若きスペイン人監督の手掛けた小規模映画ながら、カンヌ4冠の鳴り物入りでシネコンにもかかってた『シラート』見に行ってきた。
極限まで装飾を剥ぎ取った素朴な映像表現、タイトルに示される宗教性、日本人には馴染みの薄いレイヴカルチャーと敷居の高さを思わせる作りなので構えて見たが、むしろシンプルでわかりやすい、コンセプチュアルな映画だった。『ノマドランド』とか、こういう映画は好み。
前提知識なんかほとんど必要ない。扱われてるのは生と死、自己の喪失、世界の広大さと現前性という、大体の人が若い頃に一度は考えたことある普遍的なテーマで、俺的には『イージー・ライダー』もこんな感じで見たな。
この映画が難解、よくわからないという評価を受けるのはもったいないので、監督が明確にメッセージを発してる部分を拾い上げてみたい。
一応ネタバレ厳禁ということなので、ここから先は映画を見ている前提で。
岩壁のシラート
出だしから、冒頭エピグラフでタイトルの意味を説明してくれる。イスラムの蜘蛛の糸は、剣で舗装されているのか。どうやら過酷な試練が待ち受けてるようだなと、こちらを準備させておいて映画の始まり。
荒野に積まれた音響機材から響き出すビート。その鼓動を打ち返すような存在感で、長々映し出される岩壁。人の群れが思い思いに身をくねらせるレイヴの幕開け。
誰でもない人々の中から、クレジットと共に浮かび上がる主要人物達。その最後で、明らかにこの場から浮いている父子。彼らは、レイヴに参加するためこの場に来たのではないらしい。
父子の目的は、失踪した娘の捜索。周縁を探っていた父子だが、夜になって父親は息子を残し、レイヴの中に分け入っていく。同時に、プロジェクションによって岩壁に映し出される階梯。異質な文化への混入。これが物語を駆動する。
この映画は、こうした端的な画作りで全編構成されているので、本当にわかりやすい。冒頭部で作品の主要なテーマは既に説明されきってる。
混沌と秩序
翌日、今度は親子共々レイヴを見て回る。ところで人混みにはぐれかける息子と、慌てて呼び寄せる父親。失いかける家族の絆と、それを必死に繋ぎ止めようとすることによって、父親であろうとする。それがこの男のキャラクター性。
異国の地、右も左もわからない全く異文化の心細さの中、母国語のわかるヨーロッパ人との出逢い。共に犬を連れていて、それが安心感の象徴。父子にとって彼らだけが、この荒野で唯一の拠り所となる。
会場に軍隊が到着し、レイヴは強制終了。
ここでわかるのが、混沌の極みのように見えたレイヴは、みなが同じビートに乗っているという点で実は全くの無秩序ではなく、むしろ一つの調和を保っていた。ビートが支配する空間だから、安心して身を委ねていられたのだ。
軍隊という圧倒的現実が現れ、音を止めてしまえば、そこは本物のカオスになる。
混沌に見えた調和。そこに厳然たる秩序をぶつけられて、嵐に晒される寄る辺なき人々。これは本作の中で繰り返し用いられる構造で、まだ旅が始まる前からデモンストレーションが始まっているのだ。
異なる価値観
解散したレイヴの退去を迫られる参加者の列から、脱走を図る一部の人々。あのヨーロッパ人達がその先頭を走るのを認めた父子は、彼らについていこうと決心する。
彼らの改造車と違い、父子が乗るのは一般家庭向けのワゴン車。この車じゃ砂漠を渡れないと諭されても、父子は返す「でも行かなきゃ」と。
直前、レイヴの場面では、十字架を思わせる柵に向かって身を捩らせる人々が映されていた。それはまるで磔られているようで、娘がいるかもしれない砂漠に執着してしまって、自分の意思ではそこからもう逃れられない、父子が陥っている状況の暗示だった。
