『劇場版 幼女戦記』感想記事

 

 『劇場版 幼女戦記』を見たので、その感想記事です。

 公開からだいぶ経ってるので、ネタバレ全開で行きたいと思います。未見の方は、ブラウザバックを。

 尚、元々Twitter用に書いてたものなので、要点を端的にまとめただけの短い記事になります。構えず、気軽にサクッと読んでいただけると幸いです。

 

『劇場版 幼女戦記』(2019)

作品概要

 論理と知性で快進撃を続ける主人公へ襲い掛かる、狂気と妄執の行軍。

 今回の敵メアリーとロリヤの異常性が物語を駆動し、続き物ながら1本の映画として完成してる。

 参謀本部がターニャを持て余す、TVシリーズにはない描写入ったのは新鮮。

 ターニャの幼女性が物語の核と、改めて実感した。

第1幕 方向性提示

 まずは、セッティングの巧さ。

 冒頭、戦後の談話で映画全体に緊張感がもたらされる。(“ドクトル”登場ヤッター‼️)

 楽勝に見えた南部戦線が、敵の策で一転窮地に。

 からの、敵陣強襲作戦。

 乱戦描写で序盤の引きを作りつつ、ターニャの機転と、彼女の率いる二〇三大隊の頼もしさをアピール。

 我等が主人公に待ち受ける苦難と激闘、そしてそれに対する勝利を観客に期待させる。
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第2幕 敵対者の顔

 こっから本編。東部戦線へ導入。

 本作の敵、ロリヤとメアリーの姿が描かれる。

 ロリヤは、粛清人事でまともに機能しない軍隊を作り上げた張本人。

 夢見て上京した田舎娘風のメアリーは、軍隊では明らかに異質な存在。

 人的資源を軽視する政治屋と、復讐を行動原理とする狂信者は、どちらもターニャの倒すべき敵である。

 一方でターニャも、その純粋過ぎる合理主義と慢心による茶目っ気から、参謀本部の思惑を外れ、血みどろの死闘へ足を踏み入れてしまう。
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第3幕 忍び寄る影

 浮かれるニ〇三大隊に対して、メアリーから存在Xの影を感じ取ったターニャの気は晴れない。

 観客も、これから始まる試練を予感する。

 そんな中、ターニャは参謀本部の敵北面遊撃指令と東部方面軍からの救援要請を同時に遂行する作戦を立案。

 敵陣に孤立した重要拠点防衛に向けて、ニ〇三大隊は進発する。

 周囲の敵兵を蹴散らし、任務完了したかに見えたが…
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第4幕 狂宴の開幕

 ターニャ捕縛に執念を燃やすロリヤが、戦略性度外視の大規模攻勢を敢行する。

 序盤で一捻りにされた連邦軍だが、その機能不全こそが為せる無謀な力押し。

 死屍累々を築きながら、一昼夜絶えず押し寄せてくる歩兵の波を前に、流石のニ〇三大隊も消耗の色を隠せない。

 そこへ本命。敵航空戦力が到着。

 拠点防衛には、爆撃阻止が必須。作戦目的は、地上部隊の掃討に加え、こちらを狙ってくる敵魔導士を迎撃しつつ、護衛の戦闘機群を速やかに排除し、最優先で爆撃機の撃破へと変更。

 またターニャは、異次元の魔法力で突貫してくるメアリーを引き付けるため部隊を離脱。

 戦局は、ニ〇三各隊負傷者が続出する正念場へ。
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第5幕 復讐鬼号叫

 本作の見せ場。クライマックスの空中戦。

 メアリーの正面ガチガチに固めて突貫ってスタイル復讐鬼っぽくていいし(『マッドマックス』感)、繰り出すのがレーザー砲なのも化物感煽ってる。

 動力と火力で上回る相手を市街戦に誘導するのも定石で、冷静になったターニャが相手の力を利用して好機作るという、エンタメとして完璧な流れだった。
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第6幕 修羅の戦場

 ただ、それで終わらないのが戦争の狂気を描く本作。

 武装を全て失っても身一つで殴り掛かるメアリーに、ターニャは一撃KO。生身では非力な幼女だという事実を思い知らされる。

 激情に任せて力を振るうメアリーの隙を、強かに狙っていたターニャ。

 妄執に終わりを告げる今一歩のところでドレイクが割って入り、決着は水入り。

 策戦は、二〇三大隊の奮戦で帝国が勝利した。
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真の勝者

 実は、本作でメアリーと対比されてたのはヴィーシャ。

 私怨に囚われ軍紀無視で独走したメアリーは、策戦に失敗し、追い詰めたはずのターニャを殺し損ねた。

 逆に、連邦への禍根から自由なヴィーシャは、常に作戦を完遂し、連邦に打撃を与え、カードにも勝つ。

 メアリーにヴィーシャ程の胆力があれば、あるいは念願も成就したかもしれない。
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幼女戦記

 勝利を続けるターニャだが、その卓抜した能力が災いし、念願の内地勤務だけは叶わない。

 本作も、一時的に成就したかに見えたのは、更なる転戦辞令への準備期間に過ぎなかったというオチ。

 ターニャは、それ自体は手段のはずの勝利に慢心するきらいがあり、そこが彼女の弱点かもしれない。

 ヴィーシャと違い、適応そのものを目的化出来ないのは、そこがターニャの(純粋すぎる)“幼女性”と言えるのではないか。

 『幼女戦記』とは、圧倒的理不尽な状況に放り込まれた主人公が、自身の高い能力によって勝利を続けながらも、観念の自由の中に安息を求める限り終らない、戦いの記録なのだ。
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感想総括

 以上、配された登場人物の魅力と観客を引き込む作劇で、自由を求める真の戦いまで導いた本作は、紛うことなき傑作だった。

 今後の展開としては、人の情動が理解できないはずのターニャが、部下には篤く慕われているので、参謀本部との距離感も描かれたことだし、ターニャのカリスマが剥がれた時の戦いもちょっと見てみたいと思った。
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宇宙世紀のプロトタイプ 安彦版『ククルス・ドアンの島』感想

 

 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』の特別上映を見てきたので、その感想をまとめました。一年戦争史(ガンダム全体)におけるスピンオフ的な位置付けかと思いきや、安彦版の味付けによって宇宙世紀の縮図とも言える構図にまで発展させていたので、その辺についても言及したいと思います。

 まだ上映中なので一応ブログにしましたが、Twitterの雑感と同じ軽いノリだと思ってください。ネタバレ全開なので、映画の内容を知りたくない方はブラウザバックを推奨します。

 

 

 

 

ククルス・ドアンの島』は孤島サスペンス

 冒頭、闇の中で逃げ惑うジムにヒートホークを掲げたドアンザクが襲い掛かる。

 ガンダムと言えばロボットアニメだが、この導入でもわかるように、本作は全編に孤島サスペンスの色合いが強い。TVシリーズでは素手だったドアンザクに斧を持たせたのも、ドアンの猟奇性を醸している。

 『ファーストガンダム』の中でも異色回である「ククルス・ドアンの島」という題材を調理するのに、今まで見たことない手法を用意してきた。この時点で本作に対する期待度は一気に高まる。

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安彦ガンダムのキャラクター

 ただ、そうした手法の斬新さはあるものの、個人的にこの映画のセッティング、起承転結における起の部分に取っ付きづらさを感じたのも事実で、その点を整理しておきたい。

 1つは完全に自分の問題で、恥ずかしながら安彦ガンダムの『オリジン』をアニメ版しか拝見していなかったので、安彦版ホワイトベースに馴れるのに時間がかかってしまった。

 映画であれば、前提知識を必要とするキャラクターの立て方は個人的にマイナス評価になり得るが、今回はファンへの意識が強い特別上映なので、予習していくべきだった。

 勿論、ガンダム初見の方のことも考慮されており、ファンにはお馴染みのキャラクターでも全員台詞で名前が明示され、1人1人キャラクターを表現する芝居が付けられている。

 今の目で見ると少しバタ臭く感じる人もいるかもしれないが、昔の『007』を見てるようなこういう芝居は嫌いじゃないので、個人的には好感が持てた。

 しかし、ホワイトベース隊、ドアンの島の子供達とキャラクター数もそれなりにいる中でいちいち芝居が付いているため、セッティングが終わるまでは少々テンポの悪さを感じてしまったことも否めない。(残置謀者の説明そんな要るか?)

 登場する子供達1人1人に愛着が持てる作りなのは結構だが、もう少し芝居や台詞を端折るか、中盤以降に役回りをズラしても良かったかもしれない。この辺は、“描く人”の安彦良和と、“切る人”の富野由悠季の差か。(TVシリーズの方が優れていたという意味ではない)
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父性の対比

 キャラクターの味付けという部分で、TVシリーズでは、若干19歳ながら分不相応な重責を担わされ気張る(気を抜いたらセイラさんに窘められる)姿が目につくブライトさん。が、本作ではミライさんとのやり取り等、所帯染みた感じを出されている。

 これは父性として、ドアンとの対比を意識してのものだろう。

 ジオンより規律の緩い連邦軍においても、組織に縛られるブライトはホワイトベース隊への父性を十全に発揮し得ない。

 一方の脱走兵となったドアンは、子供達の絶対的な父として役割を全うしている。あたかも島の中にしか世界が存在しないかのような隔絶された共同体で、宗教の教祖のように振る舞うドアン。そしてそれが、サスペンスへの呼び水となっていく。
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ドアンの軍帽

 ドアンの島で、連邦軍の制服を着るアムロに居場所はない。自分の居場所であるガンダムを探そうとするが、ドアンに認められることで子供達から敵意の目を向けられることもなくなっていく。

 ガンダムを失った場所に気付いた時、アムロはジオンの紋章の入った帽子を被っている。これは解釈の余地があるだろうが、個人的にはアムロがドアンの戦争を追体験した意味合いではないかと思う。

 戦いの果ては奈落に続く道しかない。それを悟り、戦いの意味を見失ったドアン。ガンダムを失ったアムロも、その寄る辺なさの一端に触れたのでは。

 暗闇に取り込まれそうになったアムロはスコールに見舞われる。文明から隔絶したドアンの島において、スコールは恵みの雨。ドアンにとって島の子供達の存在が、渇いた心を癒すオアシスになっていたのではないだろうか。
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島を被う翳

 戦争を遠ざけてるはずのドアンは、アムロを島へ迎え入れた。少年兵だったアムロを子供達と同一視したからだろうか。では何故ガンダムを破壊しなかったのか。それがサスペンス要素、ドアンの裏の顔に繋がってくる。

 一見長閑に見えるこの島は残置謀者であり、恐らくドアンは“力ずく”で任務を引き継ぎ、前任者になりすますことで子供達に平穏な生活を与えていた。潜伏のために灯台を消し、外界を隠して教祖として振る舞った。

 ガンダムを破壊しなかったのは、戦災孤児アムロではなく、パイロットとしてのアムロを欲したからだ。ドアンは、乗機ザク同様戦いで傷付いた自分の代わりに、子供達を守る役目をアムロに引き継がせようとした。島を守るためにMSの力が必要なことを、ドアンは誰よりもわかっていたのだ。

 戦争を否定するためにMSを必要とするドアンの矛盾。その翳に覆われた姿こそ、“ククルス・ドアンの島”の真実だ。
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目を瞠るモビルスーツ

 ドアンがそんな潜伏生活を続けているのには、ある目的のため。それに向けて、ドアンのかつての戦友サザンクロス隊が動き出す。

 連邦軍を圧倒するサザンクロス隊のMS戦は見事の一言。キャラクターと違って無機質ながら、確かに人の意思が動かしてると感じさせる描画はパワードスーツとしてのMSを完璧に表現していて、予告でこれを見た瞬間、劇場に足を運ぶことを決めた。

 ただ、この感動が終盤でもあると良かったんだけど、そちらは時代劇の決闘を意識した一瞬の交錯が雌雄を決する殺陣だったので、正直盛り上がりには欠けたかな。シャアと並び称された腕前はもっと見たかった。

 劇中では、「僕のガンダム」や「俺のガンキャノン」とMSを自己の延長と捉える台詞が散見する(正確には軍の)。これも、MSをキャラクターの象徴として見せていることの一端。

