君は、4A-Gの涙を見る 『頭文字D』紹介記事〜ゆりかごからの卒業編〜

 

 前回投稿した『頭文字D』感想記事

boss01074.hatenablog.com

の今回は続編、原作5巻vol.50〜10巻vol.110、アニメ1期の一部〜2期前半部までにあたる範囲、題して「ゆりかごからの卒業編」について見ていきたい。

 前回は『頭文字D』と『ファーストガンダム』の共通点という視点で見ていったわけだが、その流れで言えば今回の内容に相当するのは『Zガンダム』。ハチロクを駆ることで大人達と対等に渡り合えるようになった拓海だが、その世界ではまだまだ才走った子供に過ぎないという現実を突きつけられる話。

 純粋な少年が大人への階梯を登る上で、避けて通れない挫折を経験するのがこの“ゆりかごからの卒業編”。戦いの中での主人公の成長を、女性との関係を対応させながら描き出すところも『Zガンダム』と同様。改めて繰り返すが、車の運転にさほど興味がなくても、漫画としての面白さで読めてしまうのが、『頭文字D』の魅力である。

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BATTLE5:

vs佐藤真子&沙雪 シルエイティ

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 峠の釜飯屋で池谷先輩の出会った謎の美女が、拓海の次の対戦相手、真子。特に涼介戦と順番が前後するアニメ版は、OPと本編で髪色が異なり、釜飯屋での初登場では走り屋とわからないようになってるニクい仕掛け。拓海にとって、秋名以外を走る初のアウェイバトル。

 真子戦の表のテーマは、相棒。碓氷峠のエンジェル(個人的にはインパクトブルーよりこっちの通り名の方が好き)は、某女児アニメよろしく2人組の、ふたりはハシリヤ(笑)。いざとなれば真子の方が肝が据わってる所もなぎほのっぽい。そんな2人のニコイチを表す車だから、シルエイティ。

 対する拓海が孤独に走っているかと思いきや、彼が共に走るのは何よりも頼れる相棒ハチロクで、ハチロクの支えを受けて拓海は、初めて走る碓氷峠を攻略していく。真子と沙雪の女の友情を補助線に、無機物であるハチロクと拓海の信頼関係を再確認するのが、真子戦の1つの意味合い。

 もう1つ、裏テーマとなるのが、池谷先輩の、真子の、そして拓海の下心。このバトルは池谷先輩が拓海に頭を下げ実現したものだが、実は拓海自身走りたくてウズウズしていた。初めて走る峠を攻めてみたいという芽生え出した走り屋の性を隠すため、池谷先輩の痴情を利用したのだった。

 走りを覚えた秋名は謂わば母親。他所の峠を攻めに行くのは、母親以外の女を知ろうとする行為で、であればこそ対戦相手は女でなくてはならなず、女のケツを追っかけ回す内に碓氷のリズムを自分のモノにした拓海は、走り屋として、男として、また一段成長を遂げる。

 完全にトレンディドラマの「ジ・エンド・オブ・サマー」。「Rage your dream」のハマり具合や2回転半の迫力、「バックミラーなんか二度と見ない」と「もうサンダルなんか履かない」の呼応とアニメの出来もいい。失恋を経て成長するという構図は、今後の伏線にもなっていく。

 

BATTLE6:

高橋啓介 FD-3S vs中里毅 BNR-32 GT-R

 次の拓海のバトルはケンタのS14とのレインバトルなんだが、闘争心全開だった真子戦からは拍子抜けする呆気ない瞬殺劇なので、その前の啓介vs中里戦を軸に見ていく。アニメではここまでが1期に含まれ、拓海を刺激した秋名での両者の模擬戦の代わりに、涼介戦の前に挿し込まれる形。

 2人の共通点は、拓海に負けた者同士ということ。ライバルを自認する彼等は、拓海の観戦に、いつにも増した気合でバトルに臨む。そしてその2人の走りを見た拓海も、負けてられないと走り屋魂を駆り立てられる。走り屋の意地は、互いを認めるからこその競争心でもある。

 一月余り前、拓海と戦った啓介のFDは完全に噛ませで、中里のGT-Rの方が脅威だったのだが、このバトルは涼介のセッティング意図を解してFDのポテンシャルを引き出した啓介が勝利を上げる。第2部では拓海と並んで主人公の1人を張るだけあって、高橋啓介、流石の成長スピード。

 一方解説役に回ったことで、碓氷で垣間見せた拓海の峠センスが裏付けられる。中里同様、オーラだけで啓介の勝利を予感し、中速コーナーが連続する妙義のヒルクライムでは、逆勾配の最終コーナーフロントグリップの差が勝敗の分かれ目と判断。結果は拓海の予言通りだった。

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 ケンタとのバトルにもその鋭い感覚が表れ、同伴のイツキをバラスト代わりに駆動輪のトラクションを稼ぐ即席レインセッティングで、滑らせることしか頭にないケンタと意識の違いを見せる。単純なスピード域の差でぶち抜いた、ダウンヒル群馬エリア最速を証明する貫禄の走り。

 アニメと違い、この交流戦は涼介の県外遠征を見据えたものだが、その仮想敵となる県外勢力がここで顔見せする。ケンタとのバトルもこっちの乱入者が本命で、群馬で敵無しとなった拓海を脅かし得る新たな強敵として、同じスピード域を走る挑戦的な4WDの登場がド派手に演出される。

 

BATTLE7: vs岩城清次

CN9Aランサー エボリューションⅣ

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 乱入に留まらず、彼等エンペラーの両エース清次と京一は直接拓海達とも因縁が付く。ランエボを絶対視する2人はハチロクを徹底的に扱き下ろす。ここからアニメ2期。最早自分の体の一部と化すハチロクに愛着がないわけがない拓海は、相棒の真価の証明を懸け、清次とのバトルを迎える。

 その前に、エンペラーの最初の標的となったのが妙義ナイトキッズ。中里が敗北したナイトキッズは屈辱的な仕打ちを受け、慎吾を典型として涼介戦辺りからベビーフェイス化してきてはいたが、ここで完全に御役御免。以降はエンペラーもといランエボが、本作のヒールの代名詞に。

 中里の敗因は、啓介戦の完敗で自信を失い、コンセントレイションを欠いていたこと。このメンタル面が勝敗を左右するという展開が、この後の拓海vs清次戦、さらにはそれ以降のバトルでも重要になってくる。物語は、拓海の精神的な成長を求めるタームへと入っていく。

 秋名ではこの心理が逆転。テクニックで上回ろうと躍起になる清次に対し、速いのはあくまでランエボと冷静に分析する拓海。4WDの立ち上がり加速に追従するため“溝落としパート2”を原作初披露。後ろから煽られペースを乱していた清次は、最終コーナーでラインを明け渡してしまった。

 ただし、絶対有利な秋名で文太の技“溝走りパート2”を使った勝利は、自分自身の速さの証明にならないとも感じていた。以降、拓海は秋名でのバトルを封印。守ってもらえない環境で、走り屋の自分とハチロクがどこまでやれるのか確かめたいと。拓海に巣立ちの時が近付きつつあった。

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 その裏ではハチロクのパワーアップ計画が進行中で、新エンジンに胸を躍らせるものの、拓海の更なる飛躍を願う文太は敢えて計画を先送り。手塩にかけた旧エンジンの寿命が近いことも感じながら、拓海が壁にぶち当たるその時までは、力不足でも息子に寄り添わせ続けることを選ぶ。

 

BATTLE8: vs須藤京一

CE9Aランサー エボリューションⅢ

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 京一による清次の尻拭い、の前に原作では塚本先輩と再会し赤城見学へ。アニメ化されないのは、なつきの峠初体験を描くこの話が1期と矛盾するため。その際なつきに頼まれ、塚本先輩の180SXでS13をちぎる拓海は、手応えの違いにハチロクが非力であることを実感せざるを得ない。

 峠見学はつまり、なつきなりの拓海への接近なわけだが、個人的にはここで2人の世界の間にある隔たりが露わになったように思う。「こんなクルマぶつけてもいいから」は、ハチロクを自分の分身のように思い始めていた拓海とは決して相容れることのない台詞だったのではないだろうか。

 そして遂に、なつきの援交が発覚。やけっぱちになった拓海は、京一の挑発に乗る形で赤城へ向かう。ベンツに女を寝取られた怒りをぶつけるのに、常に上からの態度で説教かますラーメン屋の大将は格好の相手だった(笑)。つまり京一は、拓海に己の小ささを自覚させる“大人”の象徴。

 バトルは、ミスファイアリングシステムの立ち上がり加速を活かした京一伝家の宝刀カウンターアタックで終盤を待たず勝負あり。ランエボ乗りでは1番人間が出来てる京一だが、面白味ない合理主義一点張りは涼介からボロクソに扱き下ろされる。『頭文字D』のランエボ乗りに人権なし(笑)。

 涼介による決着判定後もバトルは続いており、むしろここからが本番。敗北の決まった現実を受け入れまいと、悲壮なまでの闘争本能で拓海は抗う。ハチロクから迸るオーラ。アニメでは以降CGになるが、この時だけは手描き表現で、個人的には『Zガンダム』みあるこっちの方が好み。

 4A-Gがブローし座席で茫然自失の拓海を、家に居たはずの文太が迎えに来る。改めて再起不能という事実に、打ちひしがれる拓海。パワー不足を苦にという当初の思惑は外れたが、逆方向とは言えエンジンへの強い執着を見せた拓海に、新エンジンロールアウトの及第を文太は下すのだった。

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2nd LAP: ゆりかごの外の世界

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 アニメではなつきの援交周りがふわっとさせられたので、原作のニュアンスも汲んでおきたい。密告主の声バレが徹底回避されるアニメ版だが、そのタネ明かしもないので、単に拓海となつきの仲を妬んだ悪意の第三者という扱い。原作ではなつきの不貞行為に加害性のニュアンスが伴う。

 密会の目撃場所はホテルからファミレスへ変更。アニメは一応別れ話のタイミングで、大人の関係を強調する企図のアレンジ。対して原作は拓海に悪いと思いつつパパの懇願に負けズルズル関係を引き摺った結果で、パパの醜さとなつきの甘さを咎め、大人のだらしなさの方が印象に残る。

 拓海から見れば、ベンツの親父とホテルへ通うなつきに遊ばれてたも同然で、許し難い。一方なつきも援交の自覚がなかった等、考えの甘さが破滅を招いており、つまり2人共成長途中の少年少女達で、彼らが傷付きながら大人への階段を登っていく姿を描くのが、第1部のテーマなのだ。

