ウテナ』は寺山修司の戯曲『星の王子さま』の翻案とされてるし、原典のフワフワした語り口は『GQuuuuuuX』の捉え所の無さと通ずるかも。

 と思って、ちゃんと読んだことなかったサン・テグジュペリ作『星の王子さま』も買って読んだ結果、マチュの成長譚としての『GQuuuuuuX』という物語がなんとなく掴めた。

 ような気がしたけど、 言語化しようとするとやっぱり上手くまとまらない。やはり自分にとって『GQuuuuuuX』というアニメは、落とし込むことが難しい作品だったらしい。

 だが、わからなかったなりに、自分なりにこのアニメから受け取った物語、その概略をここに書き綴っていこうと思う。それをもって、このアニメへのけじめとしたい。

 取るに足りぬ駄文となるやもしれぬが、『GQuuuuuuX』の文芸面ってどう解釈したらいいの?とモヤモヤしてる人がいれば、何かの参考になればいい。私からの手向けだ。

 

星の王子さま』の物語

 まず、『星の王子さま』について。この名作の文学としての味わいは到底一言で語り尽くせるものではないが、中心テーマを抜き出すとしたら、

 “この広い宇宙のどこかには、自分が失ってしまったピュアハートの持ち主がきっといる。その存在を信じられる限り、この世界には生きる価値がある。”

 といったところだろう。

 つまり、大人はみな他者を自分の物差しで測ろうとするが、子供の頃は誰だってありのままに世界を受け入れていたはずで。人がそう生まれついてるという信仰が、世界の善性の始まり。

 “ぼく”は、花への純粋な愛を貫いた王子さまに二度と会うことは出来ない。それでも“ぼく”は2人が睦まじく暮らす星を信じてるし、それが拠り所となり今の“ぼく”を生かしている。

 この登場人物を『GQuuuuuuX』に置き換えるなら、“ぼく”がマチュ、王子さまがシュウジで、花がシャロンの薔薇(シャアを諦め、シュウジを受け入れたララァ)。

 他者を受け入れない大人がキシリアで、マチュの鏡像ニャアンはその予備軍だったが、地球のララァを知ったマチュはその葛藤を乗り越え、虚無主義者シャリア・ブルの目を覚ます。

 こう見ると、『星の王子さま』と『GQuuuuuuX』の相関がそれなりに説得力あるという説も納得出来ると思う。以下、マチュが遂げる成長の観点から、ストーリーを見ていく。

 

マチュの失恋

 本作のメインストーリーが、マチュが失恋を受け入れる、というのは初見の俺でも理解出来た。ただその失恋の形がだいぶトリッキーなので、ここは整理が必要と思う。

 ストーリー前半の(というより最終話直前まで明確な変化は描かれてない)マチュは恋に恋する乙女で、シュウジの傍にいることが出来さえすれば、それだけで幸せになれると思っていた。

 その極致が、第7話「マチュのリベリオン」。シュウジを奪った世界ごと否定しようとするマチュの“失楽園”は、社会のルールを代行するシャリア・ブルの手によって制裁を受ける。

 なぜこれが不義の愛かと言えば、シュウジには本命の相手ララァがおり、マチュにはずっとシュウジのその本心が見えていなかったし、また見ようとしていなかったから。

 『星の王子さま』で王子さまの旅が始まるのは、王子さまが花と喧嘩したから。その際、花は愛しているはずの王子さまを引き留めはせず、精一杯強がって王子さまを外の世界へ送り出す。

 作中の描写を現実的に受け取るなら、王子さまと花が再会出来たとは思えない。毒蛇に噛ませたとはつまり初恋に殉じたということで、これは失恋の物語とも見て取れる。

 『GQuuuuuuX』でこの花に当たるのが、地球のララァ。自分の存在が、彼女にとっての王子さまシャアとシュウジの双方を傷付けると知った彼女は、自由を捨て地球の閨房に留まり続ける。

 その代わり門出を見送ったのが、もう1人のガンダムの乗り手マチュ。ララァと出逢ったマチュは花の愛を知った王子さまで、その身に与えられたのが、花と喧嘩した王子さまを葬る役割。

 愛していたはずの花を裏切った後悔が王子さまに死を選ばせるが、その王子さまの本心を気付かせてくれたのは、地球で友達になったキツネとの出逢いと別れだった。

 自由を否定するララァとの出逢いと別れは、別離を受け入れるという新たな愛の形と同時に、喪失を受け入れてでも本物を求めたいというマチュ自身の本心とも向き合うきっかけをくれた。

 『星の王子さま』が悲劇でないのは、王子さまがぼくに贈り物をくれたから。物事の本質が見えるようになったぼくにとって、この世界は王子さまが住まう大切な場所へと姿を変えた。

 シュウジとの出逢いをくれたこの世界こそが本当のキラキラだと気付けたから、王子さまを送り出した花のように、彼のいなくなる世界を受け入れる強さをマチュは得られたのだと思う。