殺人兵器の駆動

 だからこそ、ククルス・ドアンの真の顔が明かされる終盤が際立つ。

 子供達の長兄的存在で、ドアンを父のように慕うマルコス。ドアンに認められたいと強く願う彼は、突然現れドアンに信頼されるアムロに対抗心を持つ。

 危険を怖れないと証明し、MSに乗せろとドアンに迫るその彼が、ドアンのザクを見た瞬間の戦慄。マルコスが慕っていたのはあくまで父としてのドアンであり、殺人兵器としてのドアンではないのだ。

 そしてドアンと同じ世界に立っているのは、ガンダム固執するアムロなのである。カーテンの陰から現れザクに襲い掛かるガンダムは、完全にスリラー映画の文法だ。

 その後のシーン。「相手がザクなら人間じゃないんだ」「撃つぞ…撃つぞ…撃つぞー‼️」と同じく人殺しを想起させ、べったりとした血の痕が見えるよう。アムロには、戦争の臭いが染み付いている。
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ブランカが射し込む真実

 しかし、アムロが主人公であるのは、自身が暗い翳に呑み込まれていようと、その身をもって周囲に光を指し示すからだ。

 ホワイトベース隊、サザンクロス隊が動き出すクライマックス、アムロはドアンが隠していたバッテリーを見つけて灯台を復旧し、子供達の目を島の外へ向ける。

 サザンクロス隊の迎撃に向かうドアンは、子供達に家屋から出ないよう告げる。ドアンは今までもそうして、自分がMSに乗る姿を見せないようにしてきた。だから序盤も、ドアンがアムロを襲った反対側の灯台付近で、カイのガンキャノンが子供達の姿を見る。

 ところが今回、走り出たヤギを追って子供達はホワイトベース隊、戦艦の中で逞しく生きるカツ、レツ、キッカと遭遇。更にザクで戦うドアンを目撃する。

 『ハイジ』みたいに跳び跳ねるヤギに笑っちゃったが、このヤギの名前がブランカ(白)。白と言えば、“連邦の白い奴”ことアムロガンダムではないか。

 ブランカに導かれた子供達は、ドアンが彼等に隠してきた素顔、戦争に生きる姿を知る。それでも尚、子供達にとってドアンは頼れる父であり、誰一人としてドアンを忌避する者はいなかった。

 アムロの到来によって、ドアンが隠してきた戦争は白日の下に晒され、子供達には島の外の世界が照らし出された。そして今度は、子供達自身の意思で、ドアンとの生活を選び取ったのだ。

 と、思うんだが、正直自信ない。子供しか居ないこの島では、雨水も溢すしミルクも溢す。これがドアンの欺瞞を表してるのか、余剰生産がある証なのか判別付かなかった。またアイスクリームへの憧れは文明社会との断絶の象徴だと思うけど、島の外にいるキッカもアイスクリーム食べれてないからな。

 それに、この後島がどうなるのかわからん。普通に考えれば連邦軍に接収だけど、オデッサ陥落で戦略的意義が消失すれば放置もあるのかも。ただ灯台点けたこと考えると、島外との交流が始まったと思っていいのかな。
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仲間と戦えるか?

 アムロはドアンを追体験したと書いたが、両者には明確な違いがある。仲間に見捨てられた者と見捨てた者だ。

 本作の名シーン。ドアンが「子供達のために戦えるか?」とアムロに問う。更に念を押す「君の仲間とでも?」

 アムロとドアンの共通点として、2人共圧倒的なエースパイロットであり、恐らく仲間に背中を預けることはなく、戦場では常に孤独なのだ。その証左にドアンは部隊を脱走し、アムロは無線を切った。

 劇中では、ホワイトベース隊はガンダムと合流する前にサザンクロス隊によって壊滅したため(スレッガーのGMズルいw)、ホワイトベース隊とドアンザクが会敵した場合、アムロがどちらの側に付いていたかわからない。

 いわゆる『ファーストガンダム』本編の話になるが、アムロララァとの邂逅で「あなたには守るべき人も守るべきものもない」と言われてしまう。島の子供達がアムロの“守るべき存在”となったなら、アムロの戦う目的は変わっただろうか。

 しかし実際は、アムロジオン軍とのみ戦い、ホワイトベースへと帰った。何よりブライト麾下ホワイトベースの仲間は、軍規違反を犯してまでアムロを救出に来た。ドアンザクを処分したのは、仲間に対するケジメでもあったろう。

 ドアンにとってのサザンクロスとは違って、ホワイトベースアムロの居場所となっていたのだ。このアムロの未来も、きっと「僕には帰れる所があるんだ」という台詞に続いているんだと思う。
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宇宙世紀のプロトタイプ

 資源の乏しい閉鎖環境で、教祖的に振る舞うドアンの姿。作品の世界設定である宇宙世紀に照らしてみた場合、何かを彷彿とさせはしないだろうか。

 そう、宇宙移民(スペースノイド)の民族運動を率い、ジオン共和国を建国したジオン・ダイクンの立ち位置と重なるのだ。奇しくも、原始生活と自給自足を旨とするククルス・ドアンの島は、地球の環境保全とコロニー国家の独立を訴えたジオニズムとも通ずる。

 ジオン公国がMSという圧倒的な軍事力によって自分達の独立を承認させたように、この島はドアンザクの図抜けた強さでもって守護されていた。ジオンの逆襲が弾圧されたスペースノイドの怨嗟に支えられていたのだとすれば、戦災孤児達の悲鳴がドアンを突き動かしていたのではなかったか。

 では、ククルス・ドアンの戦いを一年戦争のプロトタイプと見た時に、ガンダムを駆るアムロの役割とは一体何だろう。

 まず、アムロ狭間の存在ということだ。ホワイトベースククルス・ドアンの狭間。パイロットのドアンと島の子供達の狭間。組織の中でアムロを遇するしかないブライトと、自分と同じ孤独な戦士の道を歩ませようとするドアンの間で、アイデンティティを自ら選び取っていく他ない。

 そして、ガンダムという強大過ぎる力。仲間であるホワイトベース隊が傷付き倒れ、弱者達の代弁者だったドアンザクが戦闘不能に陥っても、最後まで戦場に立ち続け、荒れ狂う暴力を終息させる力。ロボットアニメの主人公という、世界の悪意に自らの意思で対抗し得る唯一の存在。

 戦争の臭いを消すと言って、戦えなくなったドアンザクを投げ棄てる、本作もう1つの名シーン。たとえ子供達に恨まれようが、戦い疲れた兵士の遺志に共感し、その思いを遂げようとする。アムロは、自らの力をそのように使ったのだ。

 自らは血腥い気配をより色濃く纏いながらも、戦争が生み出す哀しみを誰より長く背負い続け、戦いに憑かれた人々を戦後の生へ連れていく。宇宙世紀麒麟児としてのアムロの姿が、そこにはあった。

 アムロの到来によって、ククルス・ドアンの戦争は終わりを告げ、新しい時代を象徴する子供達と共に歩む、より人間性に即した生が始まる。安彦良和は、血みどろの宇宙世紀にもあり得たかもしれないそんな希望を、『ククルス・ドアンの島』という作品に仮託したかったのではないだろうか。
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『地獄少女』を見たので、その感想

 

 今さらですが『地獄少女』見ました。こういう胸糞悪い話のアニメは見ないことも多いんですが、せっかく頑張って見たので感想をここにまとめておきます。

 シリーズの概要をまとめるだけなので、既に見たことある人にとっては目新しい内容はないと思いますが、自分用のメモくらいの感覚なので悪しからず。

 

地獄少女

 記念すべきシリーズ第1作。OPの「逆さまの蝶」は1番好き。設定は全作共通で一応おさらいすると、“地獄少女閻魔あい率いる一行が恨みを抱えた人間の依頼で復讐を代行する、いわゆる「必殺シリーズ」同様の構造。基本1話完結。

 「必殺シリーズ」との違いは、ターゲットだけでなく“地獄流し”の依頼人にも地獄に落ちるという代償があることだが、1期の場合はターゲットが本当に救いようない下衆のことが多く、反省を促す場面があるなど勧善懲悪のテイストが強い。

 そんなシリーズに縦軸を通すのが、柴田一、つぐみの父娘で、娘のつぐみと閻魔あいの間にリンクが発生したことで、ジャーナリストでもある父の一は地獄少女を追っていくことになる。

 一の主張は単純で、復讐は何も生まないと地獄流しを否定。対して勧善懲悪の物語を見せられたつぐみは、他に縋る者がない人間の拠り所ならと復讐を肯定し、この父娘の対立がクライマックスになる。

 こうした地獄少女を間違ってると糾弾する存在っていうのが毎シーズン出てくるんだけど、彼等の主張がいつも空転するのは、閻魔あいは別に人助けで地獄少女やってるわけじゃないのよね。なんなら彼女の意思ですらなくて、謂わば地獄少女刑っていう刑に処されて懲役として仕方なくやってるに過ぎない。地獄少女はダークヒーローじゃなくてシステムの一部なんだから、間違ってるかどうかなんて議論がそもそもナンセンス。

 ここで俺の考えを述べると、浮き世に生まれた魂が輪廻転生を繰り返す中で、こびり付いた垢みたいなものが業。この業にまみれると“悪”になっていくんだけど、やがて浮き世の秩序を乱す程“悪”に染まった魂が出てくる。こうなったら最早地獄の存在に近いので、地獄流しを介して早急に浮き世から退出させる必要がある。一方で依頼人の魂も、地獄流しを頼んだ時点で浮き世に救済がないと見切りを付けてしまったので、憎悪と怨念しかない地獄の存在に等しくなり、輪廻転生の円環から外れてしまう。以上、完全に俺の妄想。

 なんで救済って観念が出てくるかというと、1期の依頼人は黒藁人形を受け取るも、代償の話を聴いて必ず躊躇するんよね。復讐せずとも生きていく道もあるんじゃないかと考え始めた依頼人に最後の後押しをするのが“善意”の第三者達。(主にターゲットに煽動された)彼等によって社会に居場所を失くした結果、依頼人は黒藁人形の紐を解く。

 依頼人を追い詰める彼等には全く悪意がなく、だから性質が悪いんだけど、ターゲットを流した依頼人が逆転してターゲットの居たポジションに収まるケースでは、依頼人を追い詰めた周囲の人間がそのまま依頼人に媚びへつらってる。初めは三藁達のアフターケアかなと思ってたけど、後のシリーズでもそうした描写はないことから、彼等は自身の加害性に無自覚だったんだろう。

 でも、だからこそ彼等の魂は怨みを溜め込み業を宿すことはない。現世っていうのはそもそも、彼等のように自分のために他者を踏みつけに出来る人間のための場所なんだと思う。浮き世の秩序が保たれるのは、そうした大多数の人々が自身の“善”性を信じてるから。彼等が“悪”に染まらないよう、業の魂を間引きするシステムが“地獄少女”。

 っていう物語だと思ってたから、鬱陶しい一にも付き合ってあげてたんだけど、最終話でシステムに対するカウンターとしての一の役割は転覆してしまった。俺が一に期待してたのは、地獄少女のシステムに守られた“善意”の欺瞞を暴き出す、綺麗事の“正義”。最終的にシステムに屈服するとしても、少数の犠牲の上に成り立つ大多数の幸福を認めない。そうした“正義”こそ、“善意”の秩序を成り立たせる最後のピースみたいな、そういう物語を期待してたんだけど。

 実際の一は自身の罪悪感から逃げてるだけで、完全に私的な動機だった。まあスキャンダルネタにセレブ強請ってる男に正義もクソもないよな。強請った金で養われてたって知ったら、つぐみちゃんこっちの方がショックやろ。まあ友人も、有名人と自分の妻の不倫スクープされた記者笑い者にされてるって言ってたし、落ちる所まで落ちたってことか。

 一が“正義”の人であり続けるためには、「自分を流せ」は絶対に言ってはいけない台詞だった。しかも、自分が楽になりたいためだけに最愛の娘を地獄の道連れとするが、どちらが子供かわからない劇中の描写同様、つぐみに赦されることで事なきを得る。主人公かに見えた一はあいと共につぐみから道を示される側に回り、仙太郎の子孫としてあいの物語に回収された。

 まあ一にも同情すべき点はあって、主義以外にもあいを止める理由あるのよね。つぐみとあいのリンクは強制で、発動するとつぐみはトランス状態となり、一切の自我を失くす。一人娘が度々意識昏倒するようになり、その原因が地獄少女にあるとしたら、父親としてはあいを追わざるを得ないだろう。

 他にも1期だと、“殺らなきゃ殺られる”っていう正当防衛的な場面で契約がなされる回があったりするから、システムへの言及はあんまり厳密に見ない方がいいのかもしれない。

 

地獄少女 二籠

 帰ってきた地獄少女。前作で記憶を取り戻したからか、ビタンビタンされて火炙りになっても動じなかった(それでも肥溜めに突っ込まれた輪入道のことは臭がっててウケた)1期に比べて、2期以降のあいちゃんは比較的人間味が増してる。特に、ウケ狙いのギャグが滑って赤くなってる激萌えあいちゃんは必見。

 1期だと改心を促したりしてたから、地獄流し前のお仕置きタイムの意味合いがよくわかんなかったけど、2期で一行が結構ノリノリでやってて見方わかった。おそらく、この瞬間だけはみんな妖術を行使して好きに人間をいたぶる自由が許されてるんよね。彼等にとっちゃ、辛い仕事の中のささやかな楽しみってわけや。

 改心を促さないのはテーマ的な話でもあって、呪う側と呪われる側が一方的だった1期と違って、“合わせ鏡の二籠”では、互いを思い合ってる2人のすれ違いが生む地獄を丹念に見せていく。どちらが悪いというのではなく、わかり合えないという人の世の無情さが、地獄流しに“救済”を見出だす。

 1期の一と同じく、2期でクライマックスを担うキャラクターが“悪魔の子”と呼ばれる拓真。『二籠』の劇中では、街中から袋叩きにされて復讐に火をつけるという過去のあいをトレースするような役割を果たし、あいが彼の身代わりに自らを街の人間へ差し出したことで、怨霊化した罪を赦されたあいは地獄少女の勤めから解放される。これにて、あいの物語としての“地獄少女”は一旦完結を迎えるのである。

 この拓真を地獄に流した少女の苗字が「飯合」。流石にここまで意図的な名付けとなると、多少掘り下げて考えてみたい。拓真(タクマ)=悪魔(アクマ)でいいとして、飯合(メシアイ)=救世主(メシア)だと思われる。悪魔を滅ぼすから救世主でいい気もするけど、本作の扱いはもうちょっと複雑で、“悪人”である拓真こそ理不尽な仕打ちを受けても復讐を否定し続けた人間であり、一方“善人”の飯合は無実の拓真を人柱とすることで地獄と化したラブリーヒルズの安寧を得ようとした。

 業や輪廻転生等、仏教的な観念に彩られた『地獄少女』の世界観でキリスト教的モチーフを扱ってること自体既に倒錯的ではあるんだけど、倫理のタガが外れた終末世界のようなラブリーヒルズでは、悪に加担しなかった者が悪と謗られ、善を望む者が欺瞞に甘んじ正義を否定する。こうした善悪の間を相対化して曖昧にする意図で、『二籠』ではキリスト教モチーフを採用したのだと思う。

 また、仏教で救世主とは弥勒菩薩に相当する。片や、地獄少女こと閻魔あいの閻魔は、地蔵菩薩の化身と解釈される。仏教が廃れた末法の世で人々を救い続けているのが地蔵菩薩であり、弥勒菩薩が現れることで救済がもたらされるのだ。この関係を本作に適用するなら、末法の世で人々の声を聞き続ける閻魔あいの苦労が、飯合の登場によって終わりを迎えたことを意味している、ということかもしれない。

 『二籠』クライマックスは、1期から続く閻魔あいサーガのオーラスとして、『地獄少女』をあいが自分の罪と向き合う物語に収束させた。しかし、現代日本に人柱を現出させるにあたって、だいぶ無理もあったと思う。地獄行きという重い業を宿す故、相当な恨みの念がなければ地獄通信には依頼できない。また、地獄通信へのアクセス後あいが依頼を受けるまでには三藁による審査があり、切羽詰まった人間でなければ依頼は成立しない。

 これらの条件があるので、地獄少女は都市伝説程度の認知度に収まっているのだが、『二籠』終盤はラブリーヒルズの住民が矢鱈目っ鱈地獄通信を使うので、数を捌くため三藁達も各々別件を抱えてフル稼働する方式だった。組織としての処理能力がパンクして、依頼を吟味する余裕などなかったはずだ。後のシリーズにおいて依頼が軽くなった印象があるのは、おそらくこの時に依頼人の精査を簡略化したからじゃないだろうか。ラブリーヒルズという地獄を作り出すために、個人的にタイトルの肝だと思っていたエピソード内の情念のドラマの部分が、ある程度後退した感がある。

 

地獄少女 三鼎

 復活の地獄少女。まあ『二籠』ラスト、あいが地獄少女から解放された直後に地獄通信が機能してるカットあったから、地獄少女が続くこと自体は不思議じゃないんだけど、あいちゃんの続投は予想外だった。『二籠』で萌えキャラ化したと思ったら、今度の地獄少女はなんと百合‼️俺ら大歓喜‼️

 『三鼎』は、代償として流した者も地獄に落ちるという、地獄流しを依頼する側の業がテーマ。『二籠』でも、呪う側と呪われる側の転倒が描かれてたけど、もっと先に進めたというか、はっきり言ってしょうもない地獄流しが結構ある。願いを叶えるドラゴンボールみたいな使い方もあるし、ペットの回とか事故で糸引いちゃってて、流石にこれはどうかと思うけど、地獄流しを依頼する時点で地獄に落ちる程の業を抱えてるってことなんだろう。

 もう一つ、1期の主要キャラだったつぐみがこの『三鼎』でも登場する。厳密には『二籠』や『宵伽』でも出てくるんだけど、『三鼎』以外はスポットなのでここで。どうやら、あいが六道郷への怨みを捨てた後も強制リンクが発生してたようで、あいの意思とは無関係だったらしい。一ちゃんの頑張りは無駄だった。

 利発で優しい少女だった1期から、『三鼎』ではだいぶ厭世的な雰囲気を醸しており、ゆずきに助けを求められても、どうせ意味ないと何もしない。頼りにならない大人の代表みたいな感じ。境遇には同情するけど、つぐみがもうちょっと親身になってればゆずきの結末も違ってたんじゃないのって気がしないでもない。まあ、おかげでゆずきとあいちゃんの百合が生まれるわけだけどね。

 人面蜘蛛の依り代であるきくりは、登場した『二籠』内では立ち位置がよくわかんなかったんだけど、『三鼎』を見る限り、基本的にはきくりとしての人格を持ったコメディリリーフって捉え方でいいみたい。普段はきくりを遊ばせてるあいから、地獄少女になれないって断言された時には珍しくショック受けてて、申し訳ないけどウケたわ。人面蜘蛛が出てくるところ、グレンダイザーのガンダルみたいだった。

 『三鼎』はゆずきの止まっていた時が終わりを迎える話だけど、『三鼎』全体のストーリーのプロトタイプになってるのが第17話「藁の中」で、あいの新しい使い魔、山童の当番回。なかなか興味深いので、ここで考察してみる。

 この回、時系列が入り組んでる上に超常的な力も絡んでるので非常にわかりにくい話になってるが、サブタイトルがおそらく芥川龍之介の『藪の中』から来ていることを考えると、意図的に真相を掴ませないようにしていると思われる。『藪の中』において重要なのは真相ではなく、嘘の告白によって登場人物が隠そうとした各々のエゴ。「藁の中」においては、山童の嘘が鍵となる。

 もう一つ「藁の中」における中心モチーフが冬虫夏草。これは、時と共に変質したものを表しているのではないかと思われる。山童に関して言えば、初めは孤独など感じなかった。それが藪の中に芦谷一家を見て、家族の輪に入ろうとした。ヒカルとして過ごしながらも、妖としての山童を欲した芦谷博士の望みを叶えるため、芦谷家を霧で包んだ。人と同じ時間を生きたかった山童の思いは、いつしか芦谷家そのものを妖と化す願いに変わっていたのではないだろうか。

 山童の願いは、自分を息子だと言ってくれた芦谷夫人が地獄流しの代償で地獄に堕ちるのを止めることだった。しかし、そもそも山童が現れなければ、芦谷夫人が復讐を願うこともなかったのだ。ヒカルの身代わりとして芦谷一家に入り込みながら、山童として夫妻から愛されることを求めて時間を歪めた。妖の力で人と関わりながら人であろうとしたために、山童は出口のない堂々巡りへ囚われてしまったのである。

 山童の作り出した欺瞞は、それが見られたことによって終わりを告げる。ゆずき、きくり、そして視聴者によって、山童の嘘は見抜かれることとなる。この“見る”という行為が本編ゆずきの物語にも絡んでる。『三鼎』の特徴である呪う側と呪われる側の転倒も、“見方”を変えればってことなのかもしれない。ゆずきの死が見られることによって、彼女の存在が女子高生に憧れた地縛霊に過ぎなかったと確定し、偽りの時間は終焉。ゆずきは決断を迫られることとなる。

 人ならざる自分を受け入れたはずのゆずきはしかし、偽りの友の復讐を選んでしまう。全てまやかしだったと告げられた後も、自身の夢見ていた時間が本物だと信じたかった彼女は、人外の力を人としての思いから使おうとし罰される。そこで助けに入る我らがあいちゃん。誰にも看取られずに死んだゆずきの孤独、そしてそれ故に人の世界へ執着してしまった彼女の業を、あいは全て見ていた。見られるということは、見透かされることであると同時に、認識してもらうことでもある。偽りの友情に縋り付いたゆずきは、犠牲を厭わず自分を救ってくれたあいの愛情で、遂に成仏出来た。百合万歳。

 『二籠』ラストから地獄通信が運営していたことを考えると、(ED的にも)ゆずきが地獄少女となるまで既に何人も地獄少女が居たと思われる。だがゆずきにお鉢が回ってきたということは、ゆずき同様彼女達は人面蜘蛛に処分されたのだろう。そもそも地獄少女刑は、怨霊化し村一つ滅ぼしたあいレベルの悪霊に対する刑罰のはずだが、そんな怨霊がおいそれといるわけなく、霊力ある少女霊を片っ端から地獄少女にしていったんじゃないか? ゆずきが行ったのは普段三藁達がやるちょっとした印象操作で、悪霊とは言えんやろ。罪を犯してないんだから、刑に服してる意識が低いのは当たり前。あいから引き継ぎ受けたゆずきはまだいい方で、人面蜘蛛のことだからきっと、今までの娘達は地獄少女の何たるかもろくに教えられないまま地獄少女にされ、掟を破ったと言って始末されてたはず。そんな一方的な処遇が何度も繰り返され、見るに見かねたあいちゃんが名乗り出たのは、少女の霊を使い捨てる人面蜘蛛への復讐心もあったかもしれない。

 そう言えば、1期のあいから生前の記憶が消えてたのは、地獄少女を遂行するための人面蜘蛛からのアフターケアかなんかなのかなと思ってたけど、『三鼎』見る限りそんな素振り一切ないことから、単にあいが忘れてただけってことやろな。あいちゃん、そういう天然な所あるから萌えるわ。

 

地獄少女 宵伽

 地獄少女延長戦。過去シリーズはどれも2クールあるのに対し、『宵伽』は1/4の6話しかないのでサクッと行きましょう。

 と言っても、正直語りづらいのよね。尺が短いのもあるかもしれんけど、過去3作に比べて『宵伽』はこれっていうテーマが見えづらい。加えて寒河江ミチルの登場は、閻魔あいという縦軸を通してきた過去作に対して明らかな新機軸だし。まあ書いてけば何か見えてくるかもしれん。

 最初は地獄少女の定番、クラスのいじめネタ。若干込んだ作りになってて、真相は見えづらい。てかラスト人違いっぽくない? 人違いパターンだったらシステム的には三藁の落ち度になるはずだけど、流石にそれはないだろうし、地獄流しが怨みの連鎖を断ち切るものじゃないってことかな。

 お次は、愛し合ってる2人だからこそ互いに地獄流しに救いを見出だすっていう、『二籠』に近いパターン。回顧録もやってたし、軸が見えにくいのは『宵伽』が過去作を総括する意図があるからってことなのかも。

 そして胸糞MAXの3話。一目連も地獄より非道いみたいに言ってなかったっけ。見せ方としては、依頼者側の業を描いてるからやっぱり『三鼎』かな。でも未成年レイプは即刻死刑で良いし、虐められてた人間の実力行使は同情するから、個人的には地獄流しで吹っ切れた依頼者達見て溜飲下がったかな。

 これでシリーズ皆勤賞のつぐみ。この人は地獄流しから逃れられない運命なのね。スタンド使い並みに引き合ってるよ。だからって輪入道に八つ当たりせんでも。この話結局わかんなかったんだけど、多分依頼者が地獄流しをしなくても、つぐみの策で状況は改善出来てたんだよね。それでも晴らしたい怨みのために、依頼者は地獄流しを選択した。今までの流れからして、これが『宵伽』のテーマなんだと思う。

 勧善懲悪の1期を見てると、今だったらこれ地獄通信に依頼しなくてもTwitterに書き込めば一発で相手社会的に抹殺出来るやんってのが割とあったけど、特に4話や6話はその辺へのアンサーになってるのかな。

 そして5話からミチル本格参戦。ターゲットを介して語られるミチルの過去。なんと謂われのないリンチで一家共々鏖にされた結果、怨霊化して村一つ滅すというあい並みの悪霊だったことが判明。それで人面蜘蛛に目つけられて地獄少女刑に処されるところだったみたい。怨霊化すると記憶を失くすのかしら。

 でも待って。地獄少女刑理不尽過ぎるから、あいちゃんは全ての少女霊の罪を背負って未来永劫地獄少女刑に服し続けるという、アルティメットまどか式解決法を『三鼎』で取ったんじゃなかったですっけ? それを経てのうのうとスカウトに来てる人面蜘蛛なんやねんお前。しかもあいちゃん的にもミチルが地獄少女に堕ちることは反対しないんや。罪の重さもあるけど、やっぱ『三鼎』は百合だな。

 なんやかんやで、ゆずきみたく地獄流しに否定的だったミチルも無事地獄少女になりましたと。印象的なのがミチルは「天国」を語ること。西洋文明知らないあいにマウント取ってたのはウケたけど、輪廻転生を踏まえた茫漠なスケール観で善悪の空虚さに立脚するあいに対し、ミチルの方はより近代的な個人の生に向き合う在り方で、ある種の“救い”として“報い”を提示してるって感じ。だから、救いにならないと思ったら依頼の差し止めもするっぽい?(これに関しては曖昧) 個人の意思を蔑ろにすることにかけては作中最も定評ある人面蜘蛛さんがミチルの地獄少女の在り方を許してるのが不思議だけど、なに?あいに嫌がらせされたから妥協案とか?

 

 とまあこんな感じで、1話完結で胸糞回も多いけど、ちゃんとシリーズ通して追ってみると、それなりに見えてくるものがあったよという話。何より「閻魔あい」というキャラクターは、怨みの門の門番「イズコ」や「黒井ミサ」なんかと並んで、アイコン的な強度のあるヒロインなので、まだ知らない人はとりあえず一見の価値ありですよということは言っておきたいです。

 

 

 

 

現代に望まれるヒーロー映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

 

 『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が公開され、筆者も先日鑑賞してきました。この『ノー・ウェイ・ホーム』を以て、ジョン・ワッツスパイダーマン3部作は完結になります。

 ジョン・ワッツスパイダーマンは、思春期の少年がヒーローとしての1歩を踏み出すまでを描いた青春映画であり、その青春の結末という意味で『ノー・ウェイ・ホーム』は大変素晴らしい映画でした。ただその反面、シリーズの完結編として本作を見た時に、「これで終わり?」という消化不良な気持ちもありました。

 なので、『ノー・ウェイ・ホーム』がどういう作品であり、自分が何を見て満足したか、どういうものを自分は期待していたのかについてこの場で書き記し、自分なりに思いを整理することにしました。

 まだ公開日から日が浅いということで、本稿前半ではネタバレを回避しつつ、これから見る人のために、ジョン・ワッツスパイダーマンがどういう物語だったのかをおさらいしながら、『ノー・ウェイ・ホーム』がどういう物語へ着地するのか、その補助線になるような記事を目指したいと思います。

 一方後半では、具体的な描写の内容にも言及しながら、私が気になった点を指摘していきたいです。なので、ネタバレを本作未視聴の方は、前半でブラウザバックを推奨します。特に本作は、仕掛け自体に面白みの1つがある作りなので、内容は知らずに視聴する方が望ましいです。

 

『ホームカミング』について


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 旧シリーズのサム・ライミ版、マーク・ウェブ版と比べてジョン・ワッツスパイダーマン最大の特徴は、トム・ホランド演じる主人公ピーター・パーカーの年齢が最も低く設定されていること。本シリーズ3作品を通してピーターは高校生であり、ヴィランと戦うヒーロー映画として側面ももちろんあるものの、少年が大人の階段を上るティーンエイジャームービーとしての要素が色濃い。

 この年頃の男の子が抱く最大の関心事は、ズバリ恋愛。と言っても、シリーズのメインヒロインMJとの関係が本格化するのは2作目『ファー・フロム・ホーム』からで、1作目『ホームカミング』のヒロインはピーターの先輩で学園のマドンナ、リズ。ピーターとしての彼女との関係は、自身がスパイダーマンであることによって圧迫され、クライマックスで彼は選択を迫られることとなる。

 ヒロインのチョイスはストーリーにも反映されていて、『ホームカミング』(以降『HC』)のスーパーパワーに目覚めたばかりのピーターは、自身を認めさせようと大人の制止を振り切って背伸びし、死傷者こそ出さなかったものの周囲を危険に晒す。肉体の変化に精神が追いつこうと足掻く様は、思春期の少年の葛藤そのものの表れであり、それは年上のマドンナに憧れるピーターにも重ねられる。

 ヒーローとしてのピーターの未熟さ、そして高校生としての私生活とスパイダーマンとしての活動の対立はシリーズに通底するテーマであり、旧シリーズでも焦点となっている。ただ、何度打ちのめされてもぼやきながら立ち上がるへこたれなさスパイダーマンのヒーロー性であり、それは『HC』でも瓦礫の中から「Come on, Spider-Man!」と立ち上がる印象的なシーンとして採用されている。

 そして副題の「ホームカミング」。劇中のアメリカ版学園祭のことだが、“帰郷”と直訳すれば、ピーターがトニー・スタークの元でのアベンジャーズ“研修”を終えて、メイおばさんの待つ“ホーム”へ帰ってきた本編とのダブルミーニングになる。またED後の「Spider-Man will return」のテロップは、『アメイジングスパイダーマン2』以来途絶えたスパイダーマンシリーズの銀幕復帰を謳った意味にも取れる。

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血気に逸るピーター

 

『ファー・フロム・ホーム』について


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 本作の『ファー・フロム・ホーム』(以降『FFH』)という副題は、劇中で夏休みのピーター達が地元クイーンズを離れてヨーロッパを周遊する科学ツアーに出ていることに因んでおり、また偉大なる“父”トニー・スタークを喪って独り立ちせねばならないピーターの寄る辺なさを表してもいる。初めて会う大人達の中で、まだ若いピーターが自らの進むべき道へ1歩を踏み出すのが、『FFH』の物語である。

 本作の舞台は、アイアンマンが自らの命と引き換えに人類の脅威サノスを消し去った後の世界であり、救世主となって死んだアイアンマンの存在がストーリー展開にも大きく影響を及ぼしている。アベンジャーズ解散後の世界における貴重な戦力であり、トニーの秘蔵っ子でもあったスパイダーマンには周囲からの大きすぎる期待が寄せられており、ピーターはその重圧を恐れヒーローの責務から逃げ出してしまう。

 ミステリオはその弱みに徹底的に付け込んでピーターを追い詰める。しかし、悪い大人に打ちのめされたピーターを救ってくれたのは親切な大人達。そしてその代表ハッピー。大衆の求める理想のヒーローなんて、誰もなれやしない。それでも君を信じる人のために戦えるなら、君はヒーローだ。ハッピーの言葉で自信を取り戻したピーターは、己の力で立ち向かうことを決意する。かつてのトニーのように。

 前作ラストで遂に名を明かしたMJが、晴れてヒロイン昇格。冒頭からピーターは彼女にゾッコンで、この科学ツアーを機に彼女との関係を確かなものにしようと考えている。MJは個性的な女性で、リズと最も違う点はピーターを見てくれていたこと。用意した完璧なプランは破綻し、プレゼントのペンダントも割れてしまったものの、欠点がある方が好きと結ばれる2人は本作を集約したシーンになってる。

 ジョン・ワッツスパイダーマンは、スーツがピーターの状況を示す演出として機能する特徴がある。ハイテク・スーツをトニーに没収されたピーターは、初心を取り戻しアマチュア時代のホームメイド・スーツでバルチャーに挑む。アイアン・スパイダー・スーツの重圧に耐えられなくなると、ステルス・スーツで活動したが、自身のヒーロー像を見出だすと自作したアップグレード・スーツに身を包んだ。

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『ホームカミング』の応答にもなってる

 

 そして、ジョン・ワッツスパイダーマン最終章『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、間違いなくこれらの作品の続編となっている作りです。上記の内容を読んで興味を持たれた方なら、見に行って損はないと思いますよ‼️

 

↓↓↓ここから先、ネタバレを含みます↓↓↓

 

 

 

『ノー・ウェイ・ホーム』について


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スパイダーマン映画への愛に満ちた作品

 俺自身のスパイダーマン遍歴は、サム・ライミ版3部作、マーク・ウェブ版2作、アニメの『スパイダーマン:スパイダーバース』、そしてTVシリーズの『アルティメット・スパイダーマン』を見た程度だけど(今作について行けたのは特に最後のがデカかった気する)、その俺からしても『ノー・ウェイ・ホーム』(以降『NWH』)のスパイダーマン映画救済仕様には、監督のスパイダーマン愛をひしひしと感じた。

 特に、シリーズの中でも不遇とされるマーク・ウェブ版の救済がファンからしたら涙で、マーク・ウェブ版で主人公ピーターを演じたアンドリュー・ガーフィールドトビー・マグワイアトム・ホランドに感謝を告げるシーンは思わず胸が熱くなった。クライマックスの1番美味しい所を持っていく歓待ぶりは実質この映画の主役と言っていい。もはやこれ幻の『アメイジングスパイダーマン3』やろ。

 その救済はヴィラン達にも及んで、『NWH』はああいう展開になる。思えば『HC』ではバルチャーの命を救うことに成功していて、その行動に恩義を感じたらしいバルチャーはピーターの正体を隠匿した。トム・ホランド演じた最もキュートなピーターの核として“隣人愛”を据え、それを形成するのがピーターの心の拠り所であるメイおばさんという解釈は、スパイダーマンへの深い理解がないと辿り着けない。

 メイおばさんを喪い、人生で最も深い絶望を味わったピーター。そこに寄り添うことが出来るのは、やっぱりピーター・パーカーだけなのよ。孤独なヒーローという面はスパイダーマンを語る上で欠かせない要素であり、シリーズでもそこへの言及はあったけど、自分しか頼れないピーターの最大の危機に際して、別時空の自分が助けに来る展開は唯一の正解で、わかってたとしても感動しちゃうわ。

 細かい所はもっとあるんだろうけど、スパイダーマン3人が揃って仲良くやり取りしてる姿はそれだけでほっこりさせられる。言葉なんか要らない。多分、監督もこの画が撮りたかったんでしょ。生体ウェブ弄んないであげてよ。(笑) そしてアベンジャーズに居たトム・ホランドが最年少なのに2人の指揮執ってるというね。さすが基準世界人。ちゃんと『NWH』の主人公やってた。

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『HC』のこれサム・ライミ版オマージュだよな

 

シリーズを通した構成の巧みさ

 本作は、そういうお祭り感を前面に押し出した作品であることは間違いないんだけど、シリーズ3作を通して見た時に、この『NWH』から逆算して作ったとしか思えないくらい展開がハマってる箇所もあって、おそらく『NWH』において描かれるシーンに関しても部分的には、『HC』の段階で製作陣の中にビジョンがあったんだと思う。1から10までファンサービスに振り切ってるわけじゃない。

 ジョン・ワッツ版3部作は“本当の自分を知って欲しい”という思春期の悩みに集約されると言っていい。『HC』冒頭でカメラを回すピーター。ネッドに正体バレした時の「スパイダーマン? YouTubeの」。それが『NWH』でスマホを向けられる現代的なシーンに繋がる。等身大ヒーローはネットの有名人に対する好奇の視線には晒されても、真に望んだピーター自身を見てくれる相手を得ることは叶わなかった。

 ベンおじさんの不在がこうして回収されるか。ベンおじさんの死はスパイダーマンにとって重要な通過儀礼で、それを経験してないトム・ホランド演じるスパイダーマンは確かにヒーローとして未熟な面が強調されていた。『HC』でデルマーさんが九死に一生を得たがあそこが分岐点で、過ちの咎を受けなかったピーターは、結果メイおばさんの死を経験するまで喪われる命の実感に乏しいままだった。

 それも納得なのは、そもそもMCUスパイダーマンの誕生は『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカだから。ヒーロー自身の負う責任を重視したキャプテン・アメリカ。彼の盾を奪って始まった物語は、ドクター・オクトパス改心の舞台に見立てられた同じ盾の上で帰結する。最後には私怨を捨てたトニーのように、愛する者達との時間より世界の平和を優先する自己犠牲を、スパイダーマンは選択した。

 この『NWH』は『スパイダーマン:ワン・モア・デイ』を下敷きにしたものだが、『ワン・モア・デイ』も『シビル・ウォー』の顛末を描くものなので、MCUスパイダーマンの帰結としては完全に正しい。『HC』の時点でピーターは望んだ恋を失っているので、3部作の企画が動き出した段階で製作陣には、偉大な救世主と対置される『NWH』の孤独なヒーロー像の構想があったんじゃないかと思う。

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アイアンマンとスパイダーマンの対比
過去最高にエモいスパイダーマン

 ぶっちゃけ『NWH』はエモい。エモエモのエモ。ただ、そのエモさで誤魔化して答えるべき問いをスルーしちゃってない? ジョン・ワッツ、前作、前々作で通してきた縦軸を今作では取っ払っちゃってるじゃん。こういう作りである以上、作品単体としては満足でも、シリーズの完結編って言われるとどうしても納得できない部分が出てくる。以下、その点を具体的に見ていく。

 まず、スパイダーマンを象徴する台詞ながらここまで使わず取ってあった「大いなる力には大いなる責任が伴う」。間違いなくアガるシーンではあるけど、ピーター自分で辿り着いちゃうの? ジョン・ワッツ版はベンおじさんよりメイおばさんが存在感増すことで“親愛なる隣人”の面を強調してたように感じてたんだけど、結果メイおばさんもベンおじさんの役割に回収されちゃうのかよ。

 ベンおじさん不在のMCU版では、トニー・スタークがピーターの父親役。『HC』『FFH』のヴィラン達はスタークに職を奪われた一般人であり、今までの戦いはトニーの負の遺産を引き受ける“父”を超える戦いという意味があった。だのに別時空からヴィラン呼んじゃう?*1 救世主アイアンマンの影に踏み込む展開はMCUで描く意義あるし、等身大ヒーロースパイダーマンが背負う必然性もあると思ったんだけど。

 さらに『FFH』のヴィラン、ミステリオは怪物と戦う救世主の幻影を見せ、「大衆が欲しいのは信仰で、真実じゃない」という言葉を遺した。これはスパイダーマン、延いてはMCUを含むヒーロー映画そのものを転覆させる自己批判であり、一件落着と思った彼の死と共に、EDクレジットでその爆弾は炸裂する。ここまで大上段に前振った、そのアンサーを見せてくれるのが『NWH』なのだと期待した。*2

 ところが、親愛なる隣人を貫いて市井の人々の方を向いてきたスパイダーマンが人民の敵に認定されるというこの窮地は、歴代ヴィランとの戦いの内に有耶無耶にされる。そりゃデアデビル*3が付いてくれれば裁判には勝てるだろうけど、いいのかそれで? 劇中の一般市民から親愛なる隣人は不可視化され、ヴィラン軍団から街を救うスパイダーマンを見た我々は満足する。ミステリオのかけた幻影は未だ解けない。

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アイアンマン批判の物語じゃなかったの?

 

ジョン・ワッツスパイダーマンの目指したもの

 確かに本シリーズがどこまで統一感意識してたかは怪しく、重要キャラのハッピーも『HC』ではトニーとの仲介役、『FFH』ではピーターのメンター、『NWH』ではメイおばさんのファンと作品毎に立ち位置変わってる。*4個人的には『HC』のカレンが消えたのが残念で、スパイダーマンの独り言設定をカレンと喋ってたって解釈面白いと思ってたのに、まさか友達1人もいないからになるとは。

 2作通じて緑色の印象付け*5で『NWH』のボスがグリーン・ゴブリンなのは納得だけど、ヒーローに殺人唆すとどうしても『ダークナイト』のジョーカー思い出しちゃう。ジョーカーも緑だし。まあ、サム・ライミ版グリーン・ゴブリンの役回りバルチャーでやっちゃったから仕方ないけど。あとスパイダーマンに寄り添えるのはスパイダーマンだけって、エモいけどつい最近『スパイダーバース』で見ちゃったしな。*6

 以上のことから、作劇的にも過去2作より粗が目立っていて、アルフレッド・モリーナやウィレム・デフォー名優の演技頼みで強引に仕上げた印象をどうしても受ける。製作にあたってもゴタゴタが漏れ聞こえてたし、そうした大人の事情が作品に影響したのでは。そうでなかったとしても、作品外の状況を邪推させてしまっている時点で、完成度としては一段劣っていると言わざるを得ない。

 邪推ついで、どういう話ならジョン・ワッツスパイダーマン完結作として納得出来たか夢想してみたい。こっからは完全に俺の与太なので聴きたい人だけ。まずイーディス放置がない。フューリーがスクラル人送ってまで渡したのに、これじゃ完全にマクガフィンじゃん。MITのくだりでうだうだやってる尺あったら、イーディスと人民の敵を組み合わせてもっと面白く処理できたやろ。*7

 イーディスに陥れられ、あまつさえ殺されかけたブラッドは、力の犠牲者である本シリーズのヴィランの素地がある。逆に『HC』でピーターの影であり『FFH』で改心したフラッシュは、家族のわだかまり解いてピーターを助ける。「速いだけじゃダメ」が「早く大人になった」で回収される。*8ベティとネッドの「別れても思い出は消えない」はモロ『NWH』。『FFH』の展示組が絡むのアツくない?

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キャップは凄かった

 

 とまあこういう風に、作品として思うところは色々あったわけだけど、スパイダーマンファンが見れば絶対満足する映画になってるのは間違いない。てかそこを目指した作りになってる。俺も見たかったものではなかったけれど、こんだけ長いブログ書きたくなるくらいには楽しめたので、みんなでこのお祭りに参加しましょう。

 

 

*1:ノーマン・オズボーンも確かに“父”ではあるけど。

*2:単なるオチとして処理したり、放り投げるにはあまりに大きいフリと感じたのは俺だけか?

*3:ジョン・ワッツ版はこういう小ネタがかなり多い。

*4:『FFH』の登場の仕方とか、バットマンのアルフレッドっぽい。

*5:『HC』でバルチャーが娘の父親からヴィランの顔に変わる時、信号の緑の光が映り込む。ミステリオは言わずもがな。

*6:『スパイダーバース』1番好き。

*7:デアデビルとアーク・リアクターのくだりは、ドクター・ストレンジ同様MCUシリーズの前振りかもしれん。にしても序盤が無意味すぎて、前半のテンポ自体が悪くなってる。

*8:サム・ライミ版でもピーターが『シャザーム‼』って叫ぶシーンあったよね。

2021年深夜アニメ 個人的総括 13選

 

 2021年も年の瀬ということで、僕が今年見た深夜アニメを個人的に総括していきたいと思います。尚、ここに挙げる13本、なるべく幅広くチョイスしたつもりですが、選出は完全に僕の趣味であり、話題の作品も僕が見てなかったら入ってません。あと配置は流れによるものなので、順位とかじゃないです。それでは早速。

 

ゲッターロボ アーク』


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 選考理由、ゲッター‼️ それに尽きる。

 令和の時代にゲッターロボをやるにあたって、『真ゲッターロボ』『ゲッターロボ號』というゲッターロボサーガの流れは回想等で僅かに触れるのみ、というストロングスタイルながら、サーガ最終章『アーク』に込められた、「ゲッターロボ」という作品の本質を見事に表現してみせた。

 本作主人公の“ゲッター線の申し子達”というのは、まさにゲッターの闘争の歴史を背負って産まれた存在であって、彼等が己の宿業を乗り越えんと戦いに赴く様は、かつてゲッターを駆った戦士達の魂そのもの。その彼等が無限の敵に戦いを挑んでいくアニメオリジナルのラストシーンは、ゲッターという物語が終着点のその先へと突き抜けたことを示す。これぞ令和にアニメ化した理由。

 特に、アニオリの脚色で、定めに抗い続けてゲッター線の申し子達にアークを託したハヤトと、ハヤトの戦いを描き続けゲッターロボサーガを紡いできた石川賢先生が重なる見せ方は、EDのテーマ曲アレンジ繋ぎなんかも全部回収して「戦友よ」をレクイエムへ昇華する完璧な運び。ゲッターよ、永遠なれ‼️

 

『ワールド トリガー』


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 諸般の事情で必ずしも成功とは言えなかったアニメ第1期から空くこと5年。深夜アニメとして帰ってきたワートリは、良作画にテンポのいい展開で原作のポテンシャルを十分に引き出し、見事復権を果たした。

 実は今回のアニメ見て原作1巻から読み始めたんですが、葦原先生のロジカルモンスターぶりがヤバい。(笑) あそこまでガチガチに論理構築しながら、それでも少年漫画的な勢いを保持してる漫画って他にないんじゃないかな。

 2期OPの「Force」が作品のクールさと疾走感を表しためちゃオシャレな曲で、大森元貴氏は去年の「インフェルノ」に続いてまた当たり曲だな。と思ったら次回予告パートのミニコントも健在。キャラが可愛いのも本作の魅力。

 

『Levius -レビウス-』


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 スチームパンク×「あしたのジョー」で言うと今年は『NOMAD メガロボクス2』もあった中で、個人的にはこっち。メガロボクスとの違いで言うと、あっちが最終的に機械を外して生の人間の勝負に収斂していくのに対し、こちらはあくまでスチームパンク的な(この場合サイバーパンクと同義だけど)機械化されたことで際立つ人間の情念みたいなとこに忠実な感じ。

 それが端的に表れてるのが画面のルックで、メガロボクスは昔ながらの線の太い手描きにスモークをかけたような描画で“いなたさ”を目指してるのに対し、『Levius』の世界はポリゴン・ピクチュアズの代名詞フルCG。名前は伏せるけど、今年もCGモデルを使った作画に挑戦して上手く行かなかった作品が多数あった中で、本作のCGは画作りにおいてもテーマとの融合の面でも見事と言って良かった。

 「あしたのジョー」の骨太さも改めて思い知ったけど、それをアレンジしてスチームパンクSFっていう鉄板のエンタメに落とし込めたのはもちろん作劇の上手さでもある。一応言っとくけど、『NOMAD』も凄い良かったよ。「メガロボクス」自体にちょっとクセあるけど、1が好きな人だったら2も絶対好きなはず。

 

ホリミヤ


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 恋愛モノから1作挙げるとしたらコレ。恋愛モノは生々しくなりがちだからあんまり見ないんだけど、これくらい爽やかな青春だと、自分とかけ離れすぎてて逆にアリ。今期再放送してた『Just Because!』なんかもそれで、全員好人物だから純粋にみんな幸せになって欲しいと思える。

 高校生達の青春だけどキラキラだけじゃなく、その裏には他人に言えなかった翳の部分があり、それでも秘密を打ち明けられた仲間とはかけがえのない関係性で結ばれる。シリアスなシーンもあるけど、決して翳の部分は強調しすぎることのない抜け感で絶妙にポップな案配。

 だからやってることはストレートなんだけど、その描写の仕方が凄く繊細で、水彩のような抽象表現があったり、線の細いタッチもあいまって、クドくないけどしっかり酔わしてくれる本作の味わいを作ってる。個人的にはCloverWorksの作品で1番だった。今後もこの方向性アリなんじゃない? 心が洗われる気分になりたい時にオススメ。

 

『やくならマグカップも』


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 多治見市の陶芸部に所属する女子高生達を描いた町おこし系の作品で、1話の風景描写とかそれっぽい。けど、テーマを尊重する地域密着路線を行きながら、ここまで美少女アニメとしての完成度高いもの作れるとは唸らされた。

 正直最初は舐めてたけど、主人公が陶芸と真摯に向き合い始める1期中盤辺りから物語がグッと締まって、2期では仲間達との絆を横軸にしながら、自分と陶芸を繋いでくれた亡き母をも含めた家族の物語、そしてそれが1期から通底するテーマ、として縦軸を通してくる見事な着地。

 リアルな多治見とアニメの姫乃達、部活モノの涙と美少女モノの笑顔、それらの両立のさせ方が完璧で、俺はもう本当15分アニメと思えないくらいボロボロ泣いたし、今年を代表するアニメの1つと言って間違いないと思う。

 

『MARS RED』


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 朗読劇のアニメ化って本作が初らしいけど、その経緯を活かして見事に成功させた。まずシンプルに台詞が強い。そしてその強みを活かす画面作りをちゃんと心懸けてる。敢えてグリグリ動かさず止め絵で見せることで、本作のノワールテイストを引き立ててるのよね。金かける以外にも画を作る方法あるって示してて最高。

 それに劇の監督がそのまま音響監督務めてるから、台詞を言うキャストの芝居も凄く良くてキャラが立ってる。脚本の良さは台詞だけじゃなくて、大正ロマンスチームパンク、吸血鬼といったどれか1つ取っても魅力的な設定を持ち込みつつ、それらを上手く組み合わせて1つの世界観の構築に成功していることでもある。

 大正ロマンだと今年は『大正オトメ御伽噺』も凄く良かったけど、本作は未来の明るさや地に足の着いた人情の面より、ディストピア的な先行きの不安さに寄与していて、意外に『takt op.Destiny』と近い気がする。そういう作り込まれた世界観の中の退廃と美みたいなものに惹かれる人は、是非見て欲しい。

 

スーパーカブ


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 バイク乗りでもないし始まる前は正直全然期待してなかったんだけど、1話見た瞬間、春アニメのイチオシに決定したわ。一応女子高生が主人公だけど、メインキャラの小熊と礼子はあんまり女子高生感ないから別枠。その分椎ちゃんは処女性の塊みたいな娘で、『トロプリ』のさんご、『精霊幻想』のセリア先生と並んでキモヲタ共をブヒらせてくれました。

 監督が朝ドラを意識したと仰るように、“ないないの女の子”だった小熊の心が徐々に色づいていく様が丁寧に描写されてて、映像から目が離せなくなる。劇伴にクラシックのピアノ曲を使ってたり繊細な表現もあるけど、毎話クライマックスはわかりやすくしてあったり、ちゃんとエンタメとして作られてる。

 Twitterでキリコグマって渾名されたり主人公のバイク乗りらしい(?)精神性がフィーチャーされたこともあったけど、個人的にはこういう女の子を見せてくれる物語も好みだし、そうしたエッセンスを持つ作品をこれだけ豊かな広がりを持つ映像作品として仕上げてくれたことに感謝しかない。

 

『平穏世代の韋駄天達』


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 あの『異種族レビュアーズ』天原先生原作のノイタミナアニメは期待に違わぬ傑作だった。『レビュアーズ』同様設定の詰め方には信頼しかなかったけど、『韋駄天』の魅力はエンタメとしてとにかく楽しいこと。

 エキセントリックで尚且つクールなOPから始まるのは、闘いの神“韋駄天”達の物語ってこともあってド派手なアクションは請け合い。その上で死の概念が希薄な韋駄天ってこともあって抜けが良く、人間へのシニカルな目線も入ったり見ていて飽きさせないし、クール教信者先生キャラデザの女の子達はえっちでかわいい。

 タッチや設定はファンタジックなのに、知性派キャラ達の戦略の応酬でストーリーにはちゃんとリアリティが担保されてて、終盤では韋駄天側に蹂躙された魔族側の逆襲も始まり、こっからまだ2転3転ってしそう。今年最も2期が気になるアニメだった。

 

『見える子ちゃん』


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 今年1番の大穴。先述した『レビュアーズ』制作のPassioneが担当した新作はエログロを基調にしたホラーコメディで、原作より女の子の色気マシマシの作り。メインキャラ3人みんなタイプの違ったエロ可愛さ。

 そうしたギャグを見てるだけでも十分楽しいんだけど、それだけに留まらないのが本作。“見える子ちゃん”となった主人公が何を見るのか。見えていてもわからない世界とどう向き合っていくのか。中にはほっこりするような話も交えながら、巧みな構成と演出によってストーリーものとして主人公の変化に視聴者を引き込んでいく。

 ギャグのフリが効いてるからストーリーに入った時の緊張感はひとしおだし、逆に言えばキャラやノリを楽しむホラーやコメディでも引き込むストーリーを作れる。これぞテレビアニメの究極形でしょ。今期で言えば、半分てか9割悪フザケだった『進化の実』も、エンタメの部分はしっかり作ってあって感動したし、『俺だけは入れる隠しダンジョン』もよもやよもや、最終回で泣いちゃった。

 

『オッドタクシー』


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 今年、一般層に最もウケた作品は間違いなく本作だと思う。来年には映画化もされるとか。それも納得で、スタッフ、キャストの布陣を見ても、いわゆるアニオタ向けの作品を志向していたわけじゃないっぽい。ただそれが、アニオタも満足、アニメ見ない人も満足の傑作に仕上がったのは、作品そのものの力と言っていい。

 シナリオ担当此元和津也先生の会話劇の魅力は言うまでもなく、最後の大仕掛け以外にもミステリーとして映像を使ったギミックがそこかしこにあって、木下麦監督のセンスもいかんなく発揮されてた。それら縦軸がストーリーを引っ張ってはいたけど、俺がアニメを見た印象は群像劇。キャラクター1人1人がそれぞれの人生を生きてる。スカートとPANPEEのOPは、彼等の生きる、そして主人公が流す街そのものを唄った歌なんだと思う。

 また、放送終了後にはミステリー要素を補完するオーディオドラマも配信されてて、そうした演出からキャスティングまで含めた少しでも楽しんでもらおうとする試み、オタクに媚びるだけのアニメじゃないからこその努力が、作品を開かれたヒットに導いたんじゃないかな。

 

古見さんは、コミュ症です。


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 なんかランキングとかであんま話題になってるの見ないんだけど、えっ名作でしょ? まあ配信がNetflix独占ってのがネックかな。オタクの度胆抜いた1話から最後までずっと面白かった。ランキングの本命でしょ。

 キャラクターをゴリッゴリにデフォルメしたコメディだから、あのエモさ極振りの1話がなかったら完全に違う見方になってたわ。これもノリはギャグだけど、コミュニケーションの問題、特に古見さんの抱えるルッキズムって結構切実な話で、双方がじっくり時間をかけて向き合っていく他ない。空間を描くギャグ漫画だからこそ、その必要性が逆説的に見えてくるという。

 とは言え、作品としては完全に楽しさに振り切っていて、只野君との相補的な関係性を敢えて最終回には置かなかったのも、クラスから浮いてた古見さんが輪の中に入れたことの方が1期の古見さんの変化としては重要だったからだと思う。これはこれでアリだと思った。そうした懐の深さを具えつつも、全力で楽しいアニメを作ってる『古見さん』評価されて然るべき。

 

無職転生異世界行ったら本気だす~』


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 この作品と出会うまで、俺にとって「なろう」アニメの1番は『このすば』で、このすばが面白いのは事実だけどギャグが上限て底が見えてるなって印象がなろうにはあった。けど、なろうのパイオニアとして満を持して映像化された本作でそのイメージは覆った。なにこれ、ハンパなく面白いんですけど。異世界転生っていうジャンル飛び越えて(むしろジャンルを作った側だから当然だけど)、アニメ作品として最高峰のレベルじゃん。

 俺が震えたのが異世界の作り込みで、その一端は本作を作るためスタジオまで立ち上げたアニメスタッフの尽力でもあるわけだけど、既にシナリオの段階から産業革命以前の文化風習と社会構造のリアリティがちゃんと伴った作劇がなされてる。多少囓った俺からすると、理不尽な孫の手先生は人類学の素養があるか、エスノグラフィーをめっちゃ読み込んで作ってると思う。2期はエモエモのエモで途中ちょっと辛くなっちゃったんだけど、このレベルのドラマ作ってくるの、実写でもなかなかないんじゃないかな。

 今年は『精霊幻想記』も松岡禎丞主人公アニメとしてよく出来てて、『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』も2期の成功に映画化決定と良作なろうアニメが生まれたけど、その全ての原型となったのが本作で、それも納得のクオリティだった。ありがとうございます、ロキシー師匠‼️

 

ウマ娘 プリティーダービー Season 2』


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 今年はウマ娘の年だったと言って、誰も文句言う人はいないでしょう。一応補足しておくと、アニメ『ウマ娘』はアプリの事前登録受付開始した3年前の1期から名作の誉れ高かった。そこから長かった。事前登録のみで一向に出走しないまま3年の月日が経ち、先にアニメ2期が決定。2期放送直前の1期再放送の中で流れたアプリダウンロード開始予告。1期で上がった期待値に2期が応えられるのか。そして本当にアプリは完成したのか。それらの不安が2期の1話、ウイニングポストを駆け抜けたトウカイテイオーの姿を見て一気に吹き飛んだ。Season 2も1期を上回る大成功。アプリも爆速でダウンロード数を伸ばし、旋風を巻き起こしたと言っていい。

 しかし、Season 2のアニメは辛かった。主人公テイオーがそのポテンシャルを存分に発揮できたのは最初だけで、そこからは相次ぐ故障に見舞われキャリアを棒に振ることになる。何度も何度も栄光を夢見、その度に地に叩きつけられ、泥の中を這いずり回る地獄のような日々。1期のスペシャルウィークにも敗北はあったけど、基本的に何者でもなかったスペシャルウィークが日本総大将へ駆け上がる物語だった1期に比べ、トップエリートだったテイオーの転落がテーマの2期は浮かばれることがない。穿ったオタクにはアプリの開発難航の様にも見えて、それでもテイオーは走り続ける。

 雑草と同じ目線に立ったことで、物語はニュースターを生み出す。勝利への執念を燃やし続けたライスシャワー。そしてツインターボ‼️ 10話でどれだけのオタクが涙腺決壊したか。2期のクライマックスは間違いなくターボの奇跡だったわ。そしてこれがトレーナーがそれぞれの物語を紡ぐアプリにも繋がっていく。2期のラストは当然トウカイテイオーの再起になってくるんだけど、以前のような約束された勝利ではなく、全てをかなぐり捨ててボロボロになりながらも、ただひたすらに“勝ちたい”という意志でしがみ付く姿は、この1クールを何よりも物語っていてやっぱり号泣。覇権アニメと呼ぶに相応しい貫禄を見せつけた作品だった。

 

 

『ルックバック』の修正に対する一読者の所見

 

 7月19日に発表された、藤本タツキ先生の書き下ろし作品『ルックバック』に対し、先日編集部名義で修正が入ったことについて、僕も思うところをここに書いておこうかと思います。

 

 

ジャンプ+の対応について

 編集部の意向としては、作中登場する殺人鬼の精神疾患描写を差し替えたということであり、実際の修正もそうなってる。

 まずは、この編集部の対応の何如について。

 我々人類社会は、精神疾患者に対して非常に凄惨な扱いをしてきたという歴史的な事実があり、現在はそれが可視化されたため、そうした偏見を強化しうる言説は是正されるべきというのが現代社会の“モード”である。

 こうした倫理規定がフィクションにも適用されるべきかについては一考の余地があるが、価値観の転換を図るため、ある種反動的に取り締まる必要性は、まあわからなくはない。“マス”メディアで扱う場合には社会的影響力があるということらしく、その要請の結果が「作品内には不適切な表現もありますが、制作時の意図を尊重し、そのまま放送致します」というアレ。

 ジャンプ+がマスメディアなのかは微妙というか正直疑問だけど、こういう声を上げる人達は売れないコンテンツには見向きもしないので、『ルックバック』の話題性が大作映画並みだったってことなんでしょう。編集部は、それに見合った責任の取り方、あるいは逃れ方をしなきゃいけなくなった。

 

 私としては、現代社会でビジネスとしてコンテンツ作りを運営していく上では、仕方ない処置かなと思う。

 現代社会というのは、ネット社会。ネット社会は、良くも悪くもスピードと数に支配されてる。情報の発信、更新が容易であり、それに対して即座なレスポンス、リアクションが返ってくる。しかもそのアクターがネットに繋がる全ての人間であり、目に見える形で“民意”というマジョリティが形成される。ジャンプ+も、そのネットのスピードと数を味方につける、紙ではできない商売の仕方。

 ただし、そのスピードと数の結果生まれたのが、感情で繋がった人々が数の暴力で相手を袋叩きにする“炎上”という現象。ジャンプ+みたいにまともにネットの商売をしたいなら、炎上は避けたい。炎上への対処で1番効果的なのが、火元を速やかに消去し、他に火種となるような発言を残さないこと。一時の感情で集まった野次馬は、火の消えた場所にいつまでも粘着したりしない。

 ジャンプ+は、この問題を“炎上”として処理した。コンテンツを発信する出版社ならば、作家の表現したかったものをこそ守るべきで、外野の声に屈して作品を変えさせるなどあってはならないという意見も、理念としては正しい。もしジャンプ+の対応が、作家を犠牲にして会社を守るものであれば、漫画ファンとしては許せない。

 ただ、ジャンプ+の今回の対応は、紙での出版を見据えての対処であると思われ、作品を残すことを第一とした判断と言えるんじゃないかな。仮にここで“正しい”意見と下手に戦って不買運動なんか起こされたりすれば、最悪タツキ先生自身にも火の粉が降りかからないとも限らないわけだし。

 一読者としてはタツキ先生が食えることが1番なので、ジャンプ+のビジネス的な今回の落とし所も已む無しじゃないかとも思えるし、先生の名前を出さずに編集部名義の声明を出したのも、作家を守らずに編集側が独断専行したとは必ずしも言えないんじゃないかと思う。

 

 私見だけど、今後こういうパターンは増えてくる気がする。

 差別的言説の是正は国際的なモードではあるけど、Twitterなんかの印象でも“正しさ”を求める声は年々強まってるし、誰でも意見を表明できるネット社会では、こうしたわかりやすい“正しさ”はすぐにマジョリティ化する。炎上を回避したければ、“正しい”批判と真っ向から対立するわけにはいかない。

 また、紙の媒体は、表現が不適切と認定されて紙面を変えるならば結構なコストがかかるし、回収ともなれば更に大きな損失が出る。が、今回のように発表の場がweb媒体なら、元データを消去して新規データをアップするだけであり、比較的低コストで行える“現実的な解決策”である。

 そうなれば、変えられるのに変えないとは何事だという声も出るわけで、表現を“正しさ”の方向に導いていこうというモードはより推し進められることになるだろう。この歴史の流れに、表現の自由1本で逆らうのはおそらく難しい。公共の理念に対し、それを侵してまで主張できる権利はない。

 まあ紙媒体でも、版で表現が差し替わったりすることは多々あって、だから初版にプレミアが付いたりもするんだけど、今回の場合その初版そのものが幻となったということも騒動が大きくなった一因でもある。版を残すということ自体がある種の意思表示となってしまうため、仕方ない措置ではあるが、読者からすれば作品を“なかったこと”にされるというのはなかなか耐え難い。今後作品のオリジナルを担保するためには、“人目につかない”同人誌として出版する他ないのかもしれない。

 公開が比較的容易なことや、話題性の作りやすさの点から見ても、ジャンプ+に限らず、新作漫画発表の場としてのwebは、最早定着しつつある。そのネット社会における“不適切な表現は許さない”というモードや、媒体自体の修正のしやすさから言っても、一度人目に触れた作品が修正を受けるという事象は、今回に限ったことではないだろう。それが歴史の必然なら受け入れる他ないが、この先こうしてなかったことにされる作品が増えていくのだとしたら、残念な気持ちはある。

 

 以上のことをまとめると、ジャンプ+の対応はビジネス的な炎上対策で、作家を世に送り出すことを生業としているにしては、少し場当たり的な印象は受けるが、作家を守る責務を放棄したとは必ずしも言えない。

 こうした“不適切な表現に対する修正”は社会の趨勢であり、おそらくどうしようもないが、一度発表された作品がなかったことにされることに関しては、何かしらの手が打たれて欲しいと思う。というのが、私自身のスタンスです。

 まあもし、「ウチは飛んで来る矢弾も全て受け止めて、作家を守るぞ」という気骨のある出版社があれば、個人的には推したい気持ちはあるけど。

 

 

『ルックバック』の中身について

 さて、前置きが長くなったけど、読者としての1番の関心事は、修正によって『ルックバック』という物語が変質させられてしまったのかということであり、俺も本当に語りたかったのもそっち。

 今回の修正に関しては、一応タツキ先生自身から修正したいと申し出があったという集英社側の発表があり、それがどこまでタツキ先生“自身”の意思だったかが読み取れないので、憶測で波紋を呼んでるわけだけど、俺はこれを100%(何をもって100%とするかは置いといて)タツキ先生の意思で、修正によって作品の本質は変わらず、むしろ作品の強度が増したとさえ思っている。

 以下、俺がなんでそう思うのか説明する。

 

本質的な改変ではない

 修正は精神疾患を思わせる描写を書き換えたものだけど、これによって本作の京アニ放火事件に対する接続という最もキャッチーな部分は失われた。それは認める。2年後の7月19日に発表されたことから考えても、先生がこの作品の中にあの忌まわしい事件を落とし込もうとしたことは事実だろう。だが、あの事件はこの作品を構成する本質的な要素だったんだろうか。

 これは俺の価値観になるけど、制作当時の社会状況や作者の半生といった、作品の外部にある情報を汲まななければ読み込めない物語は、完成度が低いと思っている。修正前の『ルックバック』は、読者の共通記憶である2年前の7月19日を呼び起こさせることによって、読者個々人の悲しみを藤野の補助線として引かせることに成功していて、これ自体は秀逸なギミックだと思うけど、それはあくまで補助線でしかない。

 『ルックバック』公開後のリアクションを見て俺が引っ掛かったのが、この作品を読んで改めて2年前の事件への怒り、犯人を許せないという思いが湧いたってやつ。もちろん、作品を読んだ上で、2年前の事件に思いを馳せ、その上で改めて事件に対する感情が去来することはあるだろうし、タツキ先生にもその意図はあったと思う。

 ただ、これは俺の言語感覚の問題でもあるんだけど、「怒り」とか「許せない」っていうのは義憤から来る断罪意識から発せられる言葉で、そうした社会正義の実現って藤野の再生の物語である『ルックバック』からはかけ離れた感想な気がするんだよな。だって藤野は藤本タツキの主人公だぞ。もし許せないが1番なら、生涯懸けて京本の仇を取るだろ。

 修正したいっていうのが100%タツキ先生の意思だとした上で、修正シーンが『ルックバック』の本質を変えないようなものだったとしたら、こうした2年前の事件に引き摺られ過ぎている感想を目にして、敢えてそこと距離を置いたという見方もできるかもしれない。

 

修正の影響

 つっても描写変わってるじゃんっていう人は、もうちょっと作品をよく見て欲しい。今回の修正で見られた感想で、犯人が単なる通り魔になったっての見たけど、そんなわけない。

 テキストで示された「誰でもよかった」って供述を鵜呑みにしてんだろうけど、だったらわざわざ人里離れた美大に乗り込んでいったりはしない。京本を罵倒しながら犯人は、修正前同様、目に涙を浮かべている。台詞を見ても、いわゆる無敵の人なら、美大生が自分を見下してるとは思わない。絵が描けることへの憧れがあるからこそ、絵を描かない人間達の言葉で、絵を描ける人間を否定する必要がある。修正後の犯人も、劣等コンプレックスで自身を押し潰して、絵への愛着が憎悪に変わって美大生に襲い掛かったって部分は何も変わっていない。

 じゃあ何が変わったのか。俺はこの一連のシークエンスを、“「背中を見て」を目にした藤野が瞬間的に創造した、京本が主人公の時空”だと思ってるんだけど、まあわかりにくかったら、藤野キョウが生まれることなく、京本が生きてる世界線だと思ってくれていい。

 絵を描くという行為に救いを見出だした京本に対して、修正前のこの“京本時空”で襲い掛かる犯人は、絵を描く行為が人に与える呪いの面の象徴になっている。救いと思っていた絵が呪いとなって返ってきた絶望を、昔憧れた藤野先生が吹き飛ばしてくれる。その歓びから懐かしくなって描いた「背中を見て」がきっかけで、自分の描いた漫画が京本に対する呪いではなく救いだったことを、こちら側の藤野は知る。

 一方で、修正後の犯人は、より客観的な絵を描く行為に対する抑圧を代弁している。犯人が京本に投げつける”絵なんか描いても役に立たない”とは、京本を喪った藤野が覚えた絶望であり、小学生の藤野が社会から浴びせられた視線。絵を描く行為を否定する社会の抑圧が、絵でしか生きられない京本を圧し潰す刹那、絵を捨てたはずの藤野が昔と同じ京本のヒーローとして登場する。

 修正後では、藤野と京本の最後の台詞がより意味を持つ。小学生の頃ならともかく、大学生の京本は流石に藤野がペンを折った理由、たった今暴漢に投げつけられた罵倒に察しがついている。それでも尚、自分が憧れた藤野先生には聞かずにはいられなかった。そしてその返答は、かつて憧れた藤野先生そのもの。このシーンは、雨の中のスキップの完全に裏返し。たとえ嘘だとわかっていても、その歓びが「背中を見て」を描かせ、同じ絶望にうちひしがれた藤野をもう一度奮い立たせる。

 

 

引きこもり世界大会

 修正前の犯人をあり得たかもしれない藤野って解釈してる人がいて、それはそれで興味深くてなるほどと思ったんだけど、俺の解釈ではむしろ、犯人は京本と対になるように描かれてると思う。

 先も言ったように、藤野は才能の差に対して「やーめた」が出来る人間で、クラスの中心にいる運動神経抜群の空手少女。絵だけに救いを求めて縋り付く京本の方が、絵に囚われた結果凶行に走った犯人に近い。

 「オレのをパクった」って言ってるのも、藤野の作風をパクって「背中を見て」を描いたのは京本だしね。まあこれは関係ないか。何にしろ、犯人と向き合ってる京本の表情から、俺はそう感じた。

 じゃあなんで、犯人を蹴飛ばして怪我をするのか。”京本時空”の導入となる「引きこもり世界大会」。こちら側で京本を部屋から出すことになったこの4コマで、藤野はオチにまだ会ったことのない京本を死体として登場させる。その偶然の一致もあってか、動揺した藤野が4コマの下部をちぎったことで京本時空に切り替わる。

 そうして始まった京本時空で、京本は藤野の介入がないまま美大へ進学し、事件に遭遇する。この世界は、京本の死というオチを藤野がちぎったことで生まれたため、藤野の介入によって京本が死が回避され、代わりに作者である藤野が下半身を怪我する。ということなんじゃないだろうか。

 つまり、京本を救った藤野というのは漫画を否定した藤野であり、足を怪我した藤野というのは無邪気に漫画を描いた藤野。死と怪我が釣り合うのかという問題も、これで説明できるのでは。修正前と後の京本時空の描写をそれぞれ照らしてみる。

 まずは、絵の持つ救いと呪いがテーマだった修正前の京本時空。絵に救われて美大に入った京本は、京本を外の世界へ連れ出した「引きこもり世界大会」の救いの面。絵を呪って美大生を殺した犯人は、京本の死をジョークにした「引きこもり世界大会」の呪いの面。藤野が無邪気に描いた「引きこもり世界大会」には、救いと呪い両方の側面があった。しかし、京本の死に直面し、漫画ごと呪いを否定することで、漫画を捨てた藤野が京本を救う。

 修正後の京本時空では、”社会”を介することによって、それらの表象がより具体的になる。「引きこもり世界大会」が表していたのは、京本(絵)に対する藤野自身の葛藤。社会から引きこもって絵を描いている京本の凄さをわかっている「出てくるな」と、藤野自身が受けた絵を描く行為に対する社会からの抑圧が「出てこい」。そしてそのオチとして、藤野の嫉妬が混じった京本の死。だが、後半がちぎられた京本時空では、漫画を捨てた代わりに抑圧からも嫉妬からも解放された藤野が、絵を肯定するヒーローとして京本を救う。

 

背中を見て

 漫画を捨てたはずの藤野が、なんで絵の表象である京本を救えるのかってなるけど、その答えを示すのが、藤野先生へのアンサーとして京本が描いた「背中を見て」。

 悪漢を蹴飛ばして京本を救った藤野は、あたかも藤野キョウの描くシャーク様さながら。だが、実際の藤野は漫画のヒーローにはなれず、足を折るというダサさを見せる。そのことが、「背中を見て」のオチに直接的な反映として表される。

 だが、京本が描きたかったのは、そんなエッセイ漫画ではなかったと思う。「引きこもり世界大会」に救いと呪いがあったように、この「背中を見て」も両側面なのだ。

 絵の救いの面を表す京本を救ったものの、犯人の持つ呪いの鎌が突き刺さった藤野先生は、漫画を捨ててしまっている。ケガはないかと尋ねておきながら、自分自身重傷を負ってる情けない姿が、京本からははっきりと見えている。「何も役に立たない」という言葉に潰されても、先生としてカッコつけるダサい藤野が、「背中を見て」で京本の描きたかったもの。

 じゃあ藤野を揶揄したくて描いたのか。当然そうじゃない。それが端的にわかるのが、作風。この4コマのスタイルは明らかに藤野先生をトレースしたもの。学級新聞に京本が描いた4コマは全て風景画で、それは行けないけど行きたいと強く望んでいた場所。

 中盤、制作ペースが上がるに従って、2人の描く漫画が京本の画力を活かしたものから藤野のアイデア勝負の作品にシフトしていき、遅筆の京本にそもそもの作業がなくなった結果1人旅を始め、行けない場所が実在する空間から美術の世界へと移り変わっていく。

 その京本が、藤野先生の作風で4コマを描いたのだ。なぜなら、藤野先生の背中こそが、京本を夢へ向かって歩かせてくれたから。たとえハッタリだろうが、私の前では救いを与えてくれた藤野先生のままでいてくれた。自分は抑圧に屈していても、絵に縋って生きる私を肯定してくれた。そのダサい背中こそ、私にとってのヒーローそのもの。

 藤野先生の背中を見て成長した証として、藤野先生の作風をトレースした「背中を見て」を、京本は描いたんじゃないだろうか。

 

藤野の再生

  京本を部屋から出した「引きこもり世界大会」とちょうど対に、「背中を見て」は藤野を京本の部屋へ招き入れる。そこで藤野が見るのは、彼女の知らなかった京本の視界。

 「引きこもり世界大会」が部屋の外へ導いたように、「メタルパレード」の賞金が町へと連れ出したように、藤野は漫画を描くことで京本に歓びを与えられると思っていた。遊びきれない程のお金と同等の「描いててよかった」という思いは、初めて会った時に京本が藤野にくれたものだったから。だからこそ、袂を分かった後でも”藤野キョウ”の名義を残し、京本がいつでも帰ってこれるように漫画を描き続けた。

 それが、京本の死によって、全て無駄に終わる。自分の描いた漫画が救いではなく呪いだったのではないかと転化する。自分の背中を見たせいで、京本があれほど恐れていた社会との接点を生み出してしまったのではないかと絶望する。

  そこに、「背中を見て」が挿し込まれる。漫画家として活躍する藤野キョウは、夢への1歩を踏み出したばかりの京本にとって、憧れだった。思えば読切執筆時のスタイルも、ちゃぶ台で描く京本は、常に勉強机で描く藤野の背中を見続けていた。

 部屋に飾られた京本の半纏。その背中には、藤野が生まれて初めて書いたサイン。藤野にとって京本は、自分のファン第1号であり、自分の漫画を肯定し、漫画家にしてくれた存在。

 京本と違い、藤野の描く4コマは全てギャグ漫画だった。それは、読む人が楽しんでくれることが藤野の歓びであり、漫画を描く動機だったから。そしてその歓びをいつも味わわせてくれたのが、自分の1番のファンであり、最初にリアクションをくれた京本。京本に認めて欲しくて漫画を描き、いつしか漫画家になっていた。

 半纏の背中で堂々と存在感を放つそれは、藤野の漫画が京本にとってどれ程支えになっていたかを物語る。藤野の背中を見て前へ歩き出すことができた京本の背中が、今この瞬間の藤野を立ち直らせるのだ。

 

ラストシーンの解釈

 京本との思い出が去来する中、藤野は自分の漫画を読み返して涙を流す。さっきまでの、漫画に絶望して流した涙とは対照的に。

 京本の部屋で見た光景は、漫画に呪いがあることを思い知らされて尚、その救いを信じた京本の遺志に藤野の目を向けさせた。あるいは、結局社会の中で京本を幸せにすることができなかった無力感から漫画を否定した藤野に、漫画を通して得られた京本との楽しかった時間を思い起こさせた。

 そして、今の自分が漫画家であること、京本によって漫画家にしてもらえたことを噛み締める。京本の部屋を出た藤野は、仕事部屋で一人机に向かう。救いも呪いも引き受けて、京本が信じた救いを本当にする。京本が見せてくれた歓びが、嘘じゃなかったと証明する。その決意が宿った背中が、本作のラスト。

 何度も言うけど、これはあくまで俺の解釈であって、これを読んでる人の中には「そうじゃねえだろ」って思ってる人もいると思う。『ルックバック』は、そういう解釈の幅を持たせる作り方をしてるし、俺自身も他の人がどういう解釈をしたのか知りたい。馬鹿なお前に俺が正しい読み解きを教えてやるって人がいたら、匿名コメントでいいから書き込んでみてくれ。

 ただ、どんな解釈だろうと、この物語の根本は、悲劇的な事件に対して己の無力を痛感した漫画家が改めてペンを握るまでの再生だと思うし、それは修正前にしろ後にしろブレないと思っている。

 タツキ先生は、非常にセンセーショナルな事件を題材にしながらも、主人公を一漫画家としてあくまで内省的な物語の形で作品を綴じた。だから、犯人の台詞が変わったとしても、物語の本質は変わらない。これは社会に対するメッセージではなく、悲劇の受容の方を描いたものだから。

 むしろ、絵の持つ救いと呪いという抽象的なテーマの修正前より、修正後の社会の中における漫画家というテーマの方が、京本時空も藤野の物語として芯が通ったと感じるのだ。

 2年前の7月19日との直接的な繋がりが断たれた修正後においても、悲劇を受け止めて前に進む藤野の背中は強烈な印象を残す。それはあたかも、京本時空に切り替わっても京本を救ってくれた藤野先生のようであり、それこそが京本の愛した漫画の力なのではないだろうか。

 

 

カタリナ・クラエスの痛快活劇を見逃すな‼️ 『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…X』放送記念記事

 

 7月から、アニメ『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…X』(通称『はめふら』2期)が放送されます。

 1期が好評だったようで、2期はキー局放送になるため、これを機に『はめふら』へ触れるという人も増えるのではないでしょうか。

 1期を大いに楽しませてもらった身として、私自身『はめふら』の何がそんなにハマったのかについて、この場で語らせていただきたいと思います。

 

 

異世界転生モノ

 まず、『はめふら』の原作は「小説家になろう」で連載されていた“なろう小説”です。

 “なろう小説”の特徴として“異世界転生モノ”というジャンルが隆盛を誇っており、本作もその1つです。

 ざっくり言うと“異世界転生モノ”とは、現代日本に生きていた主人公がゲームの中のようなファンタジー世界、謂わば“ゲームファンタジー”といった世界に転生し、生前のゲームの知識を以て活躍するというあらすじのものを指します。

 昨今、深夜アニメにおいても、この“なろう小説”を原作とした“なろう系アニメ”が一大ジャンルを築いているといった現状です。

 この世界観のベースとなるゲーム、基本的にはRPGが多いのですが、それが乙女ゲームであるというのが、『はめふら』を他の“なろう系アニメ”から一線を画している特徴です。

 

乙女ゲーム

 ウィンドウ内の文章を読み進めながら、現れた選択肢によって分岐するストーリーを楽しむアドベンチャーゲームというジャンルがあります。その中で、美少女キャラクターとの恋愛がメインとなるものを美少女ゲームと言います(例:ときめきメモリアル)。その対となる、女主人公をプレイして男性キャラクターとの恋愛を楽しむのが乙女ゲームです。

 乙女ゲームなんかやったことないという方、ご安心ください。僕もやったことありません。なので、ここからの説明はごく大雑把なものになりますが(反論ある方はコメントください)、基本的には『シンデレラ』のストーリーをなぞると思ってください。不運な境遇に生まれながら、運命の導きによって王子様と結ばれる、それが主人公キャラ。そして、恋敵となるシンデレラを理不尽に苛める義理の姉妹が、悪役令嬢です。『はめふら』では、この悪役令嬢に転生してしまった主人公の物語になります。

 今となってはこの乙女ゲームを下敷きにした“悪役令嬢モノ”は、「小説家になろう」の人気ジャンルの1つですが、きっかけはこの『はめふら』であり、それは裏を返せば『はめふら』までは乙女ゲームの“なろう小説”化が難しかったことを意味します。以下、それが困難な理由、及び『はめふら』がいかにその難点を突破したかを僕なりに語っていきます。

 

シンデレラストーリー

 一見、乙女ゲームもといアドベンチャーゲームは、ゲームの構造がそもそも限りなく小説に近いので、下手したらRPG以上に小説化しやすいように思えますが、そこには落とし穴があります。

 RPGの場合、レベルアップという主人公の成長が前提としてあり、また魔王を倒すという大義がそのゴールとなります。このフォーマットに沿って行けば、必然的に読者を惹き付けるエンタメ作品として完成するわけです。

 翻って乙女ゲーム、ここではその雛型『シンデレラ』の物語を見ていくと、最近ではそこに批判や新たな解釈も加えられたりしますが、大きく言えば、無垢な主人公が(出自/魔法使い/王子様といった)外的な要因=運命によって、権力者の妻という私的な幸福を達成する。それが、いわゆる“シンデレラストーリー”です。

 こう見ればわかるように、シンデレラストーリーのカタルシスとは、圧倒的に不憫で純粋無垢な少女が、読者の代理である第三者の手によって救済されることにあります。とりわけ、王子様と結ばれるに当たっては、それが“真実の愛”であることを裏付けるため、手練手管を弄することはタブーとされます。

 仮に、主人公がゲーム知識という自助努力によって幸福の達成、恋愛の成就を目指した場合、恋敵達を出し抜くというムーヴが必要になり、主人公の無垢さは失われ、シンデレラストーリーとしては完全に破綻です。王子様の愛を受けるには、シンデレラは無垢でなければなりません。

 逆に、あの手この手を使って王子様を振り向かせようとする悪役令嬢とは、この場合、特権を有した主人公に対し、正当な努力で恋愛の成就を目指しているに過ぎなくなります。ゲーム知識により危機を回避できる主人公が、さらに運命の後押しまでもらって恋敵を押し退けても、カタルシスは得られません。

 つまり、乙女ゲームを基にした“なろう小説”には、主人公が努力を封じられた共感を得づらいキャラクターであり、悪役令嬢への勝利が自己本位にしかならずカタルシスを生まないという、2つの大きな欠点を孕むことになります。

 

カタリナ・クラエスという主人公

 では、『はめふら』は如何にしてその瑕疵を回避し、傑作となり得たのでしょうか。

 『はめふら』に施されているギミックの1つは、タイトルの通り、転生先をシンデレラではなく悪役令嬢にしたことです。これにより主人公は、無垢の強制から自由になり、どころか破滅回避という努力のための正当な理由まで獲得できます。悪役令嬢への転生は、努力する共感を呼びやすいキャラクターへと主人公を転化させました。

 かと言って、無垢なシンデレラを虐げては、折角掴んだ読者の心は離れてしまいます。そこで『はめふら』の主人公カタリナは、恋愛ゲームでの勝利ではなく、農業技術の習得による自活という明後日の方向への努力を見せます。努力はするけど天然という無敵のキャラクターによって、一度失った無垢な精神性を取り戻し、カタリナは再び王子様の愛を受ける資格を得るのです。

 以上見てもらえればわかるように、『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』とは、明後日の方向へ全力疾走するカタリナ・クラエスという愉快痛快な主人公が、持ち前の明るさと溢れ出る行動力で、乙女ゲームというシンデレラ構造を打破していく物語なのです。

 これを読んで少しでも興味を持たれた方は、7月から始まるカタリナ・クラエスの活躍を覗いてみてください。