 走り屋とその車の一体不可分を描いてきた「ゆりかごからの卒業編」。ハイテクマシンを駆る外敵エンペラーの来襲を機に、これまで挑戦者の立場だった“秋名のハチロク”は、群馬エリアの誇りを背負う存在となり、夜の峠に憧れを抱いて集う彼ら走り屋達のロマンの象徴となっていく。

 しかしその幻想は、赤城の夜に砕け散る。拓海もその1つである若さの意思に体を貸し、数々の伝説を打ち立ててきたハチロクだったが、遂にその心臓が限界を超えてしまった。夜の世界に零れる涙を吸い込んで鼓動に変えた4A-G。その最期の啼哭が、夢の終わりを告げるように響き渡る。

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 外の世界へ踏み出す秋名のハチロクに、浴びせられた現実の洗礼。だが純粋なだけでは通らないからこそ、そこに刻まれる名は、藤原拓海という男の真価を証明するものになる。ここまで連れてきてくれたもう一人の自分との別離を経て、少年は大人への階段を登っていくのである。

 

 

AE86はRX-78だ‼️ 『頭文字D』紹介記事〜秋名ダウンヒル伝説誕生編〜

 

 去年のジークアクス祭り最大の功績は、令和のこの時代にファーストガンダムへの巨大な導線を引いたことだと思う。

 あれから1年が経ち、ジークアクスきっかけでファーストガンダムを見始めた層も、そろそろガンダムロスが起きて新しい作品を求めている頃じゃないだろうか。

 そんな人々にオススメしたい作品、それがしげの秀一原作、アニメ化もされた大ヒット漫画『頭文字D』だ。

 

 

 片やロボットアニメ、片や走り屋漫画ということで一見接点は無さそうだが、知ってる人にはお馴染み『頭文字D』には、親父のマシンで戦いに挑む主人公、“赤城の白い彗星”の異名を取るライバル、そのライバルが乗るRX-7はガンダムの型番RX-78の元ネタと、『ガンダム』に繋がる設定や描写が幾つもある。

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 何より、私が「秋名ダウンヒル伝説誕生編」と題した序盤の読み味は、ファーストガンダムの前半戦と非常によく似通っている。なので、『機動戦士ガンダム』を楽しめた人間なら、『頭文字D』もきっと楽しめるはず。

 まあそれでなくても、一度は聴いたことのある有名タイトルで、続編『MFゴースト』のヒットを見るに『昴と彗星』のアニメ化も控えていそうなこの時世、それらの源流である『頭文字D』についてもこの際抑えておいて損はないと思う。

 ということで以下、『頭文字D』序盤“秋名ダウンヒル伝説誕生編”をおさらいしながら、そのファーストガンダムにも通ずる面白みを紹介していきたい。尚、原作とアニメでは構成が異なるが、原作1巻vol.1〜5巻vol.50、アニメ1期最終回の涼介戦までを範囲とし、両者を併記する形で参照したい。個人的には、どちらから入ってもその面白さは伝わると思う。

 

OPENING: 車に無関心な主人公

 『頭文字D』を手に取ろうとする人にとって最大のネックは、「俺…車の運転は出来ないし、興味もないんだよな〜」ではないだろうか。安心して欲しい。かく言う私も運転は出来ない。

 確かに専門用語は出てくるし、運転の上手い奴がカッコイイという価値観の世界だ。だが主人公の拓海自身、運転技術こそ卓越しているものの、車に関して当初は素人同然の状態から始まる。

 それでも楽しめるのは、この作品の、特に第一部は主人公、拓海の成長譚としての軸がはっきり通っていて、キャラクターの劇で読ませる漫画としての面白さで勝負している作品だからだ。

 ガンダム、ガンダムと喧しく言う理由はそれで、ガンダムファンの中に、宇宙世紀の物理学に長じ、巨大ロボの操縦経験がある人は誰一人いない。それでもこれだけ多くの人に受容されている理由は、その世界観で描かれる少年少女達の人間ドラマが十分見応えあるものだからだ。

 もちろん、本作のメインターゲットはスポーツカーを走らせるドライバーであろうし、しげの先生はこの作品を機に車の運転に興味を持つ若者が増えて欲しいと思って描いているとは思う。

 だがまずは、ライバル達との出逢いを経て主人公が成長していく、少年漫画的な王道の物語だと思って、知らない世界に気後れしていた人も、この名作に触れてみてもらいたい。

 

BATTLE1: vs高橋啓介 FD-3S

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 物語は、仲良く車を転がしてたスピードスターズのホーム秋名へ、群馬制覇を目論む赤城レッドサンズが乗り込んでくることで始まる。率いるのは峠のカリスマ高橋兄弟。ガンダムで言えば、サイド7へ威力偵察を敢行するシャアの部隊。

 レッドサンズの圧倒的な実力を前に、手も足も出ない秋名スピードスターズ。さながらザクに蹂躙される連邦軍。一矢報いたい池谷先輩の奔走により、高橋啓介との決着の場へ主人公、藤原拓海が担ぎ出されることとなる。

 この時の拓海は、父親の英才教育により驚異的な技術を持ちながらも、運転自体への関心は全くと言っていい程持たず、走れば勝てるとは思いながら走りたいという気は一切なかった。いやいや乗りながら圧勝する所も、アムロ譲り。

 直接の言及はないが、後の走り屋達の言動から類推するに、おそらく拓海はこれまで本気で走り合いをしたことがなかったのだ。自分より下手な相手に勝つのは当然。わかりきった結果を前に、全力を出してぶつかる、自分の実力を試す勝負のその意味がわからなかった。

 そんな拓海が走る気になったのが、ヒロインなつきとのデートという餌(笑)。だがこのなつきの存在は大事で、拓海が今何を思っているかという心情の吐露は、作劇上、主にバトルの合間に挟まるなつきとのデートを通じて行われる。

 啓介とのバトル。アニメだとわかりにくいが、この時から拓海は既に走りを少し楽しんでいる。それは、結果は完勝でも、必殺技(笑)“溝落とし”を使う程、啓介とFDの戦闘力が拓海のハチロクに迫ったから。

 その後の「恐怖のダウンヒル 池谷コーナー3コで失神事件」でも、池谷先輩をからかうためわざと接触させてみたりと、持ち前の運転技術に周囲がリアクションしてくれるのを、徐々に誇らしく思えるようになってくる。

 ハチロクが見せてくれた自分の可能性を、拓海は戸惑いつつも受け入れ始めていく。これ以降、拓海の中に、ハチロクで走ることと自分自身の同一化、そして一廉の男としてのプライド、走り屋としての自我が芽生えていくこととなる。

 

BATTLE2: vs中里毅 BNR-32 GT-R

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 とは言え5年もの間、家業の手伝いで運転を続けてきた拓海が、一息にそれをアイデンティティとして受け入れられるわけもなく、車を走らせて粋がる“走り屋のノリ”への反発心から中里の挑戦を拒み、それが親友イツキの窮地を招く。(笑)

 思うに、この時期の拓海は、運転技術を身に付ける文太のスパルタ特訓を貧乏故の労苦であり、忌避してはならないと半ば強迫的に受け入れていた。“逃げちゃダメだ”だ。それが一種のコンプレクスとなり、運転が好きな自分にも蓋をしていたのだろう。

 その本心を見透かす啓介から、拓海は既に走り屋であり、その矜持を持てと発破。最終的には祐一の策略に乗せられるわけだが、“自分のやったことに自惚れられない人なんて嫌いよ”“悔しいけど僕は男なんだな”。こういう流れで、拓海は走り屋としての自分と向き合っていく。

 対する中里の車は劇中最高クラスのパワーマシン、380馬力のGT-R。特にアニメ版は制作陣がお気に入りなのか、バッハのトッカータとフーガで始まる専用テーマ付き。ACT.5で涼介のFCを追いかけてエントリーする所は鬼カッコよく、正直CGが初代PSレベルの残念な描画だが、Final Stageまで含めてマシンの迫力を最も感じるシーンはここだと思う。

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 勝敗の決め手はブレーキング。ハイパワーをABSで強引に止めグリップで回る中里に対し、限界挙動を自在にコントロールする拓海は、機械制御じゃ真似出来ない瞬間的な横スライドでラインを捩じ込み、タイヤのタレた相手の焦りを誘った。性能差をドラテクで凌駕してみせたのだ。

 ただし拓海一人の力で勝ったわけではなく、GT-Rとの対戦を見越した文太が、立ち上がりでアクセルを開けられるバトル仕様にセッティングし直していたのだった。勝ちたいという自分の思いに応え、強敵から勝利をもたらしてくれたハチロクという相棒に、拓海の中で今までにない愛着が生まれてきた瞬間だった。

 

BATTLE3: vs庄司慎吾 EG-6

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 走り屋の自覚と同時に、ハチロクが親父の車という気後れも感じ始める拓海。軽より遅いハチゴーを買ったイツキにも素直に尊敬を抱き、バカにされた時はあれ程バトルを嫌がってた拓海自らハンドルを握って、その連中を抜き去った。

 彼らは、中里がリーダーを張る妙義ナイトキッズ。群馬が舞台の第一部において、走り屋のガラの悪さを担うのがナイトキッズ。ナイトキッズNo.2の慎吾が、拓海の次の相手。そのバトルに至る経緯だが、原作とアニメでは異なっている。

 拓海を引き摺り出すため、スピードスターズの池谷先輩を標的にする煽り運転のプロ(笑)デンジャラス慎吾。コケにされる池谷先輩に、原作は拓海がキレてバトルに突入するが、アニメではハチロクに乗ってなかったので知らんぷりを決め込む。

 1番大きな改変は、アニオリキャラ沙織ちゃん。『ドラゴンボールZ』のマロンちゃんと同じ、イツキの幻の彼女。デート中、またしても慎吾の煽り運転でハチゴーはクラッシュ。イツキを病院送りにされ、今度はアニメ版拓海もキレる。女の子に一生モノのトラウマ植え付ける慎吾のヒールぶり。よくここから主人公陣営入れたな。(笑)

 池谷組の他、慎吾の取り巻きしかいなかった原作と違い、アニメでは高橋兄弟も中里もいる大勢のギャラリーの前でのガムテープデスマッチ。誰か止めろよ(笑)。この衆人環視で相手のクラッシュ誘う煽り運転は、流石デンジャラス慎吾。啓介も中里もスルーした“藤原とうふ店”に初めてツッコミを入れた男、伊達じゃねえ。(笑)