 

母との確執

 マチュのストーリーとして見た時、シュウジへの恋愛一直線と両輪を成すのが、“母”との確執。マチュにとって母とは王子様を諦めた妥協で、マチュの戦いは母との衝突によって展開していく。

 物語序盤、マチュの敵は実母タマキだった。マチュは世間的な理想の母親をこなすタマキを偽りと見做しており、彼女が与えてくれる不自由ない暮らしに、逆に窮屈さを感じていた。

 タマキを反面教師に、マチュが新たなロールモデルとしたのが、自分を子供扱いしなかったアンキー。だが、結局は聞き分けのいい妥協を求めてきたアンキーとの関係も、決裂に終わる。 

 正反対に見えて、共にマチュに生き方を教えてくれたイズマの“母親”達。だがマチュは、そのいずれの欺瞞をも蹴って、花の束縛を嫌った王子さまのように、自由を求めて宇宙へと旅立つ。

 “母殺し”を描く上で最後の敵となったのが、全宇宙の母たろうとしたキシリア。ただし、マチュとキシリアに直接の接点はない。接点を持つのは、マチュの鏡像であるニャアンの方。

 敵意の中で育ったニャアンは、心を閉ざして孤立を受け入れ、キシリアの愛情と引き換えなジフレドという呪縛に乗ると、その世界の絶対防壁として、他者を排除するトリガーを引いた。

 だが関係性を拒絶する銃口は、拠り所の母さえ標的となる。ニャアンがマチュと同じ過ちを繰り返すのは、事ここに至るまでキシリアはおろか、自分の本心さえ見ようとしなかったから。

 全てを諦めたつもりが、自分1人じゃ届かない所に大切なものは残っていた。ニャアンが世界に居場所を見つけたがってると悟ったマチュは、母達の知らない関係性“マヴ”になろうと提案する。

 キシリアの目的はシャアの抹殺。なぜシャアに拘るかと言うと、その存在が、世界を信じるに足ると思わしめた“希望”であり、闘争に生きることでキシリアが捨てた人生の象徴であるから。

 希望の象徴を消し去ることで今の自分の世界を守ろうというのは、ニュータイプの可能性を潰すことで“普通の母親”としての人生を受け入れようとしていた、シイコとパラレルな関係。

 母親となり得た可能性を否定することで、王子様のいないこの世界の自分を唯一絶対とする“母親のオルタナティブ”がキシリアの選んだ妥協。その軛から脱して、真に母を超えることが出来る。

 キラキラが存在ではなく関係性と気付き、シュウジのいない世界を他者との出逢いに開かれた場と肯定出来たから、マチュは世界の敵となった少女に庇護でも搾取でもない手を差し伸べられた。

 

パイロットの見た光

 『GQuuuuuuX』の動乱はキシリアがシャアを殺すために仕組んだものだったが、同じくシャリア・ブルも、この戦争でシャアを亡き者にしようとしていた。ただ、その動機は少々異なる。

 自らのエゴで世界を覆い尽くそうとしたキシリアに対し、シャリア・ブルの場合はエゴの方を世界に明け渡し、従属的な自己の存在の空虚さに、喪失の痛みから逃れ得る安住を求めた。

 方やシャアの行動とは、世界をあるべき姿に戻すという、これも世界への従属から来るもので、シャリア・ブルがシャアに見ていた虚無とは、彼が己の内に見出しているものに他ならない。

 自身の無力感を肯定するため、己の似姿を“絶望”の象徴として討滅する。世界から自分の居場所を消し去るまで戦い続けなければならないのが、シャリア・ブルという男の抱えた業。

 『星の王子さま』の中で彼と重なるのが、砂漠に墜落した飛行機乗りのぼく。過酷な状況に陥り、奇跡に縋る水の探索を放棄していた彼だったが、王子さまに導かれて遂に井戸を探し当てる。

 世界に従属しながらその実、世界を信じきれなかったシャリア・ブルに、この宇宙に産まれた子の可能性を示したマチュは、砂漠の美しさを思い起こさせてぼくの命を繋いだ王子さまだった。

 他方、この宇宙には創造主シャロンの薔薇がおり、シュウジを止めたい彼女がジークアクスのパイロットを敵役へ導くのが本作。シュウジとマチュの出逢いも、謂わばシャロンの薔薇の筋書き。

 王子様の幻想に破れ、一時は世界を否定したマチュだが、“母殺し”を遂げ、本当のシュウジが見えるようになった今、彼との別れを惜しむこの哀しみが、出逢えた意味だったと理解する。

 喪失を生む世界を拒絶せず、引き受けた先に新たな関係性を築ける強さが、創造主シャロンの薔薇の存在しない宇宙を切り拓く条件であり、それがジークアクスのパイロットに課された役目。