宗教的モチーフはもう1つあって、立ち寄った小屋でメッカの礼拝の映像が流れている。意味深なシーンだが、それを見る彼女の気まずそうな表情は、おそらく元ムスリム。元いたコミュニティの規範や関係性が息苦しくなり、逃げ出してきた、そんな所。囚われの父子とは逆に、自由を求めた逃走の先に砂漠へ辿り着いたのが、このレイヴァーの一団。
こうした表象を扱っているからと言って、本作がカトリック、あるいはイスラームの教義を説教する映画と見るのは勘違いもいい所。その証拠が、大きな試練を課される登場人物達、彼らの誰も、神の名を呼んで縋ったりしない。おそらく意図的に、拠り所を持たない俗人を描いている。
重要なのは、父子とレイヴァー、異なる秩序を生きてきた価値観が、境界を越え混じり合うということ。十字架とメッカは、その2つの秩序の象徴。
荒野の巡礼車
軍隊に警護される避難列を抜け出したら、車を走らせる燃料すら調達が困難になる。燃料の買付で父子に借りを作った一団は、この場違いな父子の同行を許可せざるを得ない。
再び鳴り出したビートをバックに、舗装道路を離れ、荒野に進入していく改造車とワゴンの不釣り合いな隊列。ちぐはぐな車両が1列になって疾駆する様は、同じ鼓動に身を委ねて踊り狂うレイヴァーにも似る。
先行きの見えない混沌の中、この先に自らの求めるものがあるという、信仰だけを旗印に砂漠を突き進む3台の車。このロードムービーが描く旅そのものなロングショットの情景と共に、満を持したここでタイトルクレジット。
父子と共にレイヴァーの彼らも混沌へ投げ出された、この瞬間こそが本当の映画の始まりであり、逆にこのアバンタイトルまでで、これから起こることは全て描かれている。こんな親切な映画はない。
大事なのは、混沌と秩序。その融和により生まれる調和。かつての自分を構成するものが全て破壊され、この世界に投げ出された1個の現象としての自分を見出す時、初めて彼は砂漠に生きる者になる。
茫漠たる世界の、荒涼たる現実に向き合った時、己が生を祝福に至る旅路として、非業な運命を甘受する境地。それこそが、この映画のテーマなんじゃないだろうか。
車…自己の拡張
ネタバレ厳禁らしいので、タイトルクレジット以降は簡単に済ますけど、まず、宗教的世界観を持たない彼らにとって、自分達の根底を支える秩序の象徴、それが車。
自前のワゴンじゃ走行不能な川を、彼らの車との紐帯で渡れたのを機に、ルイスの中で一団への信頼感が生まれ始める。
その晩には彼らの車を訪れ、エステバンに至っては入り浸るようになり、互いの距離は縮まっていく。
飲食物の分配にも応じ、運命共同体意識が高まってきたタイミングで起きるのが、ワゴン及びエステバンの喪失。
ルイスはエステバンを車に乗せた。息子を守ってやれると思ったからだ。だが実際は、エステバンごと車はオシャカ。
彼はここで、子を守る父親としてのアイデンティティ、砂漠にやって来てまで取り戻そうとした自己の根底を失ったのだ。
茫然自失の彼は、キャンピングカーの方へ移る。ルイスという異物を抱え込んだことで、レイヴァーグループの方も変容を迫られる。
目の前で起きた悲劇に、沈んだ車内を彼らなりのやり方で取り戻そうと、計画にはなかった寄り道。それが彼ら自身にも死の影を呼び込むこととなり、やがて彼らも車を喪う。
砂漠だって渡れる彼らの家を失い、覚束ない足許で、想像を絶する苦痛と恐怖に我が身を投げ出した先、辿り着く場所は宿命的に1つとなる。
同じように何もかもを失った人々と同乗し、先にどんな過酷な運命が待ち構えていようと、そこへ送られていく我が身をどうすることも出来ない、自由とは正反対の決められた道。
ただそこは、世界の広大さの前ではあまりに矮小な自分と向き合い、それでも歩を進めることを選んだ結果であることには違いない。辿り着いたという事実は、逃れようもなく確かに存在する。
