アニメ『葬送のフリーレン』初回2時間分見返してみた感想まとめ

 

 リアタイ視聴ではあまり乗りきれなかったので、見返して内容を整理してみた。

 

エーラ流星

 まず1話「冒険の終わり」。勇者一行王都凱旋のシークエンス。

 物語が始まったって言うのに、えらいまったりしたトーン。ものものしいが、どこ撮ってるかわからない王宮。

 どんなアニメでも最初は世界観に馴染む過程があるけど、それにしたってやり過ぎなのは、自分達が主役の祭りを他人事のように眺めるフリーレン達を見せるフリ。

 特に俺としては、クソみたいな冒険の振り返りで、今会ったばっかの連中に思い出話なんかされても知らんがなって完全に気持ち萎えちゃったんだけど、この視聴者と作品との距離感はフリーレンとヒンメル達との距離ってことなんやな。

 そこからエーラ流星のシーン。

 ここで星空を回す凝ったカットが入るんだけど、多分ヒンメル視点での時間の流れを表してて、バックショットの定点がフリーレンの一瞬の時間なんだと思う。

 で50年後。老いさらばえたヒンメルと銅像と同じ姿のままのフリーレン。過ごした時間(自分の姿)の違いが、見えてるもの(銅像と鏡像)の違いに現れる。

 最後の冒険で見るエーラ流星は、全天で4人全員回す。ただ4人の先頭を行くヒンメルには、満天を埋め尽くす全盛ではなく、流星が潰える最期の煌めきを見てるんよね。

 自分の人生を充足し、後悔のない顔で先立つヒンメル。埋葬が終わり、もう会えないとわかってようやく自分の気持ちに気付き、嗚咽を漏らすフリーレンが第1話のクライマックス。

 にしてはあっさり見せ過ぎじゃないかって気はするが、この時点では感情の萌芽って具合なんかな。

 葬式で陰口叩くババアも、やっぱ改めて見てもフリーレンの見た目がガキだからナメてるって印象。ここ呆気なく終わった葬式でわけもわからず涙が出たって方が、フリーレンの涙に重心が乗って俺の好みだったけど、この辺は作風なんだろう。

 ヒンメルもやたら容姿を自賛するし、この作品、外見は重要なファクターの1つっぽい。昔から人格変わらんからわかりづらいけど、50年で最も円熟の人生を送ったヒンメルは老け込んで、次いでハイター、アイゼン。フリーレンは子供のまま。

 

フェルンの弟子入り

 2話の「別に魔法じゃなくたって」は1話の後半から始まる。

 1話じゃ意味わかんなかった暗黒竜の角のシーンは、ここのハイターへの借りに繋がってるのかな。

 地下でエーヴィヒの魔導書解読を依頼するシーン。これも依頼理由を話すハイターを目で追う凝ったカットになってるのは、フリーレンのハイターを知ろうという意思の現れだからだろう。

 存在感が薄いのは良いことって不思議系アピールするフェルン。自分の存在を不要と見なしてるからこんな台詞が出てくるのか。それに同意するフリーレンも、人との繋がりに半信半疑なのが私と同じ。似た者師弟。

 一番岩にフォーカス合わないのは目標(本当の気持ち)までの遠さで、フリーレンにとってはヒンメルなのでは。

 自分1人で生きるのに打ち込み過ぎは良くないけど、フェルンが必死になる理由が他人(ハイター)に報いるためと知って、同じ先立たれる側のフリーレンは彼女を応援する。

 ハイターとの離別でも、置いてかれるフェルンを思い、涙を堪えて叱責。ここもベタな展開だし演出も軽くしてあるのは、台詞を聴かせたいんだろうな。身近な人間の死を受け入れられる、一人前になった2人の魔法使い。

 ラストの墓前。2本目の酒瓶は、フェルンの分かここにいないアイゼンの分か手向けることの出来ないヒンメルの分かわからないけど、重要なのはフリーレンが他人の思いを背負えるようになったこと。

 先のシーンで2人の泣き顔を見せなかったのもここのさっぱりした別れに寄与してて、こっちのハイターの方を本来あるべきだった葬送としてひたすら明るくして、ヒンメルの葬式と対比してるんだろう。

 それで言うと、ヒンメルのキャラデザで最も特徴的な目。見た目も人格ものっぺりしてて引っ掛かりがないんだけど、瞳の輝きだけは50年後でも変わらず、ここに注力して作画してたと思う。相手を真っ直ぐに見つめるヒンメルに対し、眼鏡越しの視界を持つハイターの差が死に際の格好悪さで、だからヒンメルとフリーレンを繋ぐ役割も出来たってことなんだろうな。

 

蒼月草

 まだフリーレンより小さい頃のフェルン。長命種の時間の使い方にドン引きして、ここが1番2人の距離が開いた瞬間になるのかな。

 ここでもリアタイ時、混乱したのが、ここまで一貫してフリーレンを子供として描いてきたのに、フェルンの視点を通して急にフリーレンを大人側に立たせるんよね。共感の軸になるべき主人公にこんな距離の作られ方したら正直困る。