 だからこそ本作の主人公はマチュであり、ララァへの愛に殉じるシュウジの姿を見届け、本物のマヴを得たマチュは、『星の王子さま』の語り手ぼくと同じ“本当”を見つけられる人。

 王子さまで、ぼくというマチュの二重構造も意味があり、井戸の水がぼくを救ったのは、王子さまのために汲んであげた水だったから。誰かのための贈り物だから、ぼくにとって特別になった。

 この世界を純粋に信じていて、誰かにとっての希望になれる。また、守るべき価値を見出だした誰かのため、自分を信じて行動出来る。それが、本作の提示したニュータイプ像なのだろう。

 

むすび

 以上見てきたように、『星の王子さま』を引合いにすることで、『GQuuuuuuX』のマチュの成長譚というストーリーにある程度の軸を通して見ることが出来たと思う。

 ただ、それも十分納得がいくものに仕上がったというわけにはいかず、書きながら自分でも腑に落ちなかった点を、これからいくつか挙げて連ねていきたい。

 まず、これ別に一年戦争後が舞台な必要なくね? マチュのストーリーとキシリアの戦争は全く関係なく、逆にマチュに絡むシャアやララァはキャラクター像が変えられて別人になってる。

 ネタ的に投入されるゲスト達もはっきり言ってノイズで、商業的な要請だろうが、結果OPに登場するメインキャラクター達がよくわからない立ち位置になってるのは本末転倒だろう。

 “マヴ”が本作のキーワードと思って見てたけど、マチュとニャアンのマヴがクライマックス…ではなく、「行くよジークアクス」ってじゃあマヴって何? 人と人の話じゃなかったのこれ?

 最終的にマチュとニャアンの関係も否定したはずの王子様に守られるお姫様に落着したように見えて、2人がマヴになれたことでハッピーエンドという見方に居心地の悪さを覚えてしまう。

 それまでキラキラとか言ってたマチュが唐突に語る本物のニュータイプ論からスポ根みたいな台詞とか、脈絡無さ過ぎてもっとこれまでの延長線上で最後締めて欲しかった。

 それにやたらと強さを強調する感じも、その結果指名手配されてるわけで、この辺のニュータイプ像の立て方が『星の王子さま』のテーマとは食い合わせが悪過ぎる。

 『星の王子さま』の美しさは、もう会えない王子さまへの信仰がぼくを生かしてることだが、ゼクノヴァはポンポン起きてるんでジークアクス乗ってればその内会えますってそりゃないやろ。

 もちろん、『GQuuuuuuX』と『星の王子さま』は別作品であり、展開がそぐわなくても何ら問題はないが、独自作と言うには作品内を通すロジック、説得力の部分が弱かったように思う。

 『ガンダム』を純粋にアニメとして楽しんだ身として、淫夢MADよろしく共通ネタで盛り上がれて良かったなどとは決して言えない。『トップ!』に対する『トップ!2』のような継承はされたのか。

 シーン単位では見所もあり、4話を見た時などは大いに期待しただけに、終盤の突き放され方は複雑で、俺にとって『GQuuuuuuX』は、付き合い方を考えさせられる作品になってしまった。

 

 

 

2025年深夜アニメ私的総括13選

 

 年末恒例、深夜アニメ総括を今年もやっていきたいと思います。

 毎度のことながら、作品の選考基準は僕の独断と偏見によるものであり、順不同なので悪しからず。

 

『魔神創造伝ワタル』

 勇者召喚の源流『魔神英雄伝ワタル』の令和リメイクは、終盤明かされる神様達がマインクラフトをやるために生み出した世界での冒険。Youtuberや炎上と言った題材もさることながら、キャラクター性やアニメーションのテンポの面でも現代性があって、軽いノリで見れる脱力ギャグの持ち味を残しながら見事に名作のアップデートを果たしてみせた。

 個人的に印象深かったのはマスコットヒロインポジションのマロで、旧作のヒミコと同じ破天荒キャラながら、今風のデザインや見せ方、ネットアイドルという属性でストーリー的にもちゃんとヒロインをやれてる。炎上を起こす敵の造形にも時事ネタがふんだんに取り入れられてて、単純に毎週楽しく見られたのが子供向けアニメとして大変好感が持てた。

 ストーリー上の仕掛けも面白く、W主人公を立てたことで、本筋はワタルサイドのあっけらかんとしたトーンのまま、カケルサイドのネットで繋がった友情という熱い話も展開出来てる。嫉妬や誤解で悪意に踊らされることもあるけど、そこで得たものは確かに本物で、そもそもの動機は違ったろっていう、戯画化はされてるけど現実のインターネットに繋がる話をやってるのよな。

 インターネットの光と闇で対決の構図を作りつつ、主人公のエンターテイナーとしての資質で平和を取り戻す、テーマ性と王道展開どっちも両立した傑作。名作リメイクは話題性ばっかり先行するけど、ちゃんとそれ単体で面白いアニメを作ることが真の意味で現代に復活させる意義になる。それを見事にやってのけた本作は、間違いなく今年を代表する1本。