死…酩酊を絶つ現実
この映画における「死」は、無粋な程のジャンプスケアで演出される。好き嫌い分かれる演出で、私自身も得意な方ではないが、本作のジャンプスケアにはきちんと意味があるので、それは説明しておきたい。
仮初めの調和を破壊する秩序が、この作品のモチーフであることは前述した。ここで言う調和は一体感、秩序は現実のこと。本作の死のシーンは全て、一体感を否定する強烈な“現実感”として現れる。
エステバンの死は、砂漠の素人であるルイスが、レイヴァー達の助けとなり脱輪を脱した瞬間。それまで距離を置いていた彼らとの一体感の中で起こった。
ジェイドの死は、ルイスの心の傷を癒そうと彼女が企画した即席レイヴ。音楽との一体感の中。ジェイドの後を追ったトナンは、彼女との繋がりを失わまいと。
ビギは、試練を乗り越えたルイスと同じになれるという希望に縋り付いて、彼自身の希望を賭けていたキャンピングカーと同じ末路を辿った。
仮初めの調和とは、彼らが抱えていた緊張感、不安感、悲壮感、それらから気を紛らわせてくれた一種の酩酊で、死という情け容赦ない現実によって、彼らはそこから引き戻される。
そしてこれは、映画を見ている我々にも同様。生理的な反応によって否応にも現実を意識させる、物語に没入する快楽から強制的に我々を引き剥がすもの、それがジャンプスケアだ。
つまり、今感じる心地良さが生きてる限りいずれ失われるという、絶対的な真理を突きつけるものがこの映画における死であり、本作のジャンプスケアは、映画を見る我々にも同じショックを味わわせる効果がある。
眠り…疑似的な死と新生
この映画に否定的な印象を抱く人々には、劇中における死の扱い、なかんずく、罪を犯した者への罰のような考え方をするなら、本作の悪趣味さを耐え難いと感じるかもしれない。
だが、それは誤りだ。なんとなれば、劇中で最初に死を迎えるエステバン。彼は最も無垢に近い存在であって、そんな彼が罪深き身の故に死を賜ったとは、到底思えない。
エステバンの死のシーンをよく見てみると、その直前、眠りからの覚醒で始まっているのがわかる。この眠りというのが重要で、現実から遊離し、いかなる拠り所もない、無秩序な夢の世界へ身を投げ出した状態。死の疑似体験とも呼べるものではないだろうか。少なくともこの映画では、そういう意図で置かれてるように思う。
死≒眠りと見た時に、眠りからの覚醒は、自己を構成する全てを失って、ただあるがままに現前の世界へと向き合う、新たな自己への生まれ直しを意味する。
新たな自己の前に、そこに至らなかった死をもう1度見てみたい。トナンは、ジェイドの死を抱えることに拒み、自ら死を選んだ。ビギは死を怖れるあまり、逆に不安に押し潰されてしまった。彼らの死は、生きることの重みに耐えられなかった結果であり、ある意味では死によって解放されたとも言える。
そこでこの物語の中心人物、ルイスの場合はどうか。エステバンを喪った彼は悲しみに暮れ、茫然自失となり砂漠へ彷徨い出る。この時彼は、死んでも構わない、むしろ息子の元へ連れて行ってくれと思っていたはずだ。やがて彼は砂嵐の中で力尽きる。が、ジェイド達に助けられ、差し出された水を一口、もう一口と飲む。息子を喪った世界で、彼は生きることを選んだ。
次の覚醒は、キャンピングカーの中。この後、問題の追悼レイヴになるが、これ以降ルイスは明らかに雰囲気が変わる。レイヴァー達の流儀を受け容れたように、絶望的な状況を虚心坦懐に受け止め、ただ淡々と前に進み続ける。
この砂漠での放浪が、ルイスにとって疑似的な死の体験になったのではないだろうか。そこで新生を遂げた彼は、もはや逃げることも抗うこともせず、目の前の運命をただ甘受する。