 バトル経過は原作通りだが、ここでEDが変わるため、慎吾の自滅に合わせ前期ED「Rage your dream」が劇中歌で流れエモい感じに。過失運転致死上等のカスのくせに扱い良い(笑)。原作はイツキも池谷の車に同乗し事故った慎吾を助けるが、アニメは入院中なので不在。流石に病院送りにされた相手じゃ手を差し伸べる気にはなれないよな。

 慎吾の汚いやり口で怒り心頭に発し、自分の分身に思い始めていたハチロクをズタズタに傷付けてしまった拓海。フェンダー諸共に凹んだ胸中、車は替えの利く道具ではなく、アイデンティティの一部なのだと痛感した拓海は、また一つ走り屋らしくなっていく。f:id:boss01074:20260727104033j:image

 

BATTLE4: vs高橋涼介 FC-3S

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 啓介が負けて以来リベンジの機会を虎視眈々と狙っていた涼介から、満を持して拓海に挑戦状。涼介戦、アニメでは拓海自身の、母なる秋名の外へ出ていく決心にフォーカスされていて、バトル後の涼介とのやり取りや、アニメ1期の最終回であることも踏まえて、一人前の走り屋となった拓海がまだ見ぬストリートの世界へ走り出すというフェードアウトまでが、綺麗に繋がる構成。

 土屋圭市も(笑)注目する大一番、アニメオリジナルの描写として、なつきが拓海のバトルを観戦しに来る。拓海とは住む世界が違ったというのがなつきの位置付けなので、ママチャリ必死に漕いで秋名山登ってきたら話変わってくるんだが、失恋を描かない最終回演出としてはこれもアリか。おまけに池谷先輩と真子まで復縁匂わせ。怒りの2回転半は何やったんや。(笑)

 レースの迫力も、アニメの見せ方が上手い。2期以降はCGの車をよく見せたいのか、個人的には1期のカメラワークの方がバトルの見応えを感じる。抜かれる5連ヘアピンまで、キンコンをバックに拓海の感じるプレッシャーを原作以上に強調し、追い込みに入ったら、清次戦で使う“溝走り”パート2を先出しして逆転のきっかけとする。涼介の今までにない強敵感が存分に演出されてる。

 文太の技を使ったのが、勝因にも繋がってくる。相手の土俵ドリフトで勝つことに拘った涼介のFCは、終盤タイヤが熱ダレを起こし失速する。いかに天才涼介と言えど、急造のセッティングでは拓海の限界ドリフト走行に付き合いきれず、秋名峠を攻める用に文太が長年熟成させてきたハチロクの足には及ばなかった。言い訳しない涼介、ランバ・ラルより大人。(笑)

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 キングの敗北に静まり返る原作とは対照的、拓海の大金星に秋名勢含めたギャラリーが大沸きに沸くハッピーエンディング。このバトル、拓海自身の未熟さも露呈したが、それ以上に成長を遂げた面もあって、たとえ相手が自分より格上であろうと、闘争心全開に、己を証明するため立ち向かっていく。気持ちの面で、ようやく拓海は一人前の走り屋になったのだ。

 どこにでもいる平凡な高校生に過ぎなかった拓海が、ハチロクという相棒を駆って、大人の世界に自分の価値を示していく。これはまさにアムロとガンダムの関係で、降したライバル達の走り屋の矜持を認め始めた拓海は、秋名のハチロクとして彼らに恥じない走り屋になるため、今度は誰の助けも借りない秋名の外、本物のストリートの戦いへとその身を投じていくのだった。

 

1st LAP: 新たなる伝説

 原作では挑戦を受ける前、拓海の方から対戦相手である涼介のことを意識していて、“僕は、あの人に勝ちたい”ということだろう。それ程の男、高橋涼介の描写から、原作はバトルに入っていく。原作の涼介戦は、拓海よりむしろ白い彗星、高橋涼介のカリスマ性に重きが置かれ、アニメ版とは若干ニュアンスが異なるので、その違いについても触れておきたい。

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 原作のみに登場するのが、涼介の従妹、緒美。この後もう1回くらいしか出番はなく、いなくても成立するキャラだが、昼間の涼介を映す緒美はシャアに兄の顔をさせるセイラ同様、涼介というキャラクターをただの対戦相手から一段高い位置へと据える。“パイロットだけをやっているわけにはいかん”涼介とのバトルは、まだ走り屋の自覚がない拓海にとって、大きな意味合いを持ってくる。

 その意図を探るに、少しシーンを遡る。再調整したハチロクの試運転。秋名の夜景を眼下に、文太の真意を問う祐一。その答え、現役時と同じ、峠の向こうにある景色をただ純粋に追い求める一人の走り屋の文太に祐一は安心するのだが、おそらく涼介の答えも同じ。すなわち、他人の人生を背負い、結果が至上命題のプロとは違う、夜の峠だけが見せる世界に惹かれているのだ。

 何があるでもない、己の意地とプライドのみを賭けた、それ故、時に命懸けにも等しい純度となる、男としての存在証明。であればこそ、その場で価値を示す男達の走りは、何者でもない多くの人々を魅了する。公道キングと称され、プロも一目置く涼介は、ただ速いだけではない、走り屋の憧れそのもの。時代の主役として唯一無二の輝きを放つ特別な存在、それが赤城の白い彗星だ。

 その涼介から指名されたのが拓海。対戦相手すら虜にする技量で強敵を降す走りは、持たざる者達、わかりやすくは親友イツキにとっての希望となる。発揮され始めた拓海のカリスマ性。そして涼介と対等に渡り合うということは、彼と同じ次元へ引き上げられていくということだ。以降、秋名のハチロクは、赤城の白い彗星に代わり新たな伝説の立役者となっていく。

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 所詮これは、名もなきストリートの片隅、表舞台から隠れた、数寄者達のごく限られた世界の話でしかない。それでもここには、夜を駆ける者達を魅了するだけの昂奮があり、新しい時代の到来を予感させる確かな熱気を孕んでいる。その発生源たる特別な存在感を持った一握り、彼らの競演により、一夜が伝説となる瞬間の熱狂を記した作品、それが『頭文字D』なのだ。

 

 

『シラート』感想 砂漠に垂れる蜘蛛の糸

 

 若きスペイン人監督の手掛けた小規模映画ながら、カンヌ4冠の鳴り物入りでシネコンにもかかってた『シラート』見に行ってきた。

 極限まで装飾を剥ぎ取った素朴な映像表現、タイトルに示される宗教性、日本人には馴染みの薄いレイヴカルチャーと敷居の高さを思わせる作りなので構えて見たが、むしろシンプルでわかりやすい、コンセプチュアルな映画だった。『ノマドランド』とか、こういう映画は好み。

 前提知識なんかほとんど必要ない。扱われてるのは生と死、自己の喪失、世界の広大さと現前性という、大体の人が若い頃に一度は考えたことある普遍的なテーマで、俺的には『イージー・ライダー』もこんな感じで見たな。

 この映画が難解、よくわからないという評価を受けるのはもったいないので、監督が明確にメッセージを発してる部分を拾い上げてみたい。

 一応ネタバレ厳禁ということなので、ここから先は映画を見ている前提で。

youtu.be

 

岩壁のシラート

 出だしから、冒頭エピグラフでタイトルの意味を説明してくれる。イスラムの蜘蛛の糸は、剣で舗装されているのか。どうやら過酷な試練が待ち受けてるようだなと、こちらを準備させておいて映画の始まり。

 荒野に積まれた音響機材から響き出すビート。その鼓動を打ち返すような存在感で、長々映し出される岩壁。人の群れが思い思いに身をくねらせるレイヴの幕開け。

 誰でもない人々の中から、クレジットと共に浮かび上がる主要人物達。その最後で、明らかにこの場から浮いている父子。彼らは、レイヴに参加するためこの場に来たのではないらしい。

 父子の目的は、失踪した娘の捜索。周縁を探っていた父子だが、夜になって父親は息子を残し、レイヴの中に分け入っていく。同時に、プロジェクションによって岩壁に映し出される階梯。異質な文化への混入。これが物語を駆動する。

 この映画は、こうした端的な画作りで全編構成されているので、本当にわかりやすい。冒頭部で作品の主要なテーマは既に説明されきってる。

 

混沌と秩序

 翌日、今度は親子共々レイヴを見て回る。ところで人混みにはぐれかける息子と、慌てて呼び寄せる父親。失いかける家族の絆と、それを必死に繋ぎ止めようとすることによって、父親であろうとする。それがこの男のキャラクター性。

 異国の地、右も左もわからない全く異文化の心細さの中、母国語のわかるヨーロッパ人との出逢い。共に犬を連れていて、それが安心感の象徴。父子にとって彼らだけが、この荒野で唯一の拠り所となる。

 会場に軍隊が到着し、レイヴは強制終了。

 ここでわかるのが、混沌の極みのように見えたレイヴは、みなが同じビートに乗っているという点で実は全くの無秩序ではなく、むしろ一つの調和を保っていた。ビートが支配する空間だから、安心して身を委ねていられたのだ。

 軍隊という圧倒的現実が現れ、音を止めてしまえば、そこは本物のカオスになる。

 混沌に見えた調和。そこに厳然たる秩序をぶつけられて、嵐に晒される寄る辺なき人々。これは本作の中で繰り返し用いられる構造で、まだ旅が始まる前からデモンストレーションが始まっているのだ。

 

異なる価値観

 解散したレイヴの退去を迫られる参加者の列から、脱走を図る一部の人々。あのヨーロッパ人達がその先頭を走るのを認めた父子は、彼らについていこうと決心する。

 彼らの改造車と違い、父子が乗るのは一般家庭向けのワゴン車。この車じゃ砂漠を渡れないと諭されても、父子は返す「でも行かなきゃ」と。

 直前、レイヴの場面では、十字架を思わせる柵に向かって身を捩らせる人々が映されていた。それはまるで磔られているようで、娘がいるかもしれない砂漠に執着してしまって、自分の意思ではそこからもう逃れられない、父子が陥っている状況の暗示だった。

 宗教的モチーフはもう1つあって、立ち寄った小屋でメッカの礼拝の映像が流れている。意味深なシーンだが、それを見る彼女の気まずそうな表情は、おそらく元ムスリム。元いたコミュニティの規範や関係性が息苦しくなり、逃げ出してきた、そんな所。囚われの父子とは逆に、自由を求めた逃走の先に砂漠へ辿り着いたのが、このレイヴァーの一団。