 

『CITY THE ANIMATION』

 『日常』でヒットを飛ばしたあらゐけいいち×京都アニメーションの最強タッグ第2弾。各々の強力な個性が存分に発揮された本作。その攻めた姿勢は前作以上で、アニメとしては特に、続きもので真面目なドラマが展開される『ユーフォ』では我慢してたであろう、天下の京都アニメーション復権を叫ぶとんでもない暴れっぷりを見せつけた。(笑)

 今年が百合アニメ豊作の年だったことは界隈では有名だが、個人的にイチ推しの百合アニメは「ガールズ・ラン・コメディ」の本作だった。#9驚天動地の第4回CITYレース覇者となったまつりとえっちゃん。これ以上に尊い関係性あるか⁉️ 2人のシーンはどれも涙が止まらない。そして主役を張る南雲とにーくら。この2人が同棲してるという事実、聖書に記してあるそうです。

 そうした百合厨以外でも、本作のアニメーションとしての迫力には圧倒される。上述の#9も作画の暴力が猛威を振るう、並みのアニメならこれだけで伝説になるアクション巨編だけど、オタクの度胆を抜いたのが#5の『24』式画面分割。実写と違って映像を“起こす”必要があるアニメでこんなこと出来るんや。そのラストもまた実験的な映像表現で、頁を跨ぐ原作絵を再現してみせる。

 表現への凝り方がもはや前衛なアニメではあったけど、その志向はCITYという舞台であり、そこに住まう人々の群像劇。スラプスティック極まる最終回に至るまで、CITYに巻き起こる奇跡を描くもので表現のための表現ではない。シュールの中心にエモさのあるあらゐ先生の作家性が、石立監督の特性を1番いい形で引き出した、そういう意味でも大成功だったアニメ。

 

『瑠璃の宝石』

 鉱物採集に魅せられた女子学生達を描く、『恋アス』『星テレ』に続く萌え×理系女子アニメ第3弾。正直原作存じ上げなかったんだけど、藤井慎吾監督は同じ横手美智子脚本の『おにまい』に続いて比較的知名度の低かった原作でホームランをかっ飛ばす稀代のヒットメーカーと言っていいんじゃないでしょうか。EGG FIRMの原作のチョイスも良いんだろうが、いやはや。

 鉱物学という多少取っ付き辛い題材ではあるものの、上述の『おにまい』で培ったデフォルメの効いたキャラデザがコミカルに動くキャラクターの可愛らしさで、萌えアニメとして十分に見せられてる。第二次性徴を描く前作とはある種真逆のこの題材、登場人物の年齢層も上がる本作でこのキャラデザを採用したことがまず勝負に勝った要因。凪さんとかドワーフ並みのムチムチぶり。

 勿論それだけじゃなく、鉱物採集の魅力そのものである地殻変動が生み出した自然の情景は目を瞠るもので、アニメならではのファンタジーを巧みに利用している。主題歌のトーンも異世界モノのような荘厳さが意識されていて、主人公達が夢中になる世界の魅力を映像美が体感させてくれる。テーマの根幹の部分に説得力を持たせられたのが、本作の成功の要因。

 キャラクター達の物語は卑近過ぎる程地に足が着いていながら、彼女達が手を伸ばす地続きの世界はこの世ならざるまでに美しい。その有り様が、空間時間における地学的スケールの隔たりを経た宝石が今ここにある神秘性、その軌跡を辿る鉱物学の深遠さそのものを表すという、メッセージ性、物語に落とし込む完成度、映像的な快楽とアニメとして何重にも価値のある名作。

 

『空色ユーティリティ』

 『バディゴル』『とんぼ』と来て3年連続ゴルフアニメのヒット作。ただ、ゴルフに文字通りの命を懸けて挑む、あるいは競技プロに足を踏み入れしのぎを削っていく前2作とは変わり、本作はどこにでもいる普通の少女が自分自身にとっての特別な瞬間を手に入れる、あくまで等身大のストーリーをゴルフを通じて描くもの。友人達と行う趣味が本作のゴルフ。

 なのでフォーマットとしては、趣味をエンジョイする女の子達の交流をコミカルに描くオタク大好き日常系の作りだが、メインキャラ3人の距離感が絶妙で、アマチュアチャンピオンの遥、人気読モの彩花は、主人公美波が少し背伸びをした先にいる存在。ゴルフを通じてそんな2人との世界を覗き見た美波が、2人とは違う自分なりのフェアウェイを見つけていく。

 何と言っても本作最大の魅力は、とにかく女の子が可愛い。チャームポイントのピアスが映える主人公 美波、タンクトップの健康的なエロスを見せつける遥、3人の中で1番お姉さんの彩花。美少女デザインに定評ある斉藤健吾監督ならではの解像度で描かれた女の子達は、萌えアニメにはない色気が醸し出される。毎週ノルマのように披露された入浴シーンにも多謝。

