『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』の特別上映を見てきたので、その感想をまとめました。一年戦争史(ガンダム全体)におけるスピンオフ的な位置付けかと思いきや、安彦版の味付けによって宇宙世紀の縮図とも言える構図にまで発展させていたので、その辺についても言及したいと思います。
まだ上映中なので一応ブログにしましたが、Twitterの雑感と同じ軽いノリだと思ってください。ネタバレ全開なので、映画の内容を知りたくない方はブラウザバックを推奨します。
『ククルス・ドアンの島』は孤島サスペンス
冒頭、闇の中で逃げ惑うジムにヒートホークを掲げたドアンザクが襲い掛かる。
ガンダムと言えばロボットアニメだが、この導入でもわかるように、本作は全編に孤島サスペンスの色合いが強い。TVシリーズでは素手だったドアンザクに斧を持たせたのも、ドアンの猟奇性を醸している。
『ファーストガンダム』の中でも異色回である「ククルス・ドアンの島」という題材を調理するのに、今まで見たことない手法を用意してきた。この時点で本作に対する期待度は一気に高まる。
安彦ガンダムのキャラクター
ただ、そうした手法の斬新さはあるものの、個人的にこの映画のセッティング、起承転結における起の部分に取っ付きづらさを感じたのも事実で、その点を整理しておきたい。
1つは完全に自分の問題で、恥ずかしながら安彦ガンダムの『オリジン』をアニメ版しか拝見していなかったので、安彦版ホワイトベース隊に馴れるのに時間がかかってしまった。
映画であれば、前提知識を必要とするキャラクターの立て方は個人的にマイナス評価になり得るが、今回はファンへの意識が強い特別上映なので、予習していくべきだった。
勿論、ガンダム初見の方のことも考慮されており、ファンにはお馴染みのキャラクターでも全員台詞で名前が明示され、1人1人キャラクターを表現する芝居が付けられている。
今の目で見ると少しバタ臭く感じる人もいるかもしれないが、昔の『007』を見てるようなこういう芝居は嫌いじゃないので、個人的には好感が持てた。
しかし、ホワイトベース隊、ドアンの島の子供達とキャラクター数もそれなりにいる中でいちいち芝居が付いているため、セッティングが終わるまでは少々テンポの悪さを感じてしまったことも否めない。(残置謀者の説明そんな要るか?)
登場する子供達1人1人に愛着が持てる作りなのは結構だが、もう少し芝居や台詞を端折るか、中盤以降に役回りをズラしても良かったかもしれない。この辺は、“描く人”の安彦良和と、“切る人”の富野由悠季の差か。(TVシリーズの方が優れていたという意味ではない)
父性の対比
キャラクターの味付けという部分で、TVシリーズでは、若干19歳ながら分不相応な重責を担わされ気張る(気を抜いたらセイラさんに窘められる)姿が目につくブライトさん。が、本作ではミライさんとのやり取り等、所帯染みた感じを出されている。
これは父性として、ドアンとの対比を意識してのものだろう。
ジオンより規律の緩い連邦軍においても、組織に縛られるブライトはホワイトベース隊への父性を十全に発揮し得ない。
一方の脱走兵となったドアンは、子供達の絶対的な父として役割を全うしている。あたかも島の中にしか世界が存在しないかのような隔絶された共同体で、宗教の教祖のように振る舞うドアン。そしてそれが、サスペンスへの呼び水となっていく。
ドアンの軍帽
ドアンの島で、連邦軍の制服を着るアムロに居場所はない。自分の居場所であるガンダムを探そうとするが、ドアンに認められることで子供達から敵意の目を向けられることもなくなっていく。
ガンダムを失った場所に気付いた時、アムロはジオンの紋章の入った帽子を被っている。これは解釈の余地があるだろうが、個人的にはアムロがドアンの戦争を追体験した意味合いではないかと思う。
戦いの果ては奈落に続く道しかない。それを悟り、戦いの意味を見失ったドアン。ガンダムを失ったアムロも、その寄る辺なさの一端に触れたのでは。
暗闇に取り込まれそうになったアムロはスコールに見舞われる。文明から隔絶したドアンの島において、スコールは恵みの雨。ドアンにとって島の子供達の存在が、渇いた心を癒すオアシスになっていたのではないだろうか。
島を被う翳
戦争を遠ざけてるはずのドアンは、アムロを島へ迎え入れた。少年兵だったアムロを子供達と同一視したからだろうか。では何故ガンダムを破壊しなかったのか。それがサスペンス要素、ドアンの裏の顔に繋がってくる。
一見長閑に見えるこの島は残置謀者であり、恐らくドアンは“力ずく”で任務を引き継ぎ、前任者になりすますことで子供達に平穏な生活を与えていた。潜伏のために灯台を消し、外界を隠して教祖として振る舞った。
ガンダムを破壊しなかったのは、戦災孤児のアムロではなく、パイロットとしてのアムロを欲したからだ。ドアンは、乗機ザク同様戦いで傷付いた自分の代わりに、子供達を守る役目をアムロに引き継がせようとした。島を守るためにMSの力が必要なことを、ドアンは誰よりもわかっていたのだ。
戦争を否定するためにMSを必要とするドアンの矛盾。その翳に覆われた姿こそ、“ククルス・ドアンの島”の真実だ。
目を瞠るモビルスーツ
ドアンがそんな潜伏生活を続けているのには、ある目的のため。それに向けて、ドアンのかつての戦友サザンクロス隊が動き出す。
連邦軍を圧倒するサザンクロス隊のMS戦は見事の一言。キャラクターと違って無機質ながら、確かに人の意思が動かしてると感じさせる描画はパワードスーツとしてのMSを完璧に表現していて、予告でこれを見た瞬間、劇場に足を運ぶことを決めた。
ただ、この感動が終盤でもあると良かったんだけど、そちらは時代劇の決闘を意識した一瞬の交錯が雌雄を決する殺陣だったので、正直盛り上がりには欠けたかな。シャアと並び称された腕前はもっと見たかった。
劇中では、「僕のガンダム」や「俺のガンキャノン」とMSを自己の延長と捉える台詞が散見する(正確には軍の)。これも、MSをキャラクターの象徴として見せていることの一端。
殺人兵器の駆動
だからこそ、ククルス・ドアンの真の顔が明かされる終盤が際立つ。
子供達の長兄的存在で、ドアンを父のように慕うマルコス。ドアンに認められたいと強く願う彼は、突然現れドアンに信頼されるアムロに対抗心を持つ。
危険を怖れないと証明し、MSに乗せろとドアンに迫るその彼が、ドアンのザクを見た瞬間の戦慄。マルコスが慕っていたのはあくまで父としてのドアンであり、殺人兵器としてのドアンではないのだ。
そしてドアンと同じ世界に立っているのは、ガンダムに固執するアムロなのである。カーテンの陰から現れザクに襲い掛かるガンダムは、完全にスリラー映画の文法だ。
その後のシーン。「相手がザクなら人間じゃないんだ」「撃つぞ…撃つぞ…撃つぞー‼️」と同じく人殺しを想起させ、べったりとした血の痕が見えるよう。アムロには、戦争の臭いが染み付いている。
ブランカが射し込む真実
しかし、アムロが主人公であるのは、自身が暗い翳に呑み込まれていようと、その身をもって周囲に光を指し示すからだ。
ホワイトベース隊、サザンクロス隊が動き出すクライマックス、アムロはドアンが隠していたバッテリーを見つけて灯台を復旧し、子供達の目を島の外へ向ける。
サザンクロス隊の迎撃に向かうドアンは、子供達に家屋から出ないよう告げる。ドアンは今までもそうして、自分がMSに乗る姿を見せないようにしてきた。だから序盤も、ドアンがアムロを襲った反対側の灯台付近で、カイのガンキャノンが子供達の姿を見る。
ところが今回、走り出たヤギを追って子供達はホワイトベース隊、戦艦の中で逞しく生きるカツ、レツ、キッカと遭遇。更にザクで戦うドアンを目撃する。
『ハイジ』みたいに跳び跳ねるヤギに笑っちゃったが、このヤギの名前がブランカ(白)。白と言えば、“連邦の白い奴”ことアムロのガンダムではないか。
ブランカに導かれた子供達は、ドアンが彼等に隠してきた素顔、戦争に生きる姿を知る。それでも尚、子供達にとってドアンは頼れる父であり、誰一人としてドアンを忌避する者はいなかった。
アムロの到来によって、ドアンが隠してきた戦争は白日の下に晒され、子供達には島の外の世界が照らし出された。そして今度は、子供達自身の意思で、ドアンとの生活を選び取ったのだ。
と、思うんだが、正直自信ない。子供しか居ないこの島では、雨水も溢すしミルクも溢す。これがドアンの欺瞞を表してるのか、余剰生産がある証なのか判別付かなかった。またアイスクリームへの憧れは文明社会との断絶の象徴だと思うけど、島の外にいるキッカもアイスクリーム食べれてないからな。
それに、この後島がどうなるのかわからん。普通に考えれば連邦軍に接収だけど、オデッサ陥落で戦略的意義が消失すれば放置もあるのかも。ただ灯台点けたこと考えると、島外との交流が始まったと思っていいのかな。
仲間と戦えるか?
アムロはドアンを追体験したと書いたが、両者には明確な違いがある。仲間に見捨てられた者と見捨てた者だ。
本作の名シーン。ドアンが「子供達のために戦えるか?」とアムロに問う。更に念を押す「君の仲間とでも?」
アムロとドアンの共通点として、2人共圧倒的なエースパイロットであり、恐らく仲間に背中を預けることはなく、戦場では常に孤独なのだ。その証左にドアンは部隊を脱走し、アムロは無線を切った。
劇中では、ホワイトベース隊はガンダムと合流する前にサザンクロス隊によって壊滅したため(スレッガーのGMズルいw)、ホワイトベース隊とドアンザクが会敵した場合、アムロがどちらの側に付いていたかわからない。
いわゆる『ファーストガンダム』本編の話になるが、アムロはララァとの邂逅で「あなたには守るべき人も守るべきものもない」と言われてしまう。島の子供達がアムロの“守るべき存在”となったなら、アムロの戦う目的は変わっただろうか。
しかし実際は、アムロはジオン軍とのみ戦い、ホワイトベースへと帰った。何よりブライト麾下ホワイトベースの仲間は、軍規違反を犯してまでアムロを救出に来た。ドアンザクを処分したのは、仲間に対するケジメでもあったろう。
ドアンにとってのサザンクロスとは違って、ホワイトベースはアムロの居場所となっていたのだ。このアムロの未来も、きっと「僕には帰れる所があるんだ」という台詞に続いているんだと思う。
宇宙世紀のプロトタイプ
資源の乏しい閉鎖環境で、教祖的に振る舞うドアンの姿。作品の世界設定である宇宙世紀に照らしてみた場合、何かを彷彿とさせはしないだろうか。
そう、宇宙移民(スペースノイド)の民族運動を率い、ジオン共和国を建国したジオン・ダイクンの立ち位置と重なるのだ。奇しくも、原始生活と自給自足を旨とするククルス・ドアンの島は、地球の環境保全とコロニー国家の独立を訴えたジオニズムとも通ずる。
ジオン公国がMSという圧倒的な軍事力によって自分達の独立を承認させたように、この島はドアンザクの図抜けた強さでもって守護されていた。ジオンの逆襲が弾圧されたスペースノイドの怨嗟に支えられていたのだとすれば、戦災孤児達の悲鳴がドアンを突き動かしていたのではなかったか。
では、ククルス・ドアンの戦いを一年戦争のプロトタイプと見た時に、ガンダムを駆るアムロの役割とは一体何だろう。
まず、アムロは狭間の存在ということだ。ホワイトベースとククルス・ドアンの狭間。パイロットのドアンと島の子供達の狭間。組織の中でアムロを遇するしかないブライトと、自分と同じ孤独な戦士の道を歩ませようとするドアンの間で、アイデンティティを自ら選び取っていく他ない。
そして、ガンダムという強大過ぎる力。仲間であるホワイトベース隊が傷付き倒れ、弱者達の代弁者だったドアンザクが戦闘不能に陥っても、最後まで戦場に立ち続け、荒れ狂う暴力を終息させる力。ロボットアニメの主人公という、世界の悪意に自らの意思で対抗し得る唯一の存在。
戦争の臭いを消すと言って、戦えなくなったドアンザクを投げ棄てる、本作もう1つの名シーン。たとえ子供達に恨まれようが、戦い疲れた兵士の遺志に共感し、その思いを遂げようとする。アムロは、自らの力をそのように使ったのだ。
自らは血腥い気配をより色濃く纏いながらも、戦争が生み出す哀しみを誰より長く背負い続け、戦いに憑かれた人々を戦後の生へ連れていく。宇宙世紀の麒麟児としてのアムロの姿が、そこにはあった。
アムロの到来によって、ククルス・ドアンの戦争は終わりを告げ、新しい時代を象徴する子供達と共に歩む、より人間性に即した生が始まる。安彦良和は、血みどろの宇宙世紀にもあり得たかもしれないそんな希望を、『ククルス・ドアンの島』という作品に仮託したかったのではないだろうか。