 こうした表象を扱っているからと言って、本作がカトリック、あるいはイスラームの教義を説教する映画と見るのは勘違いもいい所。その証拠が、大きな試練を課される登場人物達、彼らの誰も、神の名を呼んで縋ったりしない。おそらく意図的に、拠り所を持たない俗人を描いている。

 重要なのは、父子とレイヴァー、異なる秩序を生きてきた価値観が、境界を越え混じり合うということ。十字架とメッカは、その2つの秩序の象徴。

 

荒野の巡礼車

 軍隊に警護される避難列を抜け出したら、車を走らせる燃料すら調達が困難になる。燃料の買付で父子に借りを作った一団は、この場違いな父子の同行を許可せざるを得ない。

 再び鳴り出したビートをバックに、舗装道路を離れ、荒野に進入していく改造車とワゴンの不釣り合いな隊列。ちぐはぐな車両が1列になって疾駆する様は、同じ鼓動に身を委ねて踊り狂うレイヴァーにも似る。

 先行きの見えない混沌の中、この先に自らの求めるものがあるという、信仰だけを旗印に砂漠を突き進む3台の車。このロードムービーが描く旅そのものなロングショットの情景と共に、満を持したここでタイトルクレジット。

 父子と共にレイヴァーの彼らも混沌へ投げ出された、この瞬間こそが本当の映画の始まりであり、逆にこのアバンタイトルまでで、これから起こることは全て描かれている。こんな親切な映画はない。

 大事なのは、混沌と秩序。その融和により生まれる調和。かつての自分を構成するものが全て破壊され、この世界に投げ出された1個の現象としての自分を見出す時、初めて彼は砂漠に生きる者になる。

 茫漠たる世界の、荒涼たる現実に向き合った時、己が生を祝福に至る旅路として、非業な運命を甘受する境地。それこそが、この映画のテーマなんじゃないだろうか。

 

車…自己の拡張

 ネタバレ厳禁らしいので、タイトルクレジット以降は簡単に済ますけど、まず、宗教的世界観を持たない彼らにとって、自分達の根底を支える秩序の象徴、それが車。

 自前のワゴンじゃ走行不能な川を、彼らの車との紐帯で渡れたのを機に、ルイスの中で一団への信頼感が生まれ始める。

 その晩には彼らの車を訪れ、エステバンに至っては入り浸るようになり、互いの距離は縮まっていく。

 飲食物の分配にも応じ、運命共同体意識が高まってきたタイミングで起きるのが、ワゴン及びエステバンの喪失。

 ルイスはエステバンを車に乗せた。息子を守ってやれると思ったからだ。だが実際は、エステバンごと車はオシャカ。

 彼はここで、子を守る父親としてのアイデンティティ、砂漠にやって来てまで取り戻そうとした自己の根底を失ったのだ。

 茫然自失の彼は、キャンピングカーの方へ移る。ルイスという異物を抱え込んだことで、レイヴァーグループの方も変容を迫られる。

 目の前で起きた悲劇に、沈んだ車内を彼らなりのやり方で取り戻そうと、計画にはなかった寄り道。それが彼ら自身にも死の影を呼び込むこととなり、やがて彼らも車を喪う。

 砂漠だって渡れる彼らの家を失い、覚束ない足許で、想像を絶する苦痛と恐怖に我が身を投げ出した先、辿り着く場所は宿命的に1つとなる。

 同じように何もかもを失った人々と同乗し、先にどんな過酷な運命が待ち構えていようと、そこへ送られていく我が身をどうすることも出来ない、自由とは正反対の決められた道。

 ただそこは、世界の広大さの前ではあまりに矮小な自分と向き合い、それでも歩を進めることを選んだ結果であることには違いない。辿り着いたという事実は、逃れようもなく確かに存在する。

 

死…酩酊を絶つ現実

 この映画における「死」は、無粋な程のジャンプスケアで演出される。好き嫌い分かれる演出で、私自身も得意な方ではないが、本作のジャンプスケアにはきちんと意味があるので、それは説明しておきたい。

 仮初めの調和を破壊する秩序が、この作品のモチーフであることは前述した。ここで言う調和は一体感、秩序は現実のこと。本作の死のシーンは全て、一体感を否定する強烈な“現実感”として現れる。

 エステバンの死は、砂漠の素人であるルイスが、レイヴァー達の助けとなり脱輪を脱した瞬間。それまで距離を置いていた彼らとの一体感の中で起こった。

 ジェイドの死は、ルイスの心の傷を癒そうと彼女が企画した即席レイヴ。音楽との一体感の中。ジェイドの後を追ったトナンは、彼女との繋がりを失わまいと。

 ビギは、試練を乗り越えたルイスと同じになれるという希望に縋り付いて、彼自身の希望を賭けていたキャンピングカーと同じ末路を辿った。

 仮初めの調和とは、彼らが抱えていた緊張感、不安感、悲壮感、それらから気を紛らわせてくれた一種の酩酊で、死という情け容赦ない現実によって、彼らはそこから引き戻される。

 そしてこれは、映画を見ている我々にも同様。生理的な反応によって否応にも現実を意識させる、物語に没入する快楽から強制的に我々を引き剥がすもの、それがジャンプスケアだ。

 つまり、今感じる心地良さが生きてる限りいずれ失われるという、絶対的な真理を突きつけるものがこの映画における死であり、本作のジャンプスケアは、映画を見る我々にも同じショックを味わわせる効果がある。

 

眠り…疑似的な死と新生

 この映画に否定的な印象を抱く人々には、劇中における死の扱い、なかんずく、罪を犯した者への罰のような考え方をするなら、本作の悪趣味さを耐え難いと感じるかもしれない。

 だが、それは誤りだ。なんとなれば、劇中で最初に死を迎えるエステバン。彼は最も無垢に近い存在であって、そんな彼が罪深き身の故に死を賜ったとは、到底思えない。

 エステバンの死のシーンをよく見てみると、その直前、眠りからの覚醒で始まっているのがわかる。この眠りというのが重要で、現実から遊離し、いかなる拠り所もない、無秩序な夢の世界へ身を投げ出した状態。死の疑似体験とも呼べるものではないだろうか。少なくともこの映画では、そういう意図で置かれてるように思う。

 死≒眠りと見た時に、眠りからの覚醒は、自己を構成する全てを失って、ただあるがままに現前の世界へと向き合う、新たな自己への生まれ直しを意味する。

 新たな自己の前に、そこに至らなかった死をもう1度見てみたい。トナンは、ジェイドの死を抱えることに拒み、自ら死を選んだ。ビギは死を怖れるあまり、逆に不安に押し潰されてしまった。彼らの死は、生きることの重みに耐えられなかった結果であり、ある意味では死によって解放されたとも言える。

 そこでこの物語の中心人物、ルイスの場合はどうか。エステバンを喪った彼は悲しみに暮れ、茫然自失となり砂漠へ彷徨い出る。この時彼は、死んでも構わない、むしろ息子の元へ連れて行ってくれと思っていたはずだ。やがて彼は砂嵐の中で力尽きる。が、ジェイド達に助けられ、差し出された水を一口、もう一口と飲む。息子を喪った世界で、彼は生きることを選んだ。

 次の覚醒は、キャンピングカーの中。この後、問題の追悼レイヴになるが、これ以降ルイスは明らかに雰囲気が変わる。レイヴァー達の流儀を受け容れたように、絶望的な状況を虚心坦懐に受け止め、ただ淡々と前に進み続ける。

 この砂漠での放浪が、ルイスにとって疑似的な死の体験になったのではないだろうか。そこで新生を遂げた彼は、もはや逃げることも抗うこともせず、目の前の運命をただ甘受する。

 その象徴が、ルイスが見た夢と思しきインサートで、この謎の映像は映画のラストシーンに繋がる。いかに過酷な試練でも、目の前にある以上いつかは越えねばならないし、それが既に終わったことであればどうすることも出来ない。この予知夢のシーンは、そんな諦観にも似た境地に至ったルイスを表すのではないだろうか。

 

運命との融和

 覚醒したルイスは地雷原を平然と歩いていき、あたかも預言者のように迷える子羊2人を導いていく。しかし、これは何か、彼が神に選ばれた特別な存在になったとか、地雷を回避する奇跡的な力を手にしたとか、そういうことではない。

 ルイスは、決して地雷を踏まない確信があって進んだわけではないのだ。その証拠に、轍がある時は彼はその上を進んでいる。信仰に溺れることなく、目に見える道理には素直に従っている。

 その上で、生死を分かつ決断に迫られた時、地雷を踏んで死ぬ、踏まずに生き延びる、そのいずれも彼にとってはただの結果でしかないのだ。死を望んでいるわけでもない、かと言って死に臆して足を止めることもない。己の小ささを知り、降りかかる運命をただ粛々と受け入れる。それこそが、真に荒野を生きる者の心構えであり、彼がこの映画で至った境地だろう。

 無秩序な世界と完全に調和した存在者となったルイスがいる一方で、本論の前半で調和に関し、異なる秩序間の混交と融和であると述べたことを思い出して欲しい。すなわち、これから言おうとしているのは、ルイスに導かれて地雷原を渡った、ステフとジョシュ、彼らの体現する調和だ。

 この映画が真に描こうとしているのは、こちらではないかと思われる。というのは本作のクライマックスであるこのシーン、それまでのビートの効いたダンスミュージックではなく、アンビエントな劇伴が使われている。これは覚醒したルイスを表しているとも取れるが、どちらかと言えば理外の彼を目撃した2人の呆気を表してるように思う。

 抑圧的な社会から逃げてきた彼らは、死地に踏み込んで生を掴み取ったルイスを理解することが出来ない。それでもいつまで砂漠に立ち竦んではいられず、恐る恐る、ルイスがいる方へ足を伸ばす他ない。

 信じられない世界、いつ牙を剥くか知れない現実、それでもその混沌へとじわりじわり身を浸していく姿。ここで彼らは、不確かな己の全存在と無秩序な世界との調和を見せたと言えないだろうか。

 映画のラスト。何も説明はないが、おそらくルイスはもう一度砂漠へ帰ってくる。エステバンを埋葬するため。劇中でも口にするように、今の彼の最大の生きる目的は息子の埋葬だ。それが終われば、また娘の捜索を、彼女の生死に拘らず再開するだろうと、私は思う。

 一方、ステフとジョシュの2人。砂漠で全てを喪い、レイヴに深いトラウマを刻んだ彼らは、二度と砂漠へ来ることはないかもしれない。だが彼らは、快い混沌から目覚め、無秩序な世界の中で生きることを受け入れた。これから元いた社会秩序に戻ったとしても、それは決して砂漠から逃げ出したということではないはずだ。

 荒野を自らの居場所と定めた者と、目的のために荒野を渡る者。映画の冒頭とは立場が逆になった両者。互いの価値観が、この旅を経て統合されることはなかった。だが砂漠を抜けるため、この何処へ行くと知れぬ輸送列車に乗り合わせている間は、他の避難民達と同様、無秩序で無慈悲な娑婆の世界を生きる道連れなのだ。決して希望に満ちているわけでも、経験した艱難辛苦が報われるわけでもないこの映画のラストシーン。しかしそれは、現実の荒涼さと待ち受ける非業な運命に曝されながらも進み続ける人間の姿であり、茫漠たる世界の中の不確かな我が絶望しないで生きる術である。

 

 

俺の編成したウイイレ2008のG8を紹介するぜ!