 日常系として王道のストーリーに、コミカルな演出も楽しく、中心にいるキャラクター達の魅力も申し分ない。主題歌のOP,EDも共に作品の持ち味を引き出す良曲で、一分の隙もなく非常に完成度の高いアニメだった。4年前に作られたパイロット版を経て、1クールのフルパッケージで今年この傑作に出逢えたことこそが、オタクにとっての“スペシャルな特別”。

 

『雨と君と』

 どこか浮世離れした所のある女性と人語でコミュニケーションを取る狸の同居生活を描くというシュールな世界観のアニメ。ただその“変わってる”所が本作のテーマで、社会から近くもなく遠くもない2人の生活には、独特ではあるが彼等にとっては最も居心地のいい時間が確かに流れていて、それを見てる我々の心にも雨宿りのように安らぎをくれる。

 本作を語る上で外せないのが主人公・藤のハチャメチャな顔の良さで、引きの笑いで見せる本作にとって藤の顔だけでも十分画が保つのは強い。他にも隣家のきいちゃんや友人のミミ、レン。サブキャラ達も含め総じて顔が良く、ギャグセンスキレッキレの魅力的なキャラクター達ばかりで、大きな事件が起こるわけではない日常の物語ながら全然退屈しない。

 本作で描かれるのは主に“静”の時間で、それは主人公 藤のキャラクター性に起因するもの。人が嫌いなわけではない、ただ時間の受け取り方が周囲から少しズレている。でもそんな藤だから、雨に濡れる君と出逢えた。君の存在は本作の大きな嘘だが、キャラクター達の生きている時間は現実の我々の生活と遜色ないリアリティ。だから、君との時間の尊さがより身に沁みる。

 思うに、この作品が描いてるのは大人の時間なんだろう。社会が限定的だった子供の頃と違って、関係性が多層化する故に行き場をなくした自己を抱えたり、反対にやることに追われ不安定な自己を持て余したり。そんな心が必要とする止まり木が、藤と君の時間。OP,EDの両主題歌と共に、自分を誤魔化さないでいられる時間をくれるアニメだった。

 

『アポカリプスホテル』

 文明崩壊後の地球で人類の帰還を待ちながら職務を遂行し続けるホテリエロボ・ヤチヨの物語を描いたSFアニメ。OP,ED共にあのaikoって気合入り過ぎやろと思ったら完全にその格ありの神アニメだったな。作品にもマッチしてる。春藤佳奈監督はデビュー作にしていきなり名匠の仲間入りを果たしたと言っても過言ではない。今年の深夜アニメを代表する大傑作。

 という大変評価の高い本作ではあるけど、1話完結の見やすさもウリの1つと思う。有能そうに見えて所々ポンコツが露呈するヤチヨ然り、図々しくも憎めないポン子達がレギュラー入りしてからはコミカルさが更に増し、可愛らしいキャラクターとキレのあるギャグが炸裂する深夜アニメらしいはっちゃけたコメディとして、難しいことを考えなくても十分楽しめる作品。

 でもそれだけじゃないのが名作たる所以。個人的には第9話の「結婚葬儀披露宴」で、お客様の特別な時間として死と新生を接続し、人類のいない未来で文化の創生をやってのけたのに感服したわ。第1話では悲哀を誘う情景だった存在が、己の存在意義への問いを1クール積み重ねた末、最終話では同じフレームに人格を得て自らの哀愁を口笛に乗せる。この強さと美しさは文学そのもの。

 本作がここまで高い芸術性と完成度を誇れたのは、初めから30分×12本の1クール作品として構想されたオリジナルアニメの強みを存分に活かした結果だろう。本気で面白いものを作れればオリジナルアニメにはここまでのポテンシャルがあることを見せつけた。その意味でも、有名原作の取り合いで汲々とする昨今に、本作が生まれた意義は大きい。現代カルチャー史における偉業。

 

『サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと』

 人付き合いにトラウマを抱える最強魔女が人として成長していく学園ファンタジー。文芸色強めな原作小説を『このすば』等ギャグアニメのイメージある金﨑貴臣監督がどう料理するのかと思ったけど、結果的には大成功。ともすれば重くなりそうな話に得意のミッフィーwを挟んだりしながら上手く中和して、深夜アニメのオタクをも大満足させた。

 羊文学がOP,ED両方を手掛けるだけあってアニメとしての格も当然高く、繊細な美術や眩いエフェクトはファンタジーアニメとしての期待に十二分に応えるもの。そしてその世界の美しさは、数式という主人公モニカにとっての信仰に直結する。人の意の介在しない世界の美しさを誰よりも理解するモニカだから、他の誰にも為し得ない規格外の魔法を行使出来る。

