『地獄少女』を見たので、その感想

 

 今さらですが『地獄少女』見ました。こういう胸糞悪い話のアニメは見ないことも多いんですが、せっかく頑張って見たので感想をここにまとめておきます。

 シリーズの概要をまとめるだけなので、既に見たことある人にとっては目新しい内容はないと思いますが、自分用のメモくらいの感覚なので悪しからず。

 

地獄少女

 記念すべきシリーズ第1作。OPの「逆さまの蝶」は1番好き。設定は全作共通で一応おさらいすると、“地獄少女閻魔あい率いる一行が恨みを抱えた人間の依頼で復讐を代行する、いわゆる「必殺シリーズ」同様の構造。基本1話完結。

 「必殺シリーズ」との違いは、ターゲットだけでなく“地獄流し”の依頼人にも地獄に落ちるという代償があることだが、1期の場合はターゲットが本当に救いようない下衆のことが多く、反省を促す場面があるなど勧善懲悪のテイストが強い。

 そんなシリーズに縦軸を通すのが、柴田一、つぐみの父娘で、娘のつぐみと閻魔あいの間にリンクが発生したことで、ジャーナリストでもある父の一は地獄少女を追っていくことになる。

 一の主張は単純で、復讐は何も生まないと地獄流しを否定。対して勧善懲悪の物語を見せられたつぐみは、他に縋る者がない人間の拠り所ならと復讐を肯定し、この父娘の対立がクライマックスになる。

 こうした地獄少女を間違ってると糾弾する存在っていうのが毎シーズン出てくるんだけど、彼等の主張がいつも空転するのは、閻魔あいは別に人助けで地獄少女やってるわけじゃないのよね。なんなら彼女の意思ですらなくて、謂わば地獄少女刑っていう刑に処されて懲役として仕方なくやってるに過ぎない。地獄少女はダークヒーローじゃなくてシステムの一部なんだから、間違ってるかどうかなんて議論がそもそもナンセンス。

 ここで俺の考えを述べると、浮き世に生まれた魂が輪廻転生を繰り返す中で、こびり付いた垢みたいなものが業。この業にまみれると“悪”になっていくんだけど、やがて浮き世の秩序を乱す程“悪”に染まった魂が出てくる。こうなったら最早地獄の存在に近いので、地獄流しを介して早急に浮き世から退出させる必要がある。一方で依頼人の魂も、地獄流しを頼んだ時点で浮き世に救済がないと見切りを付けてしまったので、憎悪と怨念しかない地獄の存在に等しくなり、輪廻転生の円環から外れてしまう。以上、完全に俺の妄想。

 なんで救済って観念が出てくるかというと、1期の依頼人は黒藁人形を受け取るも、代償の話を聴いて必ず躊躇するんよね。復讐せずとも生きていく道もあるんじゃないかと考え始めた依頼人に最後の後押しをするのが“善意”の第三者達。(主にターゲットに煽動された)彼等によって社会に居場所を失くした結果、依頼人は黒藁人形の紐を解く。

 依頼人を追い詰める彼等には全く悪意がなく、だから性質が悪いんだけど、ターゲットを流した依頼人が逆転してターゲットの居たポジションに収まるケースでは、依頼人を追い詰めた周囲の人間がそのまま依頼人に媚びへつらってる。初めは三藁達のアフターケアかなと思ってたけど、後のシリーズでもそうした描写はないことから、彼等は自身の加害性に無自覚だったんだろう。

 でも、だからこそ彼等の魂は怨みを溜め込み業を宿すことはない。現世っていうのはそもそも、彼等のように自分のために他者を踏みつけに出来る人間のための場所なんだと思う。浮き世の秩序が保たれるのは、そうした大多数の人々が自身の“善”性を信じてるから。彼等が“悪”に染まらないよう、業の魂を間引きするシステムが“地獄少女”。

 っていう物語だと思ってたから、鬱陶しい一にも付き合ってあげてたんだけど、最終話でシステムに対するカウンターとしての一の役割は転覆してしまった。俺が一に期待してたのは、地獄少女のシステムに守られた“善意”の欺瞞を暴き出す、綺麗事の“正義”。最終的にシステムに屈服するとしても、少数の犠牲の上に成り立つ大多数の幸福を認めない。そうした“正義”こそ、“善意”の秩序を成り立たせる最後のピースみたいな、そういう物語を期待してたんだけど。