 見返してわかったのがヒンメル達はフリーレンを子供扱いしてくれる唯一の人々で、彼等との別れ(同じ長命種のアイゼンは特殊だけど)を経た今フリーレンは大人として見られるんだわ。

 おそらく作者の中では、“見た目は子供、頭脳は大人”っていうのがフリーレンの初期設定としてあって、今回でようやくそれを提示し終えたってことなんだろう。

 この話は展開がちょっと捻ってあって、使われなかった高級品を蒼月草の代用にしようとしたことから、餌に釣られた害獣のげっ歯類が主人公を導くキーマンとして、本来食されるはずの種の保存先へ案内し、当て所の無い彷徨に見えたものが裏打ちされた算段の下だったとわかる。これらの転換が、メインテーマの自分の中の他者という入れ子構造に収束する。

 何のために力を使うか。合理思考のフェルンの意見はかつてのフリーレン。

 フリーレンに去来するヒンメルの言葉は、ヒンメルの意思で、そこにフリーレンの期待は無かったわけだけど、今のフリーレンの中にはヒンメルの蒼月草の花を見せたいって思いがある。ヒンメルを願いを叶えさせたいフリーレンが、蒼月草をフリーレン自身に見せてあげる。

 ここも目線が効いてて、ヒンメルに暴言を吐くフェルンに片目で応えつつ、もう片方の目が蒼月草の在処を指し示すカット。

 異常な執着を示す程の理由を自身の内には持ち合わせていないけど、誰かとの思い出を大切にしたいという気持ちは共通していた。特異な力に頼ってでもそれを実現しようとしたのが、この師弟の絆。蒼月草を見るのに浮遊魔法を使っていて、魔法を選んだ「この目じゃなければ見えなかったもの」になってるのがニクい。

 かつてかけてくれた花冠を、今度はフリーレンがヒンメルにかけてあげるラスト。ハイターの別れと合わせて、大切な思い出の中に誰かの生きた証は刻まれていて、それを繋いでいく尊さを感じさせてくれるまとめ方だった。

 

誕生日

 これも展開自体はベタで目を引くわけじゃないけど、あの荒くれのスイーツ男子達はお子ちゃまの見た目で中身化物なフリーレンの仮託なんだろう。

 ここでフェルンの身長がフリーレンを越える。石積みの画、なにかと思ったけど積み重ねた年月と成長速度の比喩になってんのか。3段の方がフリーレンてことかな。石は、この後の石像へのブリッジにもなってる。

 あとここで言う、わからないから知るために行動するっていうのが、フリーレンの基本方針てことなんだろうな。

 

腐敗の賢老クヴァール

 不敗じゃなくて腐敗なのかよ。

 遂に少年漫画らしいアクション回だけど、多分世界観の提示がメイン。

 これ見よがしに門が出てくるが、人間の村(短命)は木で出来ていて、クヴァール(長命)の前は石造り。

 かつての天才の発明は、普及し過ぎて今や固有名さえ持たない。天才の技量は一瞬で80年の空白を埋めたけど、人と同じ時間を生きた魔法は更なる発明を経験し、名実共に過去の遺物として葬られる。フェルンも当たり前のように使える浮遊魔法にさえ驚くのが切ない。

 呆気なく終わったクヴァール戦に対して、今回のメインは麦わら小僧。ラストカットは意味深な石像に被せられた麦わら帽子。

 麦わら帽子もかつての発明で、発明者は忘れ去られてしまったものだが、人の生活に根差したそれは時を超えて生き残り続けている。石は腐敗せず形を保ちはするけど、信仰が失われれば其処に在るだけの石像はいずれ忘れ去られる。麦わら帽子を被る石像は、悠久の時を人と共に生きるフリーレンの象徴なのでは。

 わざわざこんな所でヒンメルの性欲を描いたのは、日常会話に「殺す」って台詞を入れ込みたかったんだろう。ヒンメルの葬式で「薄情」というフリーレンへの誹謗をハイターへの罵声で毒抜きしたように、この辺は作風もあるかもしれない。

 蒼月草の時と合わせると、この作品における魔法とは何かを表してる気もする。絶滅した蒼月草を探し歩く過程は人智の外に踏み出す行為であり、その旅の果てに価値の転換を経てあり得ないとされた奇跡を起こす。

 クヴァールの名と共に人を殺す魔法として恐れられたゾルトラークは、時と共にそれが基準の一般魔法となり、元あった属性は失われた。魔法という概念の書き換え、そこに挑む者達を魔法使いと呼ぶのではないだろうか。

 最早、書き換えるのではなく書き換えられた側だという事実を受け入れられないクヴァールは、腐敗の賢老ではなくゾルトラークに葬られる1匹の獣として最期を迎える。痕跡が抹消されゆく責め苦を味わわせた冷酷さはフリーレンの怒りか、あるいは魔法使いという業の生き物の性なのかもしれない。

 1つ気になるのは、フリーレンがゾルトラークでクヴァール撃ち抜いた際、地面がほがってその先にもう1つの世界が見えるんですが、これ浮遊大陸の話なんですか?海あったのに。深淵を覗いて知った真実ってこういうこと? 流石にあれやった以上、放りっぱなしは無いと思いますが、原作だともう明かされてるのかな。