 ただしその感受性は繊細さと紙一重で、無敵のモニカの魔法は目の前にある現実を否定した上で成り立っている。嗜虐と悪意の現実を拒絶し、無機的な美しさに逃げ込んだ故に手にした力。最強主人公なのに実は1番脆い弱者という齟齬が、物語のフックとしてストーリーをモニカ自身の成長へと焦点化させる。あくまで世界、そして他者を信じるためのコミュニケーションが本作のテーマ。

 その過程として誰かを守るために罪を被る人々が描かれる。そしてモニカが守るフェリクスも実はモニカ自身の似姿で。人と向き合い始めたモニカは優しさで出来た世界の醜さを受け入れ、フェリクスを、自分を、世界を赦せるようになれるのか。文芸性の高さが物語への関心をグイグイ引っ張る。小説原作のストーリーの強みが遺憾なく発揮された作品で、是非2期やって欲しい。

 

『ぷにるはかわいいスライム 第2期』

 深夜放送から夕方枠に移行した『ぷにる』2期は、新キャラ ジュレの投入でより過激な表現へ踏み込んできた。言うてもギャグ漫画だから関係性は不変だと思ってたのよね。それが造られた命であるジュレの登場によって、ぷにる自身も自己の変容を迫られる。ギャグ漫画の中に生まれたSF存在のジュレがメタ的にも異分子であるという建付けなに?まえだくん先生本当漫画が上手すぎる。

 コタローの逃避先だったというぷにるのオリジンまで遡及し、1期を経て友達が出来たコタローにもうイマジナリーフレンドは必要ないという存在意義の消失。そこに虚飾を否定され、性的な関係でコタローを繋ぎ止めようとするジュレがぷにるを呑み込み現れるという。第18話もそうだったけど、この辺のアイデンティティクライシスのホラー演出は迫力があって凄まじかった。

 ジュレが執拗にぷにるを否定するのは自意識があるから。自己の中の他者像、他者の中の自己像という自己の外部を完全にしようとして奈落に陥る。これこそまさに人間の業で、人間の偽物でしかないと苦痛に悶える程に本物に酷似していく皮肉。本作のキャラクターはみな分裂を抱えた存在で、それがギャグになってるけど、その分裂に自己を苛まれてるのがジュレの悲劇性。

 自意識のないぷにるはそこから解放されてたわけだけど、ある意味ジュレはぷにるのシャドウで、最終回の展開が表すのはぷにる自身の精神の分裂と統合。人間同士の恋愛感情もお人形遊びに過ぎないと喝破した上で、自分達が歪な始まりだったことを認めながら、それでもお互いが必要だと認め合う相即不離の関係。“ともだちじゃなくなるまでのお話”ってそういうことだったのか‼️

 

『その着せ替え人形は恋をする Season2』

 1期も好評を博したコスプレアニメ2期目。1期は原作ストックが溜まってなかったらしく縦軸がふわっとしてる感があったけど、今期は作品世界の横の関係の広がりに加えて、五条君の海夢ちゃんへの関わり方、そして海夢ちゃんの方の恋心が中心テーマとしてはっきりと描かれた印象。それでも1番の感想は前期同様、本当に見てて楽しいアニメだった〜。

 1期もヒットはCloverWorksの美麗作画があったればこそだったわけだけど、当然今期もそこは健在で、1期とほぼ同じ座組の約束された勝利。ただその分、個人的にはコスプレを封印された第19話のスナップショット撮影の方が印象に残ったかな。台詞にもあったようにアイドルのイメージビデオ風一人称視点で、こういった新しい演出も入れてくる所がニクい。

 また2人の閉じた関係中心だった1期から、五条君が他のクラスメイトと打ち解ける学園祭編や、本作のレイヤーキャラが勢揃いし群像劇の様相を呈す棺合わせ編といった、ストーリーの幅を持たせた展開もあり、しかも緊張感を持ったそれらが全て優しい世界で落着する。あまねさんの話に涙する五条君と海夢ちゃんのピュアさはもちろん、2人を取り巻く世界も本当にハッピーが溢れてる。

 乃羽の爆弾発言で幕を開けた2期。五条君にとって、やはり海夢ちゃんは自分とは真逆の世界で生きている人ではあるが、その海夢ちゃんが連れ出してくれた世界でいっぱいの楽しいことに出逢えた。更に学園祭では、自らの仕上げた海夢ちゃんを初恋の雛人形にまで重ねつつあるわけで、プリを撮り返した(笑)海夢ちゃんがその先に進める日も近そう、というか3期早くやってくれ!!