 実際の一は自身の罪悪感から逃げてるだけで、完全に私的な動機だった。まあスキャンダルネタにセレブ強請ってる男に正義もクソもないよな。強請った金で養われてたって知ったら、つぐみちゃんこっちの方がショックやろ。まあ友人も、有名人と自分の妻の不倫スクープされた記者笑い者にされてるって言ってたし、落ちる所まで落ちたってことか。

 一が“正義”の人であり続けるためには、「自分を流せ」は絶対に言ってはいけない台詞だった。しかも、自分が楽になりたいためだけに最愛の娘を地獄の道連れとするが、どちらが子供かわからない劇中の描写同様、つぐみに赦されることで事なきを得る。主人公かに見えた一はあいと共につぐみから道を示される側に回り、仙太郎の子孫としてあいの物語に回収された。

 まあ一にも同情すべき点はあって、主義以外にもあいを止める理由あるのよね。つぐみとあいのリンクは強制で、発動するとつぐみはトランス状態となり、一切の自我を失くす。一人娘が度々意識昏倒するようになり、その原因が地獄少女にあるとしたら、父親としてはあいを追わざるを得ないだろう。

 他にも1期だと、“殺らなきゃ殺られる”っていう正当防衛的な場面で契約がなされる回があったりするから、システムへの言及はあんまり厳密に見ない方がいいのかもしれない。

 

地獄少女 二籠

 帰ってきた地獄少女。前作で記憶を取り戻したからか、ビタンビタンされて火炙りになっても動じなかった(それでも肥溜めに突っ込まれた輪入道のことは臭がっててウケた)1期に比べて、2期以降のあいちゃんは比較的人間味が増してる。特に、ウケ狙いのギャグが滑って赤くなってる激萌えあいちゃんは必見。

 1期だと改心を促したりしてたから、地獄流し前のお仕置きタイムの意味合いがよくわかんなかったけど、2期で一行が結構ノリノリでやってて見方わかった。おそらく、この瞬間だけはみんな妖術を行使して好きに人間をいたぶる自由が許されてるんよね。彼等にとっちゃ、辛い仕事の中のささやかな楽しみってわけや。

 改心を促さないのはテーマ的な話でもあって、呪う側と呪われる側が一方的だった1期と違って、“合わせ鏡の二籠”では、互いを思い合ってる2人のすれ違いが生む地獄を丹念に見せていく。どちらが悪いというのではなく、わかり合えないという人の世の無情さが、地獄流しに“救済”を見出だす。

 1期の一と同じく、2期でクライマックスを担うキャラクターが“悪魔の子”と呼ばれる拓真。『二籠』の劇中では、街中から袋叩きにされて復讐に火をつけるという過去のあいをトレースするような役割を果たし、あいが彼の身代わりに自らを街の人間へ差し出したことで、怨霊化した罪を赦されたあいは地獄少女の勤めから解放される。これにて、あいの物語としての“地獄少女”は一旦完結を迎えるのである。

 この拓真を地獄に流した少女の苗字が「飯合」。流石にここまで意図的な名付けとなると、多少掘り下げて考えてみたい。拓真(タクマ)=悪魔(アクマ)でいいとして、飯合(メシアイ)=救世主(メシア)だと思われる。悪魔を滅ぼすから救世主でいい気もするけど、本作の扱いはもうちょっと複雑で、“悪人”である拓真こそ理不尽な仕打ちを受けても復讐を否定し続けた人間であり、一方“善人”の飯合は無実の拓真を人柱とすることで地獄と化したラブリーヒルズの安寧を得ようとした。

 業や輪廻転生等、仏教的な観念に彩られた『地獄少女』の世界観でキリスト教的モチーフを扱ってること自体既に倒錯的ではあるんだけど、倫理のタガが外れた終末世界のようなラブリーヒルズでは、悪に加担しなかった者が悪と謗られ、善を望む者が欺瞞に甘んじ正義を否定する。こうした善悪の間を相対化して曖昧にする意図で、『二籠』ではキリスト教モチーフを採用したのだと思う。

