『ゾンビランドサガ』が最後まで素晴らしかったという話

 

 『ゾンビランドサガ』の放送が終了しました。まだこれから、やが君、グリッドマンの最終回が残っていますが、現時点で自分個人の感情として、クライマックスの盛り上がりは今期一でした。なので『ゾンビランドサガ』のどこがそんなに良かったのか、興味があれば少しお聞きください。

 

 アイドル×ゾンビ

 『ゾンビランドサガ』は、アニメのMAPPAと音楽のエイベックス、メディア展開のCygamesの共同企画となっております。今年Cygamesが携わったアニメとして『ウマ娘』も好評を博しましたが、『ゾンビランドサガ』はそれに勝るとも劣らない爆発力を発揮したと思われます。私個人として今年Cygamesアニメへの信頼が構築されました。

 わざわざ『ウマ娘』の話をしたわけは、『ウマ娘』は史実と物語の組み合わせ方が抜群に良かったんですよね。及川監督のギャグセンスでキャラクター同士の関係性を見せた後に、本物の競馬の感動を持ってくるんで絶対的に胸を打つんですよ。その点で、『ゾンビランドサガ』も似た部分あると思うんです。

 本作はゾンビになった少女達が、アイドルとして再生することで、彼女達の舞台である佐賀そのものを再生するというお話です。(地下)アイドル×ゾンビっていうのは、実はそこまで珍しいジャンルではないんですが、ともすれば両者のB級的な表層をなぞっただけに終わってしまいがちなものも少なくなく、そこに本物のドラマをくっつけるか、あるいはコラージュのセンスが要求されるところだと思います。

 私にとっては境宗久監督×高梨康治音楽で実質プリキュアということは置いておくとしても、本作もハイテンションギャグアニメのトーンで見せながら、キャラクターごとの物語と、そこで築いた関係性からクライマックスを演出するという構成がまず素晴らしく、そしてそのドラマがきっちりゾンビであること、アイドルであることを回収するものになっているというのが本作の最大の魅力であると思います。

 

 死んでも夢は叶えられる

 ゾンビであることがドラマを成立させているとはどういうことか。彼女達にはそれぞれ生きている時に抱いていた夢がありました。しかし、“死”という極端でありながら絶対的な挫折によりその夢は潰えることになります。全12話のストーリーを通して、彼女達は一度は断たれた夢を、死んでも諦めきれなかった思いを果たすために、アイドルとして舞台に立つことになります。

 生前に見た夢の中の未来は、悲劇に見舞われることのない祝福された世界だったと思います。でも現実は、彼女達を夢から隔てました。ゾンビになった経緯はわかりませんが、彼女達は巽幸太郎にプロデュースされることでアイドルとしての生を歩むようになります。祝福されない運命だったとしても、思いがある限りステージで自分を表現し続けるのがゾンビアイドル「フランシュシュ」です。

 今は、地下アイドルと呼ばれるライブアイドル全盛の時代です。「フランシュシュ」のようなご当地アイドルも、ライブアイドルのカテゴリに入ります。アイドルの見せ方として、逆境を除ける姿というものがあり、地下アイドルの子達はしばしば“周囲を見返したい”ということを語ります。そういう意味では、『ゾンビランドサガ』は死というドン底から這い上がってきた女の子達の物語であり、間違いなくアイドルの物語と言えるでしょう。

 そして「フランシュシュ」はライブアイドルであり、グループアイドルでもあります。グループアイドルのメンバーはそれぞれの個性を際立たせるように存在し、彼女達一人一人が個別の物語を有しています。異なった過去を経験し、別々の思いを抱いて「フランシュシュ」になった彼女達が、共通の目標を見つめて同じ時間を共有することによって芽生えた絆によって、一人では乗り越えられなかった困難に打ち克つ力を得るというのも、現代のアイドルシーンを映していると言えるのではないでしょうか。

 彼女達が経験した“死”という断絶は決定的なものであり、それはゾンビとなって甦ったからと言って取り戻せるというものではなく、「フランシュシュ」のメンバーも過去の人生をそのまま続けられるわけではありません。ゾンビになる前の、言ってしまえば“普通の女の子”にはもう二度と戻れるものではないのです。それでも捨て去ることができなかった、しがみついていたい、単なる夢というよりも執念に近い思いを果たすために、彼女達はステージに立つのです。「フランシュシュ」が見る景色は、過去に見た夢の続きではなく、紛れもなく“今”の彼女達が踏み出した世界なのです。

 

