現代に望まれるヒーロー映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

 

 『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が公開され、筆者も先日鑑賞してきました。この『ノー・ウェイ・ホーム』を以て、ジョン・ワッツスパイダーマン3部作は完結になります。

 ジョン・ワッツスパイダーマンは、思春期の少年がヒーローとしての1歩を踏み出すまでを描いた青春映画であり、その青春の結末という意味で『ノー・ウェイ・ホーム』は大変素晴らしい映画でした。ただその反面、シリーズの完結編として本作を見た時に、「これで終わり?」という消化不良な気持ちもありました。

 なので、『ノー・ウェイ・ホーム』がどういう作品であり、自分が何を見て満足したか、どういうものを自分は期待していたのかについてこの場で書き記し、自分なりに思いを整理することにしました。

 まだ公開日から日が浅いということで、本稿前半ではネタバレを回避しつつ、これから見る人のために、ジョン・ワッツスパイダーマンがどういう物語だったのかをおさらいしながら、『ノー・ウェイ・ホーム』がどういう物語へ着地するのか、その補助線になるような記事を目指したいと思います。

 一方後半では、具体的な描写の内容にも言及しながら、私が気になった点を指摘していきたいです。なので、ネタバレを本作未視聴の方は、前半でブラウザバックを推奨します。特に本作は、仕掛け自体に面白みの1つがある作りなので、内容は知らずに視聴する方が望ましいです。

 

『ホームカミング』について


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 旧シリーズのサム・ライミ版、マーク・ウェブ版と比べてジョン・ワッツスパイダーマン最大の特徴は、トム・ホランド演じる主人公ピーター・パーカーの年齢が最も低く設定されていること。本シリーズ3作品を通してピーターは高校生であり、ヴィランと戦うヒーロー映画として側面ももちろんあるものの、少年が大人の階段を上るティーンエイジャームービーとしての要素が色濃い。

 この年頃の男の子が抱く最大の関心事は、ズバリ恋愛。と言っても、シリーズのメインヒロインMJとの関係が本格化するのは2作目『ファー・フロム・ホーム』からで、1作目『ホームカミング』のヒロインはピーターの先輩で学園のマドンナ、リズ。ピーターとしての彼女との関係は、自身がスパイダーマンであることによって圧迫され、クライマックスで彼は選択を迫られることとなる。

 ヒロインのチョイスはストーリーにも反映されていて、『ホームカミング』(以降『HC』)のスーパーパワーに目覚めたばかりのピーターは、自身を認めさせようと大人の制止を振り切って背伸びし、死傷者こそ出さなかったものの周囲を危険に晒す。肉体の変化に精神が追いつこうと足掻く様は、思春期の少年の葛藤そのものの表れであり、それは年上のマドンナに憧れるピーターにも重ねられる。

 ヒーローとしてのピーターの未熟さ、そして高校生としての私生活とスパイダーマンとしての活動の対立はシリーズに通底するテーマであり、旧シリーズでも焦点となっている。ただ、何度打ちのめされてもぼやきながら立ち上がるへこたれなさスパイダーマンのヒーロー性であり、それは『HC』でも瓦礫の中から「Come on, Spider-Man!」と立ち上がる印象的なシーンとして採用されている。

 そして副題の「ホームカミング」。劇中のアメリカ版学園祭のことだが、“帰郷”と直訳すれば、ピーターがトニー・スタークの元でのアベンジャーズ“研修”を終えて、メイおばさんの待つ“ホーム”へ帰ってきた本編とのダブルミーニングになる。またED後の「Spider-Man will return」のテロップは、『アメイジングスパイダーマン2』以来途絶えたスパイダーマンシリーズの銀幕復帰を謳った意味にも取れる。

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血気に逸るピーター

 

『ファー・フロム・ホーム』について


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 本作の『ファー・フロム・ホーム』(以降『FFH』)という副題は、劇中で夏休みのピーター達が地元クイーンズを離れてヨーロッパを周遊する科学ツアーに出ていることに因んでおり、また偉大なる“父”トニー・スタークを喪って独り立ちせねばならないピーターの寄る辺なさを表してもいる。初めて会う大人達の中で、まだ若いピーターが自らの進むべき道へ1歩を踏み出すのが、『FFH』の物語である。