 

SPY×FAMILIY Season3』

 みんな大好き『SPY×FAMILY』の新作。個人的に前期の豪華客船編からプロットの上手さに着目し始めて一気に期待値が跳ね上がってたんだけど、本作の主人公ロイドでもある、WISE屈指の敏腕スパイ“黄昏”の人間的な側面にフォーカスしたこの3期でまた俺の中の株がグンと上がったわ。みなさん、今1番漫画が上手いのは遠藤達哉先生です。(今さら)

 アーニャの落第から始まるのもニクいロイドの過去編。食事の描写を効果的に使い、上げて落とす緩急で徐々に心が死んでいく様を描写しながら、何者でもない男“黄昏”が出来上がるまでの記憶。これが戦争回避に人生を捧げたロイドの原風景になってたわけや。見終わると、平和な時代のアーニャが失われた幼子のロイドの手を引くOP映像の意味がわかって泣ける。

 その兵士だったロイドを雛型に描かれる父の戦いが、バスジャック編。かけ離れてしまったビリーと娘の心を仲介するのがアーニャで、孤独を抱える父は娘に寄り添うことが出来なかったけど、その父の背中の大きさを娘はちゃんと覚えている。家族の前で嘘をつき続けなきゃいけないロイドの本音も、アーニャはちゃんとわかっているから取れた褒章。

 そしてこれまで無敵の活躍を続けてきた“黄昏”が窮地に陥るウィーラー編。誰も信用しないウィーラーは黄昏の鏡像で、彼に遅れを取るのは家庭の危機(笑)を迎えたロイドとしての人格が黄昏を侵していたから。スパイとしては欠点だが、愛の力でウィーラーの合理主義を粉砕したフィオナや彼女を慮るシルヴィアの温かみは、それだけではないことも教えてくれる。安定の面白さだった。

 

凍牌 〜裏レート麻雀闘牌録〜』

 まっちゃんとの出逢いをきっかけにヤクザの代打ちを務めることになった少年雀士ケイの闘いの日々を描く物語。正直麻雀はそこまで詳しくないから楽しめるか最初は不安だったけど、作劇がハンパなく面白いし、キャラクターの異常なテンションに乗せたベテラン声優陣の掛け合いに、話の重さと裏腹の制作陣の遊び心で、アニメとして掛け値無しに面白かったわ。

 それと言うのも出てくるのが反社の人間ばかりでキャラクターがめちゃくちゃ立ってるのよね。2話で退場したみんな大好きまっちゃんやケイに完全にわからせられた関、ヒロインレースに負けたと思ったら1番悲惨な目に遭ってる優と。別に雀士じゃない人達まで鮮烈に記憶に残る負けっぷりを晒してて、この勢いは同じ極道アニメ(違う)『忍極』に通ずる所がある。

 その中で、他人を信用しない、と言ってもまだまだ子供だったケイが、極道として漢を上げていき、周りのヤクザ達からも一目置かれるようになっていく成長譚でもある。冷徹な計算で打つ氷のKに熱い血が滾ってくる展開。それを外さない作劇の上手さが、単なるイロモノ枠に収まらない作品としての格を担保してる。それが2クール続くのだから面白くないわけがない。

 ジャンルもジャンル、また容赦なく指が飛ぶ(笑)展開で予算が潤沢にあるタイプのアニメではなかったであろうことは想像に難くない。それでも、見てる人を精一杯楽しませようとする制作陣の心意気はひしひしと伝わってきて、そういうアニメが俺は好きや。今年1年の始まり冬クールのオタクのTLを1番盛り上げてくれたのは、『凍牌』第2クールだったことは忘れずにおきたい。

 

『チ。–地球の運動について–』

 今をときめく大ヒット漫画家 魚豊先生の代表作アニメ化。地動説がモチーフと聴くと理系の小難しい話かと思うけど、これは自らの信念に命を懸けた名もなき英傑達の記録であり、業績が讃えられる偉人とは程遠いそうした無数の人々の生きた時代を紡いだもの、それは我々が歴史と呼ぶものに他ならない。俺はこの作品、ホメロス以来の傑作が生まれたと思ってる。

 魚豊先生と言えば、今年デビュー作の『ひゃくえむ。』が劇場公開されて、そちらは映像表現としても挑戦的なことをした意欲作らしいけど、こちらは極めて原作準拠。少し準拠し過ぎなきらいもあったかもしれないけど、原作改変があるとすぐ叩かれる昨今だからひたすら原作に忠実というのも1つの手かなと。それが成り立つくらい、原作の展開が圧倒的に面白い。

 とにかく台詞の強い原作のそれに、当代一流の声優陣が声を当ててくれた。子供らしい野心から一瞬で超然とした末期を遂げ、ノヴァクに呪いをかけるラファウに坂本真綾女史。プライドが高く利己的だが、実は一途で最後は情で動くバデーニに主人公声の中村悠一氏。そんなベテラン陣に混じって少女ヨレンタの怖れを含みつつも芯を感じさせる仁見紗綾も素晴らしい演技