 源さくら

 そしてその姿を最も体現していたのが、「フランシュシュ」1号、源さくらだったと思います。グループを引っ張る存在だった彼女は、実は記憶喪失で生前の記憶がありませんでした。 その彼女が終盤記憶を取り戻すと、誰よりも人生を諦めた少女になります。

 舞台に立ちたくないという彼女に、同じく挫折を経験し、それを乗り越えた存在として仲間達が励まそうとします。そこにコメディリリーフ的立ち位置だったキャラクターも加わります。この辺りの巧さは本気で痺れました。さらには、記憶がなかった頃の自分を推してくれていたファンにも後押しされます。自覚はなかったとしても、彼女の過ごしてきた時間、伝えてきた思いは全くの無駄ではなかったことに気付かされます。

 自らの心を閉じ込めて封印しようとするさくらに、「フランシュシュ」のメンバーは、うまくやるためにアイドルをやって欲しいわけじゃない。他ならぬさくらだからこそ、一緒にステージに立ちたいんだということを言います。本番当日、悪天候にも負けず集ったファン。さくらが不安な顔で踊る中、ステージ崩壊。諦めかけたさくらに、執念で立ち上がるメンバー。この日の「フランシュシュ」は、大切なもののために絶対に絶望しない姿を見せなければならなかった。メンバーとの絆でさくらは笑顔を取り戻す。

 そして、さくらを最も支えたのがプロデューサーの巽です。そもそも「フランシュシュ」のメンバー達をアイドルとしてステージに立たせたのも彼です。無茶苦茶なようでいて、佐賀でご当地アイドルを流行らせるという無茶に本気を懸けられる男です。なぜ彼がそんな無茶をやろうとしたのかはっきりとはわかりませんが、どうやら生前のさくらがアイドルに惹かれていたことを知っていたようです。想像になりますが、生前のさくらに惹かれた巽がさくらの夢を応援したいと思ったのかもしれません。

 『ゾンビランドサガ』がこの描写を持ってきたことが、私的には感動のクライマックスでした。現代のアイドルシーンでは、地下アイドルと呼ばれる少女達が数多く存在します。彼女等とこれまでのマスメディアが作り上げるアイドルが違うのは、その気があれば誰でもアイドルになることができることです。名前を呼んで笑いかけてくれたさくらは、その瞬間、巽にとってのアイドルとなったのではないでしょうか。

 なんとなればさくら自身、生前に見た同じ「フランシュシュ」のメンバーである水野愛の姿に魅了されたことが、アイドルに憧れるきっかけでした。ステージを見上げるだけだったさくらが、水野愛のファンになったことで、今や憧れのアイドルと同じステージに立つようになったのです。同世代の女の子に夢を与えて変えてくれる存在というのも、ステージを隔てた此方と彼方が隣接する現代のライブアイドルシーンが拓いた可能性と言えると思います。

 また誰でもなれる反面、その実存には客観性がありません。実態としてアイドルとそうでない存在を分けるには、ファンの存在が必要不可欠です。地下アイドルのファンは、アイドルをアイドルとして成立せしめる存在の一つなのです。さくらに前を向かせてもらった巽は、今度はさくらを支える存在になろうとしたのではないでしょうか。自分を信じられないというさくらに、グレンラガンの兄貴ばりの台詞で叱咤し、ステージ崩壊時も巽は「フランシュシュ」が、さくらが立ち上がることを信じて手拍子を鳴らします。ここも、現代のアイドルシーンのアイドルとファンの関係性を反映したものと見てとることができるような気がします。

 

 おはよう世界

 ゾンビとは、意思のない無個性な存在とされます。夢を追いかけて挫折し、絶望した少女達はまさにゾンビかもしれません。しかし、アイドルになるということは、意思を見せるということです。アイドルを名乗った瞬間、ゾンビは新たな存在へと生まれ変わるのです。そしてそのアイドルに魅了された存在が、そのアイドルのファンとして今までと違う人間に成り変わります。そうなったらもう、その少女は無個性なんかじゃあり得ない、今を生きて世界から必要とされるその人自身です。挫折の沼に沈んでいた少女が夢を抱いて起き上がった時、彼女は「おはよう世界」と言うのでしょう。

 山田たえの過去などのまだ明かされてない謎や、3号4号6号の身バレどやんすの?って感じでまだまだアフターストーリー描けそうな内容も残しながら、アイドル×ゾンビをこれほど重厚に描いた作品が、ライブアイドルを生み出した平成という時代が終わろうという年の締めくくりに放送されたことに大変感謝したいです。