 また、仏教で救世主とは弥勒菩薩に相当する。片や、地獄少女こと閻魔あいの閻魔は、地蔵菩薩の化身と解釈される。仏教が廃れた末法の世で人々を救い続けているのが地蔵菩薩であり、弥勒菩薩が現れることで救済がもたらされるのだ。この関係を本作に適用するなら、末法の世で人々の声を聞き続ける閻魔あいの苦労が、飯合の登場によって終わりを迎えたことを意味している、ということかもしれない。

 『二籠』クライマックスは、1期から続く閻魔あいサーガのオーラスとして、『地獄少女』をあいが自分の罪と向き合う物語に収束させた。しかし、現代日本に人柱を現出させるにあたって、だいぶ無理もあったと思う。地獄行きという重い業を宿す故、相当な恨みの念がなければ地獄通信には依頼できない。また、地獄通信へのアクセス後あいが依頼を受けるまでには三藁による審査があり、切羽詰まった人間でなければ依頼は成立しない。

 これらの条件があるので、地獄少女は都市伝説程度の認知度に収まっているのだが、『二籠』終盤はラブリーヒルズの住民が矢鱈目っ鱈地獄通信を使うので、数を捌くため三藁達も各々別件を抱えてフル稼働する方式だった。組織としての処理能力がパンクして、依頼を吟味する余裕などなかったはずだ。後のシリーズにおいて依頼が軽くなった印象があるのは、おそらくこの時に依頼人の精査を簡略化したからじゃないだろうか。ラブリーヒルズという地獄を作り出すために、個人的にタイトルの肝だと思っていたエピソード内の情念のドラマの部分が、ある程度後退した感がある。

 

地獄少女 三鼎

 復活の地獄少女。まあ『二籠』ラスト、あいが地獄少女から解放された直後に地獄通信が機能してるカットあったから、地獄少女が続くこと自体は不思議じゃないんだけど、あいちゃんの続投は予想外だった。『二籠』で萌えキャラ化したと思ったら、今度の地獄少女はなんと百合‼️俺ら大歓喜‼️

 『三鼎』は、代償として流した者も地獄に落ちるという、地獄流しを依頼する側の業がテーマ。『二籠』でも、呪う側と呪われる側の転倒が描かれてたけど、もっと先に進めたというか、はっきり言ってしょうもない地獄流しが結構ある。願いを叶えるドラゴンボールみたいな使い方もあるし、ペットの回とか事故で糸引いちゃってて、流石にこれはどうかと思うけど、地獄流しを依頼する時点で地獄に落ちる程の業を抱えてるってことなんだろう。

 もう一つ、1期の主要キャラだったつぐみがこの『三鼎』でも登場する。厳密には『二籠』や『宵伽』でも出てくるんだけど、『三鼎』以外はスポットなのでここで。どうやら、あいが六道郷への怨みを捨てた後も強制リンクが発生してたようで、あいの意思とは無関係だったらしい。一ちゃんの頑張りは無駄だった。

 利発で優しい少女だった1期から、『三鼎』ではだいぶ厭世的な雰囲気を醸しており、ゆずきに助けを求められても、どうせ意味ないと何もしない。頼りにならない大人の代表みたいな感じ。境遇には同情するけど、つぐみがもうちょっと親身になってればゆずきの結末も違ってたんじゃないのって気がしないでもない。まあ、おかげでゆずきとあいちゃんの百合が生まれるわけだけどね。

 人面蜘蛛の依り代であるきくりは、登場した『二籠』内では立ち位置がよくわかんなかったんだけど、『三鼎』を見る限り、基本的にはきくりとしての人格を持ったコメディリリーフって捉え方でいいみたい。普段はきくりを遊ばせてるあいから、地獄少女になれないって断言された時には珍しくショック受けてて、申し訳ないけどウケたわ。人面蜘蛛が出てくるところ、グレンダイザーのガンダルみたいだった。

 『三鼎』はゆずきの止まっていた時が終わりを迎える話だけど、『三鼎』全体のストーリーのプロトタイプになってるのが第17話「藁の中」で、あいの新しい使い魔、山童の当番回。なかなか興味深いので、ここで考察してみる。