 サカナクションのOP「怪獣」は、机上で試行を繰り返すかのようなリフレインからBメロ〜サビに入る瞬間、世界の壮大さに開かれる昂揚感は、まさに本作の鳥肌シーンそのもの。EDを手掛けたヨルシカは、「怪獣」と似たモチーフの前期「アポリア」に後期「へび」ってそっち来たか!作品テーマを見事に反映した主題歌。原作の1ファンとして、本当に感無量のアニメ化だった。

 

僕のヒーローアカデミア FINAL SEASON』

 おそらくこの先もジャンプ史に名を残すであろう神漫画のアニメ化。足掛け10年に渡るTVシリーズ放送が遂に幕を下ろした。アクション作画に定評あるボンズフィルムで、一貫してほぼ同じ体制を維持しながら制作出来たことが、最後まで熱量とクオリティを保ったアニメ化であり続けた要因だろう。長崎健司総監督本当に今までお疲れ様でした。声を大にして感謝を告げさせてください。

 本作の最大の魅力って、ヒーローそのものを題材にしたキャッチーさと、ジャンプ王道の少年の成長譚。そこに現代的な問題を上手く落とし込んだことよね。ヒーローである前に私人として身近な人間と向き合えているか、それがヴィランをぶちのめすのでなく救いたいヒーローデクの物語とリンクして、誰もが応援したくなる現代的なヒーロー像を提示してみせた。

 最弱の少年が最高のヒーローになるように、この物語には脇役は1人もいなくて、登場キャラ全てに個性がある、どころか個性がなくたって主役になれる。そこには堀越先生がキャラクター1人1人に込めた愛着があって、それを映像に起こした制作陣の情熱があるという、フィクションの魅力が詰まった物語なわけで、本当にこのアニメが大成功に終わって良かった。

 今期は特にそれを感じて、チョイ役だったキャラ、果ては番外編のはずの劇場版のキャラクターまで物語に組み込んで、みんながデクの勝利を願ってるという。大作の集大成としてこんなに胸に来る演出はない。タイトル回収を握り潰して最高のエンディングをプルスウルトラしたラストまで、このグランドフィナーレの素晴らしさ、アニメ史における栄光と言っていいだろう。

(よく考えたら『ヒロアカ』深夜アニメじゃなかったけど、入れさせてくれ。ぷにるも同様)

 

総括+おまけ

 有名作も相変わらず強かったけど、今年の印象としてはそれよりも、嬉しいことに作り手の情熱をそのまま注ぎ込んだような意欲作が目立っていた気がする。

 自ら立ち上げたパイロット版の企画から1クールパッケージの地上波放送にまで至った『空色ユーティリティ』。これから斉藤健吾監督の描く女の子は必見だな。

 前作の布石があるとは言え、地上波放送で前衛作品を流す社風がどうかしてる(笑)京都アニメーションの『CITY THE ANIMATION』。やっぱ問題作を生んでこその京アニ

 そして極めつけが、オリジナルアニメとして原作モノを超える評価を獲得した『アポカリプスホテル』。春藤佳奈監督の名を世に知らしめてくれたCygamesPicturesの功績はデカい。

 その流れで言えば、今年は放送枠も実験的なものが多かったので、是非名前を出しておきたい。

『未ル わたしのみらい』

 1話完結全5話の短期集中放送で、ヤンマーの作るアニメってどんなもんなん?と冷やかし半分(笑)で見始めたわけだが、どれも短編SFとしてのエピソードのクオリティがしっかりしていて、尖った表現にチャレンジしてる回もあって普通に見応えあったわ。

『ぬきたし THE ANIMATION』

 音声のみver.というトチ狂った放送形態のエロゲ原作アニメで、絵面を見ればまあ致し方なしではある(笑)。尺の都合上、俺たたエンドとも言える終わり方だが、傷付きながら惹かれ合う性愛と多様性の尊重というテーマは見応えあり、弾圧からの解放という胸熱展開はエンタメ性十分。

『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』

 今年1番の番狂わせは本作と言っていいんじゃないかという来年劇場版公開も控えた個人制作発ショートアニメ。レトロフューチャーの独特な世界観、小劇場芝居のような役者同士の掛け合いに音ハメ演出の気持ち良さ。亀山陽平監督は日本アニメ界の新たな財産。

『「魔法少女まどか☆マギカ 始まりの物語/永遠の物語」TV Edition』

 来年新作公開の『まどマギ』が話題作りに行った狩野英孝実況。これが思いの外オタクから好評で、鬱展開を緩和しながら見れることもあり個人的にも楽しませてもらった。本職の芸人さんだけあってリアクションが気持ち良く、キュゥべえ許すまじになっていく様は見てて笑っちゃう。

 

狩野英孝の生まれつきイケメンです

 

 ポリコレ意識やAIの導入など今年も色々ありましたが、アニメ業界は色々なチャレンジとその勝利が見られて、先が楽しくなるような1年だったと思います。

 来年も元気にアニオタをやっていきたい。いや〜、アニメって本当にいいもんですね。