 

新年祭

 新年祭全然人いねえじゃんと思ったけど、過疎化の進む限界集落で、それで労働力としてフリーレンが呼ばれたって設定だったな。忘れてた。

 私1人じゃ見れなかった日の出。自分1人で生きてる顔をしながら、実は嬉しそうにしている人を見るのが好き。フリーレン自身も知らないフリーレンをヒンメルは見抜いていたと。

 日の出っていうのも象徴的で、やはりエルフにとって時は硬い石のように止まって動かないものなんや。短命種の人間だから、1年の始まりを新生と捉え喜ぶことが出来る。

 そしてこれが、死者へ会いに行く旅を始めた年の幕開けにもなる。

 

フランメの手記

 墓石がグレードアップしてるのは、アイゼンの時間がもう人に近くなってる証か。だから送る側であるフリーレンの旅には同行しない。

 1話で時間が飛ぶ理由。50年は、魔王を倒した世界で救われないフリーレンのためにヒンメルがかけた時間。20年は、それに気付いたハイターがヒンメルとフリーレンを繋ぐためにかけた時間なんや。ここまで来てようやくわかったけど、1話でそれやられてもいきなりすぎてついていけんて。だったら2話の6年の描き方を根本的に変えても良かったけど、1話と同じなんよね。人物の成長過程がない。フリーレン時間てことなんやろうが。

 ヒンメルはお婆ちゃんみたいだったけど、ハイターとアイゼンはお節介おばさんだよな。これは完全に作風だろ。

 石造りの遺跡を守るは千年樹。頑ななフリーレンをここまで導いたのは、紛れもなく人の意思。

 そして葬送の旅が始まる。こう見ると、1話「冒険の終わり」と対になってる。

 フィナーレに相応しいエーラ流星の降る下、「旅を続ける」と言い放った仲間の存在で、ヒンメルは何も終わってないことを悟ってしまった。80年かけてお膳立てを整えてくれた仲間のおかげで、ようやくフリーレンの“終わらせる”旅が始まる。

 フランメの手記に関して、1000年前のフランメは魂の研究が進展すると予言した。が実際は、進むどころかフランメの研究成果さえ失われ、オレオールを封印するかの如く聳える魔王城。魔王がエンデに城を築いた理由もその辺か。

 天国、魔法、記憶、共生。これらをメインテーマとして話が進んでいくと。

 

総括

 魔王討伐後の50年。その間にヒンメルが遺した足跡を辿りながら、魂の眠る地に足を踏み入れ、自分が本当はどうしたいのかを問い直す、そういう話なんや。

 改めて見てみると、1話で全てのきっかけであるヒンメルの死、2話で視点のフェルンを投入してフリーレンのキャラクター描写、3話で理の外に生きる魔法使いという存在を説明し、4話で本筋の魂の眠る地を目指す旅を始めると、この4話で作品の世界観を説明しきる考えられた構成ではある。

 だが、わかりづらいやろ。まずフリーレンがわからん。大人なのか子供なのか、人間側なのか人外側なのか、どういうスタンスでコイツと付き合っていけばいいかわからん。ただそれは、よく見れば意識してマージナルな位置に置いてあるのがわかるし、こういう主人公の型っていうのが現代の物語たる所以なのかもしれん。そこは、フリーレン自身が言うように、“わからないから知って確かめる”しかないと思う。

 かと言って、主人公以外のキャラクターも最初から完成されてるというか、不安定さがないのでエピソードの意外性も低い。蒼月草や腐敗の賢老クヴァール等、魔法が絡む話は“転換”がキーになるためか捻ってあるが、基本的にはベタな話をそれもさっぱり見せる。話題性重視の奇を衒った展開ばかりもどうかだが、一見してキャラクターもストーリーも引きが弱いと、こちらとしては重心の置き所がわからない。まあこれも、ド派手なシーンを敢えて回想ですっ飛ばしてる辺り、意識して作品のトーンを“葬送の旅”っていう低調に保ってるんやろう。

 振り返って見れば台詞や演出の意図を解釈する余地もあって見応えは増してくるんやけど、ただそうするための大枠の提示が遅いんよ。物語が始まるの4話やんか。こういう大枠を踏まえた上でのストーリーの作りって小説媒体ならよくある仕様で、TVアニメ(週刊連載)でこのテンポ感はなかなか出せん。なんか全体的にフリーレン時間なんよな。アフタヌーンならまだわかるが、スピードの速い現代によくサンデーでこれがヒットしたわ。

 まとめると、確かに良質な作画に腰を据えた演出でクオリティは高い。魔法の概念や他者との共生というテーマ、魔王が何を目論んだかやヒンメルの魂と再会した時フリーレンが下す決断等、ストーリー的に興味を惹かれる部分もある。ただ、キャラクター性やエピソードの作り的に最大風速が出るタイプじゃなさそうなので、俺は普段のリアタイ実況じゃなく、配信でじっくり向き合いたい作品かなっていう感じです。