 

 前回の記事(https://boss01074.hatenablog.com/entry/2026/03/25/213257)で、俺がウイイレ2008をプレイし続けてることを書いたけど、それは試合じゃなくエディットをやり続けてるって話で、本当は編成画面を見て欲しかった。

 ということで、今回は俺が極めた最高のチーム達を紹介したい。

 顔触れは、日本、ポルトガル、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、フランス、イングランド、スペインの8ヶ国。

 クラブチームじゃなくナショナルチームなのは、その方がメンバー選出の自由度が高いから。招集する23人も含めて俺が厳選してる。

 ただデフォルトの設定だと、大抵が4-4-2からのサイド突破でクロス放り込む。俺がやる試合時間5分、難易度スーパースターの場合、強さだけで言ったら2008最強の国はナイジェリア。ナショナルチーム全制覇した俺が保証する。

 でもそれじゃ面白くない。

 各国の個性が発揮されるようなシステムを考え、それが試合で実現出来た時の、えも言われぬ興奮。それがあるから、20年も飽きずにやり続けられてる。

 そのために俺が手を加えたのが、メンバー選出、フォーメーション、チーム戦術、選手のポジション適性。ステータスは流石に弄ってないので、代表でのコンバートは許容範囲にしてもらいたい。

 それじゃあ早速、俺がどういう風にこれらのチームをエディットしたか紹介していきたい。まずは、日本代表から。

 

日本f:id:boss01074:20260428024115j:image

 日本代表と言えば4-2-3-1だけど、2008るあるで4バックだと真ん中を抜かれる。よって、守備を重視したいチームならリベロの位置にDFを置く必要があり、CBの1枚はボランチの間でボールを回収するフォアリベロ。

 問題は攻撃。ナイジェリア最強の時点で分かる通り、2008はフィジカルゲーで、ことボックス内はボディバランスが低いと話にならないんだが、日本代表のFW陣は残念ながらワールドクラスのDFと競り合ってまともにプレー出来るフィジカルを持ってない。

 なので思い切ってボックス内のポジションは捨て、FWはサイドに開かせ幅を取る。奪ったボールをスペースのある位置で収めさせ、SHとの連携で敵陣に侵入。イメージとしては、2010W杯の岡田JAPANで本田圭佑を中盤まで降りて来させた感じ。

 SH、CHで中盤のスペースが潰せるので、SBは裏抜けへの対応が楽になり、カウンター時に無理して上がる必要もない。

 連携で攻める意図なので、2トップはWGではなくシャドー。その方が陣形もコンパクトになる。FWの適性もCF→シャドーにしたが、みなパワーより素早さで勝負するタイプなので、そこまで無茶なコンバートではなかったと思う。

 メンバーも多少変えたが、日本はそもそも選手の収録人数が少ないので、あまりデフォルトと変わってないはず。試合時間が短いと個の能力差がそこまで出ないらしくて、世界の強豪達に勝つこともしばしばある自慢の日本代表。

 

ポルトガル

 前回の記事で軽く触れたが、WGに強みを持つポルトガルは現代型4-3-3のイメージ。CHのクオリティも高いので、速攻、遅行どちらでも行ける。

 最終ラインは日本の形と近いが、自陣のスペースを埋め密集地に誘い込む日本の守備と違い、WGを採用する都合上、陣形が間延びするのを防ぐハイラインで、中盤を一気に囲い込むゲーゲンプレス。これも現代的なスタイルを指向。

 まあ見ようによっちゃ、4-1-4-1のポルトガルらしいスタイルの発展形と言えなくもない。伝統と革新の融合。

 それを表すのがこの代表メンバー。ルイ・コスタ、フィーゴという往年のレジェンド10番に、クリスティアーノ・ロナウド、リカルド・クアレスマという新世代の7番。その間を繋ぐデコ、リカルド・カルバーリョ。2008だから実現可能な組み合わせ。

 フィーゴはWG登録なんだが、足の遅いWGに存在価値はないので中のハーフポジションへコンバート。ロナウドは未来を先取りしてCF適性もありに。デコはユーティリティプレイヤーにしてレジェンドを支えるアンカーをしてもらった。

 収録人数自体は日本より多いが、選手のユーティリティが低いので、選考は難航(逆に言うと日本はポリバレントな選手が多い)。それでも適性変更を駆使して、なんとか理想のチームを組み上げることが出来た。

 

ブラジルf:id:boss01074:20260719005115j:image

 こちらも前回触れたブラジル。ペレ時代の黄金期4-2-4のイメージで、個人技に長け、スピードも兼ね備えるサイドアタッカーからドリブルを仕掛けていくのが、ブラジルの攻め。

 そのサイドだけど、2008にはウイングストライカーという概念がなく、ロナウジーニョやアドリアーノなんかに中に入っていくプレーを期待したいなら、ここはWGではなくシャドー。

 4トップのポイントは、幅と深さをシャドーに取らせ、CFをその中で浮かせる構成。中盤が薄く、陣形が間延びしやすい4-2-4の弱点をケアするにも、WGよりシャドーの方が都合がいい。

 DFラインがRWBで疑似4バックになってる。4バック全盛の2008ではSBの選手にWB適性がないことが多いんだけど、そのくせタイプ的には攻撃的SBで守備苦手なのよ。だったらWBやろがい。

 守備苦手な選手のSB適性を外していったら、カフーやダニエウ・アウベスがWBになって、RSB出来る選手がいなくなってしまった。まあこのアシンメトリーな形は南米式らしいので、良しとする。

 元祖ロナウドも控える豪華なFW陣に目が行くけど、本当にエグいのは前線にパスを供給するジュニーニョ。後衛をサポートする連携の高さ、それ以上に最高値99を誇るFK精度でパスもシュートも狙える万能キッカー。ジュニーニョがいるといないとじゃ、セットプレーの得点率が全然違う。

 

アルゼンチンf:id:boss01074:20260502055205j:image

 アルゼンチンは、クレスポ、ベロン、サネッティらの生き残りがいるので、ビエルサ式の3-3-3-1を採用。ただここも、サイドをアシンメトリーにして、個の活きやすい形に変化を加えてある。

 ブラジルとの対比で守備重視。陣形もだけど、アジャラ、サムエル、ガブリエル・ミリートという、対人守備に絶対の自信があるDFを活かさない手はなく、最終ラインは彼らを3枚を揃えた3バック。

 パワーのベロン、運動量のサネッティ、カンビアッソのカバーリングという中盤の構成。特に、中央で絶大な安定感を発揮する、トップ下ベロンの守備能力が圧巻で、ビエルサが彼を重宝した理由がわかる。

 とは言え、ビエルサ体制では招集外だったリケルメもメンバー入りしてるのは、FK精度の高さゆえ。ジュニーニョ同様、やっぱキッカーいるなしは勝敗に大きく関わってくる。

 クレスポ、クルスのCFがポストプレイヤータイプな分、攻撃を牽引するのはメッシー、サビオラのドリブル突破力。低身長で体格も似たアジリティ99、97コンビがすっかりアルゼンチンのカラーを形作ってる。

 でも、得点に絡むシーンが1番多いのはアイマールなんよね。ストライカーでもないアイマールが、来たチャンスを確実に決める要注意選手。逆にディエゴ・ミリートは、難しいシュートを決めるスペック持ってるくせに、簡単なシュートに限って外しがち。こればっかりは謎。

 

イタリアf:id:boss01074:20260502055242j:image

 8ヶ国中、攻守のタレントを最も多く揃えているのがイタリア代表。チーム戦力のレーダーがエグいことなってる。世界最高峰のリーグがセリエAだった時代、最後の輝き。

 守備は3バックにアンカーを加えた4人で中央をガッチリ守り、LSHとRWGで左右のスペースを埋める。3列目の司令塔に、前線を構成するトップ下、シャドー、CFの組み合わせは、グランデ・インテルを前掛かりにしたイメージ。

 まあ実際は“トップ下”を“低いトップ”にしているため、似た形のアルゼンチンより陣形は縦に伸びるが、堅守速攻のフィロソフィーを突き詰めた、よりイタリアらしいスタイルと言えよう。

 そしてそれは、1対1の強さを存分に活かす形。COM操作じゃマンマークにはなんないけど、マルディーニ、ネスタ、カンナバーロ、ガットゥーゾが構えるゴール前は、実質的なカテナチオ。

 司令塔のピルロ、トップ下のトッティ、ターゲットのトーニ、いずれのポジションも世界一のタレント。そこに加わるのが左シャドーのデル・ピエーロ。左右非対称なのはこのためで、2006W杯制したメンバーより攻撃力は上。

 でも実際やってみると、いつも点決めるのはジラルディーノなのよね。ジラルディーノが出てる時は勝率跳ね上がる。アイマールと同じで謎なんだけど、こういうスペックだけではわからない結果が見れるのは、これはこれで面白い。

 

フランスf:id:boss01074:20260502055317j:image

 特にこれと言ったイメージのないフランス代表。だが調べてみると、アンリ、ピレス、ヴィエラとインヴィンシブル・アーセナルの主力が揃ってる。なので、そのままシステムを採用した左サイドアタック。

 疑似4バックにし、マケレレ、ヴィエラ、ドラソーの中盤構成。個人的に、当たり負けしない選手じゃないとDHと認めたくない。なので、スピードタイプのマケレレはWB登録にし、サイドを守らせてある。