 本作の舞台は、アイアンマンが自らの命と引き換えに人類の脅威サノスを消し去った後の世界であり、救世主となって死んだアイアンマンの存在がストーリー展開にも大きく影響を及ぼしている。アベンジャーズ解散後の世界における貴重な戦力であり、トニーの秘蔵っ子でもあったスパイダーマンには周囲からの大きすぎる期待が寄せられており、ピーターはその重圧を恐れヒーローの責務から逃げ出してしまう。

 ミステリオはその弱みに徹底的に付け込んでピーターを追い詰める。しかし、悪い大人に打ちのめされたピーターを救ってくれたのは親切な大人達。そしてその代表ハッピー。大衆の求める理想のヒーローなんて、誰もなれやしない。それでも君を信じる人のために戦えるなら、君はヒーローだ。ハッピーの言葉で自信を取り戻したピーターは、己の力で立ち向かうことを決意する。かつてのトニーのように。

 前作ラストで遂に名を明かしたMJが、晴れてヒロイン昇格。冒頭からピーターは彼女にゾッコンで、この科学ツアーを機に彼女との関係を確かなものにしようと考えている。MJは個性的な女性で、リズと最も違う点はピーターを見てくれていたこと。用意した完璧なプランは破綻し、プレゼントのペンダントも割れてしまったものの、欠点がある方が好きと結ばれる2人は本作を集約したシーンになってる。

 ジョン・ワッツスパイダーマンは、スーツがピーターの状況を示す演出として機能する特徴がある。ハイテク・スーツをトニーに没収されたピーターは、初心を取り戻しアマチュア時代のホームメイド・スーツでバルチャーに挑む。アイアン・スパイダー・スーツの重圧に耐えられなくなると、ステルス・スーツで活動したが、自身のヒーロー像を見出だすと自作したアップグレード・スーツに身を包んだ。

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『ホームカミング』の応答にもなってる

 

 そして、ジョン・ワッツスパイダーマン最終章『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、間違いなくこれらの作品の続編となっている作りです。上記の内容を読んで興味を持たれた方なら、見に行って損はないと思いますよ‼️

 

↓↓↓ここから先、ネタバレを含みます↓↓↓

 

 

 

『ノー・ウェイ・ホーム』について


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スパイダーマン映画への愛に満ちた作品

 俺自身のスパイダーマン遍歴は、サム・ライミ版3部作、マーク・ウェブ版2作、アニメの『スパイダーマン:スパイダーバース』、そしてTVシリーズの『アルティメット・スパイダーマン』を見た程度だけど(今作について行けたのは特に最後のがデカかった気する)、その俺からしても『ノー・ウェイ・ホーム』(以降『NWH』)のスパイダーマン映画救済仕様には、監督のスパイダーマン愛をひしひしと感じた。

 特に、シリーズの中でも不遇とされるマーク・ウェブ版の救済がファンからしたら涙で、マーク・ウェブ版で主人公ピーターを演じたアンドリュー・ガーフィールドトビー・マグワイアトム・ホランドに感謝を告げるシーンは思わず胸が熱くなった。クライマックスの1番美味しい所を持っていく歓待ぶりは実質この映画の主役と言っていい。もはやこれ幻の『アメイジングスパイダーマン3』やろ。

 その救済はヴィラン達にも及んで、『NWH』はああいう展開になる。思えば『HC』ではバルチャーの命を救うことに成功していて、その行動に恩義を感じたらしいバルチャーはピーターの正体を隠匿した。トム・ホランド演じた最もキュートなピーターの核として“隣人愛”を据え、それを形成するのがピーターの心の拠り所であるメイおばさんという解釈は、スパイダーマンへの深い理解がないと辿り着けない。

 メイおばさんを喪い、人生で最も深い絶望を味わったピーター。そこに寄り添うことが出来るのは、やっぱりピーター・パーカーだけなのよ。孤独なヒーローという面はスパイダーマンを語る上で欠かせない要素であり、シリーズでもそこへの言及はあったけど、自分しか頼れないピーターの最大の危機に際して、別時空の自分が助けに来る展開は唯一の正解で、わかってたとしても感動しちゃうわ。

 細かい所はもっとあるんだろうけど、スパイダーマン3人が揃って仲良くやり取りしてる姿はそれだけでほっこりさせられる。言葉なんか要らない。多分、監督もこの画が撮りたかったんでしょ。生体ウェブ弄んないであげてよ。(笑) そしてアベンジャーズに居たトム・ホランドが最年少なのに2人の指揮執ってるというね。さすが基準世界人。ちゃんと『NWH』の主人公やってた。