 この回、時系列が入り組んでる上に超常的な力も絡んでるので非常にわかりにくい話になってるが、サブタイトルがおそらく芥川龍之介の『藪の中』から来ていることを考えると、意図的に真相を掴ませないようにしていると思われる。『藪の中』において重要なのは真相ではなく、嘘の告白によって登場人物が隠そうとした各々のエゴ。「藁の中」においては、山童の嘘が鍵となる。

 もう一つ「藁の中」における中心モチーフが冬虫夏草。これは、時と共に変質したものを表しているのではないかと思われる。山童に関して言えば、初めは孤独など感じなかった。それが藪の中に芦谷一家を見て、家族の輪に入ろうとした。ヒカルとして過ごしながらも、妖としての山童を欲した芦谷博士の望みを叶えるため、芦谷家を霧で包んだ。人と同じ時間を生きたかった山童の思いは、いつしか芦谷家そのものを妖と化す願いに変わっていたのではないだろうか。

 山童の願いは、自分を息子だと言ってくれた芦谷夫人が地獄流しの代償で地獄に堕ちるのを止めることだった。しかし、そもそも山童が現れなければ、芦谷夫人が復讐を願うこともなかったのだ。ヒカルの身代わりとして芦谷一家に入り込みながら、山童として夫妻から愛されることを求めて時間を歪めた。妖の力で人と関わりながら人であろうとしたために、山童は出口のない堂々巡りへ囚われてしまったのである。

 山童の作り出した欺瞞は、それが見られたことによって終わりを告げる。ゆずき、きくり、そして視聴者によって、山童の嘘は見抜かれることとなる。この“見る”という行為が本編ゆずきの物語にも絡んでる。『三鼎』の特徴である呪う側と呪われる側の転倒も、“見方”を変えればってことなのかもしれない。ゆずきの死が見られることによって、彼女の存在が女子高生に憧れた地縛霊に過ぎなかったと確定し、偽りの時間は終焉。ゆずきは決断を迫られることとなる。

 人ならざる自分を受け入れたはずのゆずきはしかし、偽りの友の復讐を選んでしまう。全てまやかしだったと告げられた後も、自身の夢見ていた時間が本物だと信じたかった彼女は、人外の力を人としての思いから使おうとし罰される。そこで助けに入る我らがあいちゃん。誰にも看取られずに死んだゆずきの孤独、そしてそれ故に人の世界へ執着してしまった彼女の業を、あいは全て見ていた。見られるということは、見透かされることであると同時に、認識してもらうことでもある。偽りの友情に縋り付いたゆずきは、犠牲を厭わず自分を救ってくれたあいの愛情で、遂に成仏出来た。百合万歳。

 『二籠』ラストから地獄通信が運営していたことを考えると、(ED的にも)ゆずきが地獄少女となるまで既に何人も地獄少女が居たと思われる。だがゆずきにお鉢が回ってきたということは、ゆずき同様彼女達は人面蜘蛛に処分されたのだろう。そもそも地獄少女刑は、怨霊化し村一つ滅ぼしたあいレベルの悪霊に対する刑罰のはずだが、そんな怨霊がおいそれといるわけなく、霊力ある少女霊を片っ端から地獄少女にしていったんじゃないか? ゆずきが行ったのは普段三藁達がやるちょっとした印象操作で、悪霊とは言えんやろ。罪を犯してないんだから、刑に服してる意識が低いのは当たり前。あいから引き継ぎ受けたゆずきはまだいい方で、人面蜘蛛のことだからきっと、今までの娘達は地獄少女の何たるかもろくに教えられないまま地獄少女にされ、掟を破ったと言って始末されてたはず。そんな一方的な処遇が何度も繰り返され、見るに見かねたあいちゃんが名乗り出たのは、少女の霊を使い捨てる人面蜘蛛への復讐心もあったかもしれない。

 そう言えば、1期のあいから生前の記憶が消えてたのは、地獄少女を遂行するための人面蜘蛛からのアフターケアかなんかなのかなと思ってたけど、『三鼎』見る限りそんな素振り一切ないことから、単にあいが忘れてただけってことやろな。あいちゃん、そういう天然な所あるから萌えるわ。

 