 その分、中盤の要となるのがヴィエラ。ボディバランスを活かして攻守両面に存在感を発揮するヴィエラが中盤を制しているおかげで、特にDFで、テュラムのボール回収が随分楽になる。

 2008のフランスともなれば、スプリント力で勝負するアフリカ系の選手がだいぶ揃っていて、その筆頭がアンリ。中央よりWGで出たがるアンリを活かすため、左サイドアタックでラインブレイクをする陣形。

 とは言え、シャンパンサッカーへの憧れも捨て難く、ピレス、ジュリー、マルブランクらがFWで入れば、パス交換の形も見せられる。シャンパンサッカーならCFは不要だが、中央で圧倒的な存在感を放つトレゼゲのポジションは残した。

 一方、スペック的には得点を量産してなきゃいけないアンリは、ラストパスの精度やシュートの決定力がなんか異常に低いんよな。これバグだろ絶対。ただキッカーが少ないフランスなので、貴重な戦力であることには変わりない。

 

イングランド

 イングランドと言えば、伝統の4-4-2。ルーニー、スコールズ、ファーディナンドというマンチェスターユナイテッド黄金期を築いた3人の他、全ポジションスター選手揃いの夢とロマンの詰まったイングランド。しかし、実績からもわかる通り、ウイイレでも勝てないのよね。なので、だいぶ前掛かり。どのポジションも個のクオリティは抜群だし。

 まずはDFライン。ファーディナンド、テリーと、キャンベルを控えに回せるCBコンビの質はイタリアにも負けてない。その両脇だが、運動量の多いこのポジションをCHにした。イングランドはタフなCHが揃っていて選手層が厚い上、SBやWBでは上がり過ぎてしまうのだ。

 サイド後方をCHにしたことで、ここでベッカムを起用出来る。CPUにはアーリークロスの概念がないので、このポジションで使うのが1番ベッカムっぽい。レアルのクロースのイメージ。イングランドはキッカーの層の厚さも世界一だけど、1番のキッカーはやっぱベッカム。

 後ろとの兼ね合いで、両サイドはWG。左利きのアタッカーがいないので、左サイドはアジリティの高いジョー・コール。スペック的にC.ロナウドと同等以上のJ.コールを使わない手はない。右はクロスが上げられ、比較的スピードもあるスコールズ。

 守備能力が低くDHが出来ないランパードは、OFセンスが高いのでFW適性を付けた。ランパードとルーニーでDFに当たり負けしないボールを収められる2トップ。俺はこの形が理想なんだけど、COM決定のスタメンだとアンディ・コールとオーウェンなのよね。まあ普通はそうか。

 ランパードにFW適性与えたのは、実はアジリティ無さ過ぎでボールロストめちゃめちゃ多いから、リスク管理もあるのよね。幅も深さも取る積極的な陣形で、中央に厚い後方は全員ミドルも打てる、イングランド本来の圧倒的なポテンシャルが発揮出来たと思う。

 

スペインf:id:boss01074:20260719005304j:image

 ポゼッションサッカーでEUROを席巻した、無敵艦隊こと2008スペイン代表。デフォルトメンバーでもポテンシャルは十分なんだけど、そこはウイイレなので共存し得ない選手達を組み込んでドリームチームを結成。3大リーグの一角に相応しく、イングランド、イタリアとタメを張れるタレント軍団を揃えた。

 システムは4-3-3と見せかけて、現代のポジショナルプレーを再現する2-3-5のゼロトップでプレセットし、よりスペインらしさを強調した。実際ボックス内で勝負出来るストライカーはフェルナンド・トーレスくらいなので、F.トーレスが先発出来ない時も考えたら、シャドーとWGで幅と深さを取った方が、ポゼッション的にも安定する。

 現実でも見る、2CB残しの守備隊形。4バックだと、スタメン自動決定で守備の要プジョルがSBに配されてしまう問題があって、その解決策で2バックが決定した。CHの幅感を調整して、3列目を5枚で守る形が取れたと思う。個人的にプジョルの相棒はカバーリングタイプが良いんだけど、COMスタメンだとDFセンス低くてもセルヒオ・ラモスの起用が多め。やはり時代はモバイルCBか。

 中盤はシャビ、イニエスタのイメージが強かったからアジリティ頼みになるかと思ったら、意外にもシャビ・アロンソ、セルヒオ、ルーベン・バラハとDHタイプが3人も揃ってる。スペインは基本寄せられたら終わるクソ雑魚デュエル。特にシャビ、ラウールのボールロストは見飽きた程だけど、この3人は空中戦も強い上、中央でボールを保持出来るスペインの生命線。

 ポゼッションサッカーに敵陣を押し下げるWGの突破力は必須なわけだが、スペインには世界最高峰の左右WGビセンテ、ホアキンがいるんだから、2人を招集しない選択肢はないやろう。まあ仮スタメンは連係重視にしてあるけど、控えでもこのカードが切れるの強過ぎ。ボディバランスの低いスペインは、いかに大外レーンから攻略していくかが鍵。

 2シャドー、得点力だけで言ったらビジャ、トーレス。でもレアルのレジェンド、グティ、ラウールコンビの方がポジショナルプレーとの相性は抜群で、そこにポリバレントなルイス・ガルシア、ムニティスと、組み合わせ自由自在な層の厚さ。変幻自在な魅せるスタイルと、タレントが躍動する攻撃的なサッカーの両立。これこそ、俺がこのゲームでやりたかったこと。

 

まとめ

 というわけで、俺の編成した最強G8の紹介でした。

 どのチームも愛着があって、彼等が戦い、期待したプレーが見事にハマった時、あるいはこちらの想像を超えるプレーを見せた時はこの上ない興奮で、俺はこれを永遠に見てられる。

 まあゲームの楽しみ方は1つじゃない。色んな楽しみ方があるということで、みなさんも自分なりの楽しみ方を見つけてみてはどうでしょうか。

 

『トライガン』雑感

 『トライガン』『トライガン・マキシマム』読了。

 一言でまとめるなら、90年代SF世界を生きるガンマンの物語。

 令和アニメとの1番の違いは、ヴァッシュが初めからテスラの生体解剖を知ってて、それがキャラクターの核になってる点。

 ヴァッシュ自身には、親愛なる隣人というより審判者の意識があって、読んでて、実は種としての人類を信じてはないんじゃないかとさえ俺には見えた。

 ここが読んでよかった所で、ナイブズを止めたい、人類を守るっていうはっきりした目的があるなら、もっとやりようあるやろっていうのがずっとモヤモヤしてて、本気で勝ちたいと思ってないんじゃないかって見えてた。

 けど、ヴァッシュの戦う理由が、成果じゃなく、内的な部分にあるというので、しっくりきた所がある。

 ヴァッシュにとって、不殺のガンマンを貫くことそれ自体が戦い。

 本音は人類を鏖にしてやりたい。その憎悪に勝ち続けるという誓いの実践。それが彼の人生だった。

 そこに試練として用意されるGUNG-HO-GUNSは、不殺を掲げながら銃を取る代償、あるいはガンマンという生き方でその身に負った罪業。

 ガンマンというのはアウトローで、後ろ暗い過去を背負ってるというのが、特にマカロニ・ウェスタン以降の西部劇の建付け。ヴァッシュにとっては「ロスト・ジュライ」と「フィフス・ムーン」がそれ。

 ヴァッシュの戦いは、ナイブズに向けた銃口の覚悟を問われ続ける戦い。斬り落とされた左腕と、手錠に繋がれた右腕っていう画が象徴的。

 まあでも、『マキシマム』以降のGUNG-HO-GUNSは、どちらかと言うとウルフウッドの試練。

 ウルフウッド、主人公の相棒ポジションでもあるけど、ヴァッシュが人の上位に立つ不変のキャラクターなので、暴力の咎と向き合い、弱さを乗り越え変わっていく人間性の役目を負ったウルフウッドの方が、中盤の物語を引っ張る主人公やってる、実質W主人公。

 だからその死が重要なのは、150年の間にヴァッシュの横を通り抜けて逝った人々、ヴァッシュの150年分の痛みと悼みの象徴を、ウルフウッド1人で表してるってことなのよね。

 人と同じ時を生きられないヴァッシュは、本質的に人と繋がることは出来ない。

 命を繋ぎ止めるのは、寧ろメリルやリヴィオ人間達の役割。

 これが、ヴァッシュが人の中で生きる令和アニメとの決定的な違い。

 原作ヴァッシュには決してウルフウッドを救うことは出来ず、それでもその魂をリヴィオが受け継ぐことに意味がある。レガートを殺して折れたヴァッシュを、メリルが再起させる。

 他方、令和アニメのヴァッシュは純粋に人間が好きで、人として生きられた、本質的な孤独を乗り越えたキャラクター。ラストシーンも対照的で、これはこれで意味のある話。

 かつて人間に抱いた絶望を、否定したくて意地を張り通した先、徒労に終わり続けた150年越しの、憎悪に対する初勝利。それがこの作品のクライマックス。

 まあ正直、漫画が読みづらく、万人にオススメするかって言うと微妙。俺も理解出来てない所あるかもなんだけど、醜い地上に遣わされた歪な天使のキャラクター造形は、俺の神話の1ページになるくらいには印象に残った。

ウイイレで1番楽しいのはエディット

 

 冬季五輪もWBCも終わり、W杯が近づいてくるとサッカーゲームをやりたくなってくる。

 けど、普通にプレイするのは面白くない。だって勝てないから。

 サッカーゲームめちゃくちゃ好きなのに、めちゃくちゃ下手な俺がどうやってゲームを楽しんでるか。

 サッカーゲームにはeFootballとFIFAの2大タイトルがあるわけだが、記事タイトルからわかるように俺がプレイしてるのはウイイレ。eFootballじゃない。

 それもPSPのソフト『ワールドサッカーウイニングイレブン ユビキタスエヴォリューション2008』。

 

ワールドサッカーウイニングイレブン ユビキタスエヴォリューション 2008 - PSP

ワールドサッカーウイニングイレブン ユビキタスエヴォリューション 2008 - PSP

  • コナミデジタルエンタテインメント(Konami Digital Entertainment)
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 なぜこんな20年近く前のナンバリングをやってるのかと言うと、ちょうど学生時代に出てて友人とやりまくった思い出深いタイトルなのよね。