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『HC』のこれサム・ライミ版オマージュだよな

 

シリーズを通した構成の巧みさ

 本作は、そういうお祭り感を前面に押し出した作品であることは間違いないんだけど、シリーズ3作を通して見た時に、この『NWH』から逆算して作ったとしか思えないくらい展開がハマってる箇所もあって、おそらく『NWH』において描かれるシーンに関しても部分的には、『HC』の段階で製作陣の中にビジョンがあったんだと思う。1から10までファンサービスに振り切ってるわけじゃない。

 ジョン・ワッツ版3部作は“本当の自分を知って欲しい”という思春期の悩みに集約されると言っていい。『HC』冒頭でカメラを回すピーター。ネッドに正体バレした時の「スパイダーマン? YouTubeの」。それが『NWH』でスマホを向けられる現代的なシーンに繋がる。等身大ヒーローはネットの有名人に対する好奇の視線には晒されても、真に望んだピーター自身を見てくれる相手を得ることは叶わなかった。

 ベンおじさんの不在がこうして回収されるか。ベンおじさんの死はスパイダーマンにとって重要な通過儀礼で、それを経験してないトム・ホランド演じるスパイダーマンは確かにヒーローとして未熟な面が強調されていた。『HC』でデルマーさんが九死に一生を得たがあそこが分岐点で、過ちの咎を受けなかったピーターは、結果メイおばさんの死を経験するまで喪われる命の実感に乏しいままだった。

 それも納得なのは、そもそもMCUスパイダーマンの誕生は『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカだから。ヒーロー自身の負う責任を重視したキャプテン・アメリカ。彼の盾を奪って始まった物語は、ドクター・オクトパス改心の舞台に見立てられた同じ盾の上で帰結する。最後には私怨を捨てたトニーのように、愛する者達との時間より世界の平和を優先する自己犠牲を、スパイダーマンは選択した。

 この『NWH』は『スパイダーマン:ワン・モア・デイ』を下敷きにしたものだが、『ワン・モア・デイ』も『シビル・ウォー』の顛末を描くものなので、MCUスパイダーマンの帰結としては完全に正しい。『HC』の時点でピーターは望んだ恋を失っているので、3部作の企画が動き出した段階で製作陣には、偉大な救世主と対置される『NWH』の孤独なヒーロー像の構想があったんじゃないかと思う。

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アイアンマンとスパイダーマンの対比
過去最高にエモいスパイダーマン

 ぶっちゃけ『NWH』はエモい。エモエモのエモ。ただ、そのエモさで誤魔化して答えるべき問いをスルーしちゃってない? ジョン・ワッツ、前作、前々作で通してきた縦軸を今作では取っ払っちゃってるじゃん。こういう作りである以上、作品単体としては満足でも、シリーズの完結編って言われるとどうしても納得できない部分が出てくる。以下、その点を具体的に見ていく。

 まず、スパイダーマンを象徴する台詞ながらここまで使わず取ってあった「大いなる力には大いなる責任が伴う」。間違いなくアガるシーンではあるけど、ピーター自分で辿り着いちゃうの? ジョン・ワッツ版はベンおじさんよりメイおばさんが存在感増すことで“親愛なる隣人”の面を強調してたように感じてたんだけど、結果メイおばさんもベンおじさんの役割に回収されちゃうのかよ。

 ベンおじさん不在のMCU版では、トニー・スタークがピーターの父親役。『HC』『FFH』のヴィラン達はスタークに職を奪われた一般人であり、今までの戦いはトニーの負の遺産を引き受ける“父”を超える戦いという意味があった。だのに別時空からヴィラン呼んじゃう?*1 救世主アイアンマンの影に踏み込む展開はMCUで描く意義あるし、等身大ヒーロースパイダーマンが背負う必然性もあると思ったんだけど。

 さらに『FFH』のヴィラン、ミステリオは怪物と戦う救世主の幻影を見せ、「大衆が欲しいのは信仰で、真実じゃない」という言葉を遺した。これはスパイダーマン、延いてはMCUを含むヒーロー映画そのものを転覆させる自己批判であり、一件落着と思った彼の死と共に、EDクレジットでその爆弾は炸裂する。ここまで大上段に前振った、そのアンサーを見せてくれるのが『NWH』なのだと期待した。*2