その象徴が、ルイスが見た夢と思しきインサートで、この謎の映像は映画のラストシーンに繋がる。いかに過酷な試練でも、目の前にある以上いつかは越えねばならないし、それが既に終わったことであればどうすることも出来ない。この予知夢のシーンは、そんな諦観にも似た境地に至ったルイスを表すのではないだろうか。
運命との融和
覚醒したルイスは地雷原を平然と歩いていき、あたかも預言者のように迷える子羊2人を導いていく。しかし、これは何か、彼が神に選ばれた特別な存在になったとか、地雷を回避する奇跡的な力を手にしたとか、そういうことではない。
ルイスは、決して地雷を踏まない確信があって進んだわけではないのだ。その証拠に、轍がある時は彼はその上を進んでいる。信仰に溺れることなく、目に見える道理には素直に従っている。
その上で、生死を分かつ決断に迫られた時、地雷を踏んで死ぬ、踏まずに生き延びる、そのいずれも彼にとってはただの結果でしかないのだ。死を望んでいるわけでもない、かと言って死に臆して足を止めることもない。己の小ささを知り、降りかかる運命をただ粛々と受け入れる。それこそが、真に荒野を生きる者の心構えであり、彼がこの映画で至った境地だろう。
無秩序な世界と完全に調和した存在者となったルイスがいる一方で、本論の前半で調和に関し、異なる秩序間の混交と融和であると述べたことを思い出して欲しい。すなわち、これから言おうとしているのは、ルイスに導かれて地雷原を渡った、ステフとジョシュ、彼らの体現する調和だ。
この映画が真に描こうとしているのは、こちらではないかと思われる。というのは本作のクライマックスであるこのシーン、それまでのビートの効いたダンスミュージックではなく、アンビエントな劇伴が使われている。これは覚醒したルイスを表しているとも取れるが、どちらかと言えば理外の彼を目撃した2人の呆気を表してるように思う。
抑圧的な社会から逃げてきた彼らは、死地に踏み込んで生を掴み取ったルイスを理解することが出来ない。それでもいつまで砂漠に立ち竦んではいられず、恐る恐る、ルイスがいる方へ足を伸ばす他ない。
信じられない世界、いつ牙を剥くか知れない現実、それでもその混沌へとじわりじわり身を浸していく姿。ここで彼らは、不確かな己の全存在と無秩序な世界との調和を見せたと言えないだろうか。
映画のラスト。何も説明はないが、おそらくルイスはもう一度砂漠へ帰ってくる。エステバンを埋葬するため。劇中でも口にするように、今の彼の最大の生きる目的は息子の埋葬だ。それが終われば、また娘の捜索を、彼女の生死に拘らず再開するだろうと、私は思う。
一方、ステフとジョシュの2人。砂漠で全てを喪い、レイヴに深いトラウマを刻んだ彼らは、二度と砂漠へ来ることはないかもしれない。だが彼らは、快い混沌から目覚め、無秩序な世界の中で生きることを受け入れた。これから元いた社会秩序に戻ったとしても、それは決して砂漠から逃げ出したということではないはずだ。
荒野を自らの居場所と定めた者と、目的のために荒野を渡る者。映画の冒頭とは立場が逆になった両者。互いの価値観が、この旅を経て統合されることはなかった。だが砂漠を抜けるため、この何処へ行くと知れぬ輸送列車に乗り合わせている間は、他の避難民達と同様、無秩序で無慈悲な娑婆の世界を生きる道連れなのだ。決して希望に満ちているわけでも、経験した艱難辛苦が報われるわけでもないこの映画のラストシーン。しかしそれは、現実の荒涼さと待ち受ける非業な運命に曝されながらも進み続ける人間の姿であり、茫漠たる世界の中の不確かな我が絶望しないで生きる術である。
ステータスは流石に弄ってないので、代表でのコンバートは許容範囲にしてもらいたい。

