 しかもその友人が強くて、俺はいつもボコボコにされる。で勝てない俺がどうしたかと言うと、少しても条件を良くしようとチーム編成をひたすら凝った。

 その内に試合をプレイするよりチームをエディットしてる方が楽しくなってきて、俺の編成したチーム同士をCOM操作で戦わせて観戦する。それが俺のウイイレのプレイスタイルになった。

 友人は最新作やれば良いじゃんて言うけど、愛着がないから全然その気になれないんよな。それに最新作が1番面白いとは限らないのもウイイレ。

 旧式AI同士の対戦を見て俺は最高に盛り上がるので、伝わるかはわからないがこれから“ぼくのつくったさいきょうのマッチ”の模様を少しお見せしたい。気が向いたらシリーズ化するかも。

 

 デモンストレーションに選んだのはポルトガルvsブラジル。理由は本作のプレイデモがこの組み合わせだったから。

 スタメンはブラジルが

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 陣形はわかりにくいがブラジル黄金期の4-2-4をイメージ。

 しかし見てよこのFW豪華メンツ。この頃はまだ華のあるタイプの選手が第一線にいるのが俺が2008を愛好する理由でもある。ロナウドやリバウドも俺が呼び戻した。

 対してポルトガルが

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 こちらは現代型4-3-3のつもり。フィーゴ、コスタをこちらも招集。デコがサイドバックやってるけど、スペック的には出来るはず。なので適性を付与してある。偽サイドバック。

 ポルトガルの布陣はポジショナルプレーで相手を押し込んで行く狙い。

 逆にFWにタレントの揃うブラジルはカウンターの破壊力が抜群。

 お互い中盤のチャンスメイカーはワールドクラスのクオリティなので、ここからのキラーパスは要注意。

 守備が薄い気がするのは、そっちの方が面白いので許して欲しい。

 スタメンは自動決定にしてあるので運次第だったが、新旧ロナウド対決実現したぞ。

 

 前半ポルトガルのキックオフでゲーム開始。

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 ボールを受け取ったレジスタ役のルイ・コスタ→フィーゴと右利きの中盤を経由して左サイドのクリスティアーノ・ロナウドへ展開するのがポルトガルの組み立て。

 が、そこをロナウジーニョが強襲。強烈なタックルでボールを奪うと、アウトサイドとは思えない程の鋭いボールで1トップのロナウドへ。ウイイレのロナウジーニョはプレスバックも全力。バロンドールの先輩からのキツい洗礼。

 前線でいち早く反応しボールを拾ったロナウド→カカ→ロナウド→リバウドのパス交換でポルトガルDFは翻弄され、最後はフリーになったカカの前方へスルーパス。

 惜しくもシュートコースは防がれたが、地力に勝るブラジルが早くも決定機を演出。('5)

 再開後のクロスは一旦クリアするも、ボールは収まらず中盤での潰し合い。形が乱れ絞ってきたダニエウ・アウベスがボールを拾うと、マークを引き付けた上でロナウジーニョの前方、広大なスペースへ向けてのロングパス。

 自陣から駆け抜けたロナウジーニョが一気にペナ角まで進入し、そのままシュート。('24)

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 GKが押さえて失点こそなかったものの、立ち上がりからペースを掴めないまま2度もフリーでのシュートを許したポルトガルDFは、軽い恐慌状態で最終ラインがミスを連発。ゴール前で混戦のバタバタした時間帯が続く。

 何本かシュートを打たれながらも、なんとか無失点で切り抜けたポルトガル。ウイングを使った攻めの形がようやく見られ始めたが、決定機を作るには至らず。前半はポルトガルシュート0本で終了。

 

 後半キックオフ。ブラジルは司令塔ジュニーニョからトップ下のカカへ付けるのが基本の組み立て。

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 今度はポルトガルが先にチャンスメイク。中盤まで落ちてきたヌーノ・ゴメスのポストプレーから始まった攻撃。

 サイドでボールを受け取ったリカルド・クアレスマは、縦の突破ではなく中でキープして味方が上がる時間を作り、中央の空いたスペース走り込んだルイ・コスタ。今度は前線で待っていたヌーノ・ゴメス→ルイ・コスタ→ヌーノ・ゴメス。

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 突破したかに見えたのは残念ながらオフサイド。だが、この試合初めてバイタルまで迫ったポルトガル。後半はいい勝負になりそう。

 と思ったらすぐに均衡は破れた。突破を仕掛けるマニシェにマクスウェルがファウル。マニシェがそのまま蹴ったフリーキックはMFとDFの間に落ちる絶妙なボールで、それを横から掻っ攫ったクリスティアーノ・ロナウドがDFの背後へ抜け出しシュート。ジュリオ・セーザルにブロックされるも、溢れ球に反応したヌーノ・ゴメスが押し込みゴール。

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 '60、前半あれだけ苦労したポルトガルまさかの先制。

 

 追いかける展開になったブラジル。だが個々のクオリティは侮れず、ジュニーニョからのロングパスは、1本でDFの背後を衝き、左サイドのリバウドへ。

 '71、今度は下がって受けたカカが、似たような位置から先程のリプレイのようなロングパスで、リバウドがクロスを上げる局面まで持ち込む。

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 '73、スタミナのないロナウド→スピードスターリエジソンに代わり、ここから攻撃のギアを上げたブラジルの猛攻。

 敵陣に押し込む中から、クリアボールをリカルド・クアレスマ、ルイ・コスタと競ったマクスウェルが奪ってそのまま持ち上がり、DFを引き付けた上でスルーパス。完全フリーのリバウドは強烈なシュート。('81)

 GKが弾いて続くコーナーキック。ジウベルト・シウバに向かうボールはコステーニャがカットするも、溢れたのはちょうどリバウドの前。振り抜いたシュートコースにまたしてもコスティーニャで、弾いたボールに超反応リエジソンのダイビングヘッドは角度がなく。

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 コスティーニャの幸運で切り抜けるが、得点の気配は濃厚。ただ残り時間は5分。ブラジルは正念場。ポルトガルは凌ぎ切れるか。

 リカルドのゴールキックは大きく蹴り出したが、この判断が命取りに。

 デコと競り合ったジュニーニョは体勢を崩したが、溢れ球を回収したダニエウ・アウベスからのリターンには即座に反応し、体を翻すと同時に前方フリーのロナウジーニョへ。

 直進のドリブルでポケットへ進入する図は、奇しくもこの試合ファーストシュートの再現。そのままノールックで放ったシュートは、GKとニアポストの僅かな隙間をすり抜け、ゴールネットに吸い込まれる。

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 '89、ホイッスル目前のタイミングでブラジルが同点。W杯最多優勝国の誇りを見せつけた。

 

 その後一応延長戦もやったけど、試合は動かなかったので割愛。

 結果は1-1のドロー。スタッツと採点表。

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 この試合振り返ると、中盤の競り合いにおける勝敗が主導権を左右していた印象で、特にパサーのジュニーニョが体を張った所から生まれたのが同点弾のアシスト。MOMも納得。

 出来ればパッケージ担ってるクリスティアーノ・ロナウドのポルトガルに勝ってもらいたかったけど、互いにゴールを挙げ見せ場を作った上での引き分けなので、良し。

 どっちが勝っても満足出来るのがCOMvsCOMのメリットだから。(笑)

 

 という風に、俺はサッカーゲームを自分なりのやり方で楽しんでる。

 面白いのは、ミスを連発するポルトガルDF動揺してるなとか、猛攻を仕掛け追いついたブラジルに王者の意地を感じたりとか、感情移入して見られることなんだよな。AIなのに。

 知人をボコして喧嘩になる以外の、ウイイレを観戦する楽しみ方を、俺は推奨していきたい。

 

 

薔薇と王子様の物語 『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』感想記事

 

 去年一年ブログの更新がなかったのは、この2025年ネット流行語大賞の感想をまとめようとして躓いたからなわけなんですが、そのまま年を越してしまった。

 色々と語られる問題作ではあるものの、自分がアニメを見るスタンスとしては文芸的にどう評するのかという視点が重要で、その方面からしっくりくる言説にしたかったけど、上手くいかず。

 放送終了以来モヤモヤを抱えながらネットの感想を漁ってる時に目にしたのが、マチュの帽子の象のマークは『星の王子さま』に出てくるウワバミの絵では?という指摘。

 なるほど!脚本榎戸洋司の出世作『少女革命ウテナ』は寺山修司の戯曲『星の王子さま』の翻案とされてるし、原典のフワフワした語り口は『GQuuuuuuX』の捉え所の無さと通ずるかも。

 と思って、ちゃんと読んだことなかったサン・テグジュペリ作『星の王子さま』も買って読んだ結果、マチュの成長譚としての『GQuuuuuuX』という物語がなんとなく掴めた。

 ような気がしたけど、 言語化しようとするとやっぱり上手くまとまらない。やはり自分にとって『GQuuuuuuX』というアニメは、落とし込むことが難しい作品だったらしい。

 だが、わからなかったなりに、自分なりにこのアニメから受け取った物語、その概略をここに書き綴っていこうと思う。それをもって、このアニメへのけじめとしたい。

 取るに足りぬ駄文となるやもしれぬが、『GQuuuuuuX』の文芸面ってどう解釈したらいいの?とモヤモヤしてる人がいれば、何かの参考になればいい。私からの手向けだ。

 

『星の王子さま』の物語

 まず、『星の王子さま』について。この名作の文学としての味わいは到底一言で語り尽くせるものではないが、中心テーマを抜き出すとしたら、

 “この広い宇宙のどこかには、自分が失ってしまったピュアハートの持ち主がきっといる。その存在を信じられる限り、この世界には生きる価値がある。”

 といったところだろう。

 つまり、大人はみな他者を自分の物差しで測ろうとするが、子供の頃は誰だってありのままに世界を受け入れていたはずで。人がそう生まれついてるという信仰が、世界の善性の始まり。

 “ぼく”は、花への純粋な愛を貫いた王子さまに二度と会うことは出来ない。それでも“ぼく”は2人が睦まじく暮らす星を信じてるし、それが拠り所となり今の“ぼく”を生かしている。

 この登場人物を『GQuuuuuuX』に置き換えるなら、“ぼく”がマチュ、王子さまがシュウジで、花がシャロンの薔薇(シャアを諦め、シュウジを受け入れたララァ)。

 他者を受け入れない大人がキシリアで、マチュの鏡像ニャアンはその予備軍だったが、地球のララァを知ったマチュはその葛藤を乗り越え、虚無主義者シャリア・ブルの目を覚ます。