地獄少女 宵伽

 地獄少女延長戦。過去シリーズはどれも2クールあるのに対し、『宵伽』は1/4の6話しかないのでサクッと行きましょう。

 と言っても、正直語りづらいのよね。尺が短いのもあるかもしれんけど、過去3作に比べて『宵伽』はこれっていうテーマが見えづらい。加えて寒河江ミチルの登場は、閻魔あいという縦軸を通してきた過去作に対して明らかな新機軸だし。まあ書いてけば何か見えてくるかもしれん。

 最初は地獄少女の定番、クラスのいじめネタ。若干込んだ作りになってて、真相は見えづらい。てかラスト人違いっぽくない? 人違いパターンだったらシステム的には三藁の落ち度になるはずだけど、流石にそれはないだろうし、地獄流しが怨みの連鎖を断ち切るものじゃないってことかな。

 お次は、愛し合ってる2人だからこそ互いに地獄流しに救いを見出だすっていう、『二籠』に近いパターン。回顧録もやってたし、軸が見えにくいのは『宵伽』が過去作を総括する意図があるからってことなのかも。

 そして胸糞MAXの3話。一目連も地獄より非道いみたいに言ってなかったっけ。見せ方としては、依頼者側の業を描いてるからやっぱり『三鼎』かな。でも未成年レイプは即刻死刑で良いし、虐められてた人間の実力行使は同情するから、個人的には地獄流しで吹っ切れた依頼者達見て溜飲下がったかな。

 これでシリーズ皆勤賞のつぐみ。この人は地獄流しから逃れられない運命なのね。スタンド使い並みに引き合ってるよ。だからって輪入道に八つ当たりせんでも。この話結局わかんなかったんだけど、多分依頼者が地獄流しをしなくても、つぐみの策で状況は改善出来てたんだよね。それでも晴らしたい怨みのために、依頼者は地獄流しを選択した。今までの流れからして、これが『宵伽』のテーマなんだと思う。

 勧善懲悪の1期を見てると、今だったらこれ地獄通信に依頼しなくてもTwitterに書き込めば一発で相手社会的に抹殺出来るやんってのが割とあったけど、特に4話や6話はその辺へのアンサーになってるのかな。

 そして5話からミチル本格参戦。ターゲットを介して語られるミチルの過去。なんと謂われのないリンチで一家共々鏖にされた結果、怨霊化して村一つ滅すというあい並みの悪霊だったことが判明。それで人面蜘蛛に目つけられて地獄少女刑に処されるところだったみたい。怨霊化すると記憶を失くすのかしら。

 でも待って。地獄少女刑理不尽過ぎるから、あいちゃんは全ての少女霊の罪を背負って未来永劫地獄少女刑に服し続けるという、アルティメットまどか式解決法を『三鼎』で取ったんじゃなかったですっけ? それを経てのうのうとスカウトに来てる人面蜘蛛なんやねんお前。しかもあいちゃん的にもミチルが地獄少女に堕ちることは反対しないんや。罪の重さもあるけど、やっぱ『三鼎』は百合だな。

 なんやかんやで、ゆずきみたく地獄流しに否定的だったミチルも無事地獄少女になりましたと。印象的なのがミチルは「天国」を語ること。西洋文明知らないあいにマウント取ってたのはウケたけど、輪廻転生を踏まえた茫漠なスケール観で善悪の空虚さに立脚するあいに対し、ミチルの方はより近代的な個人の生に向き合う在り方で、ある種の“救い”として“報い”を提示してるって感じ。だから、救いにならないと思ったら依頼の差し止めもするっぽい?(これに関しては曖昧) 個人の意思を蔑ろにすることにかけては作中最も定評ある人面蜘蛛さんがミチルの地獄少女の在り方を許してるのが不思議だけど、なに?あいに嫌がらせされたから妥協案とか?

 

 とまあこんな感じで、1話完結で胸糞回も多いけど、ちゃんとシリーズ通して追ってみると、それなりに見えてくるものがあったよという話。何より「閻魔あい」というキャラクターは、怨みの門の門番「イズコ」や「黒井ミサ」なんかと並んで、アイコン的な強度のあるヒロインなので、まだ知らない人はとりあえず一見の価値ありですよということは言っておきたいです。