 ところが、親愛なる隣人を貫いて市井の人々の方を向いてきたスパイダーマンが人民の敵に認定されるというこの窮地は、歴代ヴィランとの戦いの内に有耶無耶にされる。そりゃデアデビル*3が付いてくれれば裁判には勝てるだろうけど、いいのかそれで? 劇中の一般市民から親愛なる隣人は不可視化され、ヴィラン軍団から街を救うスパイダーマンを見た我々は満足する。ミステリオのかけた幻影は未だ解けない。

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アイアンマン批判の物語じゃなかったの?

 

ジョン・ワッツスパイダーマンの目指したもの

 確かに本シリーズがどこまで統一感意識してたかは怪しく、重要キャラのハッピーも『HC』ではトニーとの仲介役、『FFH』ではピーターのメンター、『NWH』ではメイおばさんのファンと作品毎に立ち位置変わってる。*4個人的には『HC』のカレンが消えたのが残念で、スパイダーマンの独り言設定をカレンと喋ってたって解釈面白いと思ってたのに、まさか友達1人もいないからになるとは。

 2作通じて緑色の印象付け*5で『NWH』のボスがグリーン・ゴブリンなのは納得だけど、ヒーローに殺人唆すとどうしても『ダークナイト』のジョーカー思い出しちゃう。ジョーカーも緑だし。まあ、サム・ライミ版グリーン・ゴブリンの役回りバルチャーでやっちゃったから仕方ないけど。あとスパイダーマンに寄り添えるのはスパイダーマンだけって、エモいけどつい最近『スパイダーバース』で見ちゃったしな。*6

 以上のことから、作劇的にも過去2作より粗が目立っていて、アルフレッド・モリーナやウィレム・デフォー名優の演技頼みで強引に仕上げた印象をどうしても受ける。製作にあたってもゴタゴタが漏れ聞こえてたし、そうした大人の事情が作品に影響したのでは。そうでなかったとしても、作品外の状況を邪推させてしまっている時点で、完成度としては一段劣っていると言わざるを得ない。

 邪推ついで、どういう話ならジョン・ワッツスパイダーマン完結作として納得出来たか夢想してみたい。こっからは完全に俺の与太なので聴きたい人だけ。まずイーディス放置がない。フューリーがスクラル人送ってまで渡したのに、これじゃ完全にマクガフィンじゃん。MITのくだりでうだうだやってる尺あったら、イーディスと人民の敵を組み合わせてもっと面白く処理できたやろ。*7

 イーディスに陥れられ、あまつさえ殺されかけたブラッドは、力の犠牲者である本シリーズのヴィランの素地がある。逆に『HC』でピーターの影であり『FFH』で改心したフラッシュは、家族のわだかまり解いてピーターを助ける。「速いだけじゃダメ」が「早く大人になった」で回収される。*8ベティとネッドの「別れても思い出は消えない」はモロ『NWH』。『FFH』の展示組が絡むのアツくない?

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キャップは凄かった

 

 とまあこういう風に、作品として思うところは色々あったわけだけど、スパイダーマンファンが見れば絶対満足する映画になってるのは間違いない。てかそこを目指した作りになってる。俺も見たかったものではなかったけれど、こんだけ長いブログ書きたくなるくらいには楽しめたので、みんなでこのお祭りに参加しましょう。

 

 

*1:ノーマン・オズボーンも確かに“父”ではあるけど。

*2:単なるオチとして処理したり、放り投げるにはあまりに大きいフリと感じたのは俺だけか?

*3:ジョン・ワッツ版はこういう小ネタがかなり多い。

*4:『FFH』の登場の仕方とか、バットマンのアルフレッドっぽい。

*5:『HC』でバルチャーが娘の父親からヴィランの顔に変わる時、信号の緑の光が映り込む。ミステリオは言わずもがな。

*6:『スパイダーバース』1番好き。

*7:デアデビルとアーク・リアクターのくだりは、ドクター・ストレンジ同様MCUシリーズの前振りかもしれん。にしても序盤が無意味すぎて、前半のテンポ自体が悪くなってる。

*8:サム・ライミ版でもピーターが『シャザーム‼』って叫ぶシーンあったよね。