 こう見ると、『星の王子さま』と『GQuuuuuuX』の相関がそれなりに説得力あるという説も納得出来ると思う。以下、マチュが遂げる成長の観点から、ストーリーを見ていく。

 

マチュの失恋

 本作のメインストーリーが、マチュが失恋を受け入れる、というのは初見の俺でも理解出来た。ただその失恋の形がだいぶトリッキーなので、ここは整理が必要と思う。

 ストーリー前半の(というより最終話直前まで明確な変化は描かれてない)マチュは恋に恋する乙女で、シュウジの傍にいることが出来さえすれば、それだけで幸せになれると思っていた。

 その極致が、第7話「マチュのリベリオン」。シュウジを奪った世界ごと否定しようとするマチュの“失楽園”は、社会のルールを代行するシャリア・ブルの手によって制裁を受ける。

 なぜこれが不義の愛かと言えば、シュウジには本命の相手ララァがおり、マチュにはずっとシュウジのその本心が見えていなかったし、また見ようとしていなかったから。

 『星の王子さま』で王子さまの旅が始まるのは、王子さまが花と喧嘩したから。その際、花は愛しているはずの王子さまを引き留めはせず、精一杯強がって王子さまを外の世界へ送り出す。

 作中の描写を現実的に受け取るなら、王子さまと花が再会出来たとは思えない。毒蛇に噛ませたとはつまり初恋に殉じたということで、これは失恋の物語とも見て取れる。

 『GQuuuuuuX』でこの花に当たるのが、地球のララァ。自分の存在が、彼女にとっての王子さまシャアとシュウジの双方を傷付けると知った彼女は、自由を捨て地球の閨房に留まり続ける。

 その代わり門出を見送ったのが、もう1人のガンダムの乗り手マチュ。ララァと出逢ったマチュは花の愛を知った王子さまで、その身に与えられたのが、花と喧嘩した王子さまを葬る役割。

 愛していたはずの花を裏切った後悔が王子さまに死を選ばせるが、その王子さまの本心を気付かせてくれたのは、地球で友達になったキツネとの出逢いと別れだった。

 自由を否定するララァとの出逢いと別れは、別離を受け入れるという新たな愛の形と同時に、喪失を受け入れてでも本物を求めたいというマチュ自身の本心とも向き合うきっかけをくれた。

 『星の王子さま』が悲劇でないのは、王子さまがぼくに贈り物をくれたから。物事の本質が見えるようになったぼくにとって、この世界は王子さまが住まう大切な場所へと姿を変えた。

 シュウジとの出逢いをくれたこの世界こそが本当のキラキラだと気付けたから、王子さまを送り出した花のように、彼のいなくなる世界を受け入れる強さをマチュは得られたのだと思う。

 

母との確執

 マチュのストーリーとして見た時、シュウジへの恋愛一直線と両輪を成すのが、“母”との確執。マチュにとって母とは王子様を諦めた妥協で、マチュの戦いは母との衝突によって展開していく。

 物語序盤、マチュの敵は実母タマキだった。マチュは世間的な理想の母親をこなすタマキを偽りと見做しており、彼女が与えてくれる不自由ない暮らしに、逆に窮屈さを感じていた。

 タマキを反面教師に、マチュが新たなロールモデルとしたのが、自分を子供扱いしなかったアンキー。だが、結局は聞き分けのいい妥協を求めてきたアンキーとの関係も、決裂に終わる。 

 正反対に見えて、共にマチュに生き方を教えてくれたイズマの“母親”達。だがマチュは、そのいずれの欺瞞をも蹴って、花の束縛を嫌った王子さまのように、自由を求めて宇宙へと旅立つ。

 “母殺し”を描く上で最後の敵となったのが、全宇宙の母たろうとしたキシリア。ただし、マチュとキシリアに直接の接点はない。接点を持つのは、マチュの鏡像であるニャアンの方。

 敵意の中で育ったニャアンは、心を閉ざして孤立を受け入れ、キシリアの愛情と引き換えなジフレドという呪縛に乗ると、その世界の絶対防壁として、他者を排除するトリガーを引いた。

 だが関係性を拒絶する銃口は、拠り所の母さえ標的となる。ニャアンがマチュと同じ過ちを繰り返すのは、事ここに至るまでキシリアはおろか、自分の本心さえ見ようとしなかったから。

 全てを諦めたつもりが、自分1人じゃ届かない所に大切なものは残っていた。ニャアンが世界に居場所を見つけたがってると悟ったマチュは、母達の知らない関係性“マヴ”になろうと提案する。

 キシリアの目的はシャアの抹殺。なぜシャアに拘るかと言うと、その存在が、世界を信じるに足ると思わしめた“希望”であり、闘争に生きることでキシリアが捨てた人生の象徴であるから。

 希望の象徴を消し去ることで今の自分の世界を守ろうというのは、ニュータイプの可能性を潰すことで“普通の母親”としての人生を受け入れようとしていた、シイコとパラレルな関係。

 母親となり得た可能性を否定することで、王子様のいないこの世界の自分を唯一絶対とする“母親のオルタナティブ”がキシリアの選んだ妥協。その軛から脱して、真に母を超えることが出来る。

 キラキラが存在ではなく関係性と気付き、シュウジのいない世界を他者との出逢いに開かれた場と肯定出来たから、マチュは世界の敵となった少女に庇護でも搾取でもない手を差し伸べられた。

 

パイロットの見た光

 『GQuuuuuuX』の動乱はキシリアがシャアを殺すために仕組んだものだったが、同じくシャリア・ブルも、この戦争でシャアを亡き者にしようとしていた。ただ、その動機は少々異なる。

 自らのエゴで世界を覆い尽くそうとしたキシリアに対し、シャリア・ブルの場合はエゴの方を世界に明け渡し、従属的な自己の存在の空虚さに、喪失の痛みから逃れ得る安住を求めた。

 方やシャアの行動とは、世界をあるべき姿に戻すという、これも世界への従属から来るもので、シャリア・ブルがシャアに見ていた虚無とは、彼が己の内に見出しているものに他ならない。

 自身の無力感を肯定するため、己の似姿を“絶望”の象徴として討滅する。世界から自分の居場所を消し去るまで戦い続けなければならないのが、シャリア・ブルという男の抱えた業。

 『星の王子さま』の中で彼と重なるのが、砂漠に墜落した飛行機乗りのぼく。過酷な状況に陥り、奇跡に縋る水の探索を放棄していた彼だったが、王子さまに導かれて遂に井戸を探し当てる。

 世界に従属しながらその実、世界を信じきれなかったシャリア・ブルに、この宇宙に産まれた子の可能性を示したマチュは、砂漠の美しさを思い起こさせてぼくの命を繋いだ王子さまだった。

 他方、この宇宙には創造主シャロンの薔薇がおり、シュウジを止めたい彼女がジークアクスのパイロットを敵役へ導くのが本作。シュウジとマチュの出逢いも、謂わばシャロンの薔薇の筋書き。

 王子様の幻想に破れ、一時は世界を否定したマチュだが、“母殺し”を遂げ、本当のシュウジが見えるようになった今、彼との別れを惜しむこの哀しみが、出逢えた意味だったと理解する。

 喪失を生む世界を拒絶せず、引き受けた先に新たな関係性を築ける強さが、創造主シャロンの薔薇の存在しない宇宙を切り拓く条件であり、それがジークアクスのパイロットに課された役目。

 だからこそ本作の主人公はマチュであり、ララァへの愛に殉じるシュウジの姿を見届け、本物のマヴを得たマチュは、『星の王子さま』の語り手ぼくと同じ“本当”を見つけられる人。

 王子さまで、ぼくというマチュの二重構造も意味があり、井戸の水がぼくを救ったのは、王子さまのために汲んであげた水だったから。誰かのための贈り物だから、ぼくにとって特別になった。

 この世界を純粋に信じていて、誰かにとっての希望になれる。また、守るべき価値を見出だした誰かのため、自分を信じて行動出来る。それが、本作の提示したニュータイプ像なのだろう。

 

むすび

 以上見てきたように、『星の王子さま』を引合いにすることで、『GQuuuuuuX』のマチュの成長譚というストーリーにある程度の軸を通して見ることが出来たと思う。

 ただ、それも十分納得がいくものに仕上がったというわけにはいかず、書きながら自分でも腑に落ちなかった点を、これからいくつか挙げて連ねていきたい。

 まず、これ別に一年戦争後が舞台な必要なくね? マチュのストーリーとキシリアの戦争は全く関係なく、逆にマチュに絡むシャアやララァはキャラクター像が変えられて別人になってる。

 ネタ的に投入されるゲスト達もはっきり言ってノイズで、商業的な要請だろうが、結果OPに登場するメインキャラクター達がよくわからない立ち位置になってるのは本末転倒だろう。

 “マヴ”が本作のキーワードと思って見てたけど、マチュとニャアンのマヴがクライマックス…ではなく、「行くよジークアクス」ってじゃあマヴって何? 人と人の話じゃなかったのこれ?

 最終的にマチュとニャアンの関係も否定したはずの王子様に守られるお姫様に落着したように見えて、2人がマヴになれたことでハッピーエンドという見方に居心地の悪さを覚えてしまう。

 それまでキラキラとか言ってたマチュが唐突に語る本物のニュータイプ論からスポ根みたいな台詞とか、脈絡無さ過ぎてもっとこれまでの延長線上で最後締めて欲しかった。

 それにやたらと強さを強調する感じも、その結果指名手配されてるわけで、この辺のニュータイプ像の立て方が『星の王子さま』のテーマとは食い合わせが悪過ぎる。

 『星の王子さま』の美しさは、もう会えない王子さまへの信仰がぼくを生かしてることだが、ゼクノヴァはポンポン起きてるんでジークアクス乗ってればその内会えますってそりゃないやろ。

 もちろん、『GQuuuuuuX』と『星の王子さま』は別作品であり、展開がそぐわなくても何ら問題はないが、独自作と言うには作品内を通すロジック、説得力の部分が弱かったように思う。

 『ガンダム』を純粋にアニメとして楽しんだ身として、淫夢MADよろしく共通ネタで盛り上がれて良かったなどとは決して言えない。『トップ!』に対する『トップ!2』のような継承はされたのか。

 シーン単位では見所もあり、4話を見た時などは大いに期待しただけに、終盤の突き放され方は複雑で、俺にとって『GQuuuuuuX』は、付き合い方を考えさせられる作